2000年2月16日

<――前回と同じ駅を出たところで待っています>


 アヤコにしてはあまりにも短いメールだった。

 ジョニー、アヤコ、そして俺にとって、今年はただただ苦いだけのバレンタインとなった。図らずもそれぞれの想いを把握していたのは俺だけだった。うまく誘導していればこんなことにならずに済んだのではとも思う。

 昨晩ジョニーはカップ麺に湯を注ぐと、何も言わずそれを持って自分の部屋に消えていった。しばらくはその弔いに付き合ってやらねばならない。しかしこの哀れな姿は、アヤコにとっては必ずしも同情を誘うものではなかった。


 パース駅に到着した電車から降りてくる人の波の中に俺を見つけると、アヤコは弱々しく手を振った。


「…いつもワガママばかりでごめんなさい」


 最初にどんな言葉が出てくるのかと緊張していたが、それは人混みにかき消されてしまいそうな「ごめんなさい」だった。静かにうなづくと、バレンタインの前にも行ったキングスパークに向かって歩き出した。



 バレンタインの夜10時、ジョニーはいきなりアヤコの前に膝まづき、ギュッと握ったバラを突き出して顔を伏せた。


「え、ちょっと…」


 突然の展開にアヤコは喘ぐのが精一杯だった。

 そして「(キミと話しているとまるで空を飛んでいるようだ)」という意味不明なポエムを俺に通訳させたジョニーは、想像通り汚い音を立てて海面に墜落した。


「…気持ちはありがとう。でもわたしもうすぐ日本に帰らなければならないし。それにわたしには好きな人がいます」


 彼女は目に涙を浮かべながら、遠回しな言葉でジョニーを慰めた。

 猫背になってアパートを去るジョニーの表情は20歳は老け込んで見えた。


「…たしかにアヤコはもうすぐ帰国しなければならないけど、もう一度アタックしたら考え直してくれるかなぁ?」


 夜道をトボトボ歩きながら、ジョニーは救いを求めてきた。


「とりあえず気持ちは伝えたんだ。それだけでも自分に自信を持つべきだろう」

「そうだよなぁ。告白するってすごいエネルギーだよなぁ。オレ頑張ったのかなぁ?」


 こうなることが鮮明に見えていただけに、スカスカな励まししか出てこない。

 は、トレードマークの青紫のサングラスを外して目をこすった。ほうれい線の影はいつになく深い。


「よし、とりあえず飲むか!」


 国道沿いで夜遅くまでネオンを付けているスーパーを指さすと、俺は努めて明るい声を出した。しかしビールだけでよせばいいものをウイスキーまで買い込んだ結果、ヤツは明方までトイレで嗚咽を漏らしていた――。



 パースシティーが一望できる丘の上に着く頃には、アヤコの涙も乾いていた。


「――ジョニーから電話があった時点で何となく予感がしたんです。でもまさかその通訳をあなたに頼むなんて思わなかった。そんな告白ってあり得ないですよね?」


 アヤコからすれば「まずそこからして」である。同時通訳を使った愛の告白などたしかに前代未聞だ。


「仮にですよ、彼と付き合うことになったらいちいちあなたに通訳をお願いしないといけない。その辺あの人はどう考えていたんですかね?」


 この期に及んでジョニーのフォローをしなければならない立場は辛い。


「まぁアイツとしては精いっぱいだったわけで。こちらこそスミマセンでした」


 訳も分からず俺は頭を下げた。アヤコもかぶせるように、「謝るのはこっちです」と慌てて言葉を被せてきた。


「アイツはアヤコさんに告白するために、バレンタイン当日パーマをかけに行ったり、新しい服を買ったりしたんです。アイツなりにバッチリ決めてきたつもりだったことだけは分かってやってください」


 アヤコはたまらず噴き出した。


「別人すぎてビックリしました。結構使ったんでしょうけど」

「締め高300豪$(約2万円)です。それだけかけて野村沙知代になりましたが肝心の声が小さすぎました」


 アヤコは手足をばたばたさせて笑い転げた。


 パースシティーの止まらない夜景を横に、スワン川沿いをどこまでも歩いた。立ち止まったカップルたちが唇を吸い合う音を立てている。


「…それから先日のことですけど、別に日本に好きな人が待っているってわけじゃないですから」


 横を歩くアヤコの手の甲が、何度か俺の手と触れ合った。「あの場はああでも言わないと収まらなかったでしょうからね」と受け流した。ところがアヤコは急に足を止めると、俺に向かってハッキリと声を出した。


「わたし、本当に好きな人がいるんです!」


 心臓が高鳴った。

――ダメだ。聞いてはダメだ!


 が、遅かった。

 アヤコはサッと俺の左手を両手で握ると、「わたし、あなたのことが好きになんです!」と一息に言い切った。


「旧正月のあの時からずっと好きだった。ジョニーの言葉を通訳してくれた時もあなたからの告白だったらと思ってしまった。日本に帰ってからもずっと一緒にいたいの」


 そこで言葉を区切ると、アヤコは急に声のトーンを落として下を向いた。


「…でも義理堅いあなたのことだから、ジョニーのことが気になるでしょ?だから今すぐに返事してくれなくてもいい。わたしが日本に帰るまでにお返事ください」


 こうなるのではないかと薄々感じていたが、これ以上進めば俺は大切なものを失ってしまう。激しい動揺を感じつつ結局俺が取った行動は、その場でアヤコの唇を奪ってしまったことだった…。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る