2000年2月14日

 その手はどうしたのだと聞くと、向かいのレイチェルおばさんの庭からバラを失敬したときに刺でやられたという。雑に貼った絆創膏の下から血がにじんでいる。

 ジョニーはキッチンからアルミホイルを持ってくると、盗んできたバラの茎に銀紙を巻き付けはじめた。


「アヤコに怪我させちゃいけないよなぁ」


 そのホスピタリティは素敵だが、厚手に巻いているうちにフライドチキンの足のようになってしまった。神は、グラフィックデザイナーを目指す彼に「器用さ」と「美的センス」を与え忘れたようだ。


「あ、そうそう。キミにも渡すものがあった」


 ジョニーは自室に戻ると、赤い包装紙にくるまれた小さな包みを持ってきた。


「ハッピーバレンタイン!これはキミへのプレゼント。今夜手伝ってもらうお礼だよ。変な意味じゃないから勘違いしないでよね」


 包みはラファエロのホワイトチョコだった。そのバラよりこっちのほうがいいんじゃないかと言ってみたが、ジョニーは笑って相手にしなかった。それにしてもこんな気遣いしてくれるなと悲しい気持ちになる。包みをひとつ解いて口に放り込む。今夜起こる出来事を思うと、甘さよりも苦みが際立った。



 午前中、ジョニーはキッチンで長いこと誰かと電話していた。立ち聞きしなくても相手は誰だか分かっている。ジョリーの茹ですぎてコシのなくなったパスタを黙々と口に運びながら、今宵予定されている”最悪の人身事故”が近づいてくる足音に耳をふさいだ。


「アヤコの家で夜7時になったから」


 まだ時間があるから美容室に行ってくるとジョニーは軽快に出かけて行った。静かになったキッチンにジョニーのノートパソコンが置きっぱなしになっていた。素早くログインすると、案の定新着メールが1通光っていた。


<先ほどジョニーから電話があり、今夜あなたも一緒にわたしのアパートに来てくれると聞きました!すっごく楽しみ。早く夜にならないかな(笑)>


 アヤコからのメールにおもわず額を押さえた。


 こざっぱりして帰ってくると思っていたが、玄関を開けて入ってきたジョニーを見て言葉を失った。伸びた髪を栗色に統一させたまではいい。ところがそこに金持ちマダムのようないやらしいウェーブをかけて帰ってきたのである。


「ついでにこれも買ってきた。格好いいだろ?」


 青紫が入った四角いサングラスを指さし少しあごを持ち上げた。脂肪の乗った二重あごとほうれい線のおかげで、”サッチー”こと野村沙知代その人にしか見えない。無理してMサイズにしたピンク系統のシャツもはち切れんばかりに悲鳴を上げている。


「そろそろ出かけるよ。アヤコのアパートまで歩いて30分ぐらいかかるから」


 ジョニーは青紫のサングラスにタバコ臭い息をかけて磨いている。

 人類が、鳥のように空を羽ばたくことに挑戦する古い映像を思い出す。

 めいめい航空力学を無視した”翼のようなもの”を装着し、観衆が見守る中高台から海へと飛び立つ。そしてもれなく3メートル下の海面に墜落していく。友人が派手な水しぶきをあげる図など見たくない。思いとどまらせようと手を挙げたが、すでにジョニーはスニーカーを履いて玄関の外から手招きをした。


 普段から笑顔を絶やさないアヤコだが、ジョニーの姿を見た瞬間ドアノブを持ったまま石膏のように固まった。300豪$を投下したジョニーのアップデートは逆に減点となった。


「…あとコレ、みんなで食べようと思ってさ。アイスクリームだから冷蔵庫に入れておいて」


 なるほどアヤコの前のジョニーは、幽霊でももう少しハッキリとした声を出せそうなものだ。ちなみにそのアイスはちょっとバッチいことになっている。道中ジョニーが手を滑らせ、一度草むらの上に落ちているからだ。バラを引き抜いた際の傷がしみるくせに、「これはオレからアヤコに渡すんだから!」と駄々をこねた結果であった。


 赤いソファの真ん中にアヤコを据え、両隣に俺とジョニーが座った。ところがアヤコは基本的にジョニーに背を向け、俺との日本語でのおしゃべりを楽しんだ。俺はいちいちそれをジョニーに訳してやったが、状況がひっ迫していることはヤツにも伝わっているらしく、彼はただ頷きながらどのタイミングでシュートを打つかだけを考えていた。

 そして、突然ジョニーが立ち上がった。


「アヤコ。今日は話がある」

 

 あまりの間の悪さに、俺はうっかりジョニーの英語をアヤコに中国語で伝えてしまった。アヤコは爆笑して目尻をぬぐった。もはや真面目な雰囲気など指を伸ばしても届かないところへ転がっていってしまった。想いを告げるのにこれ以上最悪のタイミングはないが、ジョニーは羽を広げるといきなり高台の上からジャンプした。


「…アヤコ。キミと話しているとまるで空を飛んでいるようだ。国籍は違うけどきっと仲良くやっていけると思うんだ。だから…」


 なぜかジョニーは俺とアヤコの間に膝まづいた。手にはカバンの中で少し曲がったバラが一輪握られていた。


「あなたのことが好きです。僕と付き合ってください…」


 ジョニーは消え入りそうな声で、しかし最後まで頑張った。

 ところがアヤコは突然の展開に絶句し、膝の上でこぶしを握ったまま固まってしまった。俺は間違いなく人生の中で3本の指に入る最悪のシーンから目を背けようと、テーブルの上で溶け始めたチョコアイスを見つめた…。

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