2000年3月27日
サキはバスルームからひょいと顔を出すと、俺を上から下まで見て「うん、やっぱりバックパッカーって感じより全然いいよ」と頷き、再びバスルームに消えた。
朝起きるとテーブルに小さなメモがあった。<最後の夜にふさわしい格好で待ってて>とあった。その曖昧な指示を汲み、黒のスラックスと新品の白いシャツを用意して待っていたが、ベッドに腰掛けていた俺を見るなり「今夜からここで働く気なの?」とサキは俺を指さして笑った。
サキはしばらくバスルームでガチャガチャやっていたが、やがてオフショルダーのドレスを着て出てきた。
「これならヘレン・カミンスキーも怒らないでしょ?」
来たばかりの頃にプレゼントしたラフィア椰子の大きな帽子を頭に乗せると、「出かけるよ、相棒!」とサキは俺の手を取った――。
シドニー湾のまばゆい光の中をディナークルーズ船は静かに出港した。ハーバーブリッジやオペラハウスを掠めながら、シドニーの思い出の中をゆっくりと泳いでいく。
「――落ち着いて食事をするプランもあったんだけど、今夜は思いっきり賑やかに過ごしたいから」
タイトルに<SHOW CRUISE>とあるように、食後はマジックやダンスといった様々なエンターテイメントが用意されているという。ともすれば、この数週間の思い出話しで湿った夜になりそうなところを、ド派手なパーティーが全てを吹き飛ばしてくれる。俺はそうしたサキの心遣いを壊さないよう、そっと顔を背けて鼻をかんだ。
「――こんばんは。日本の方ですか?」
ウェルカムシャンパンを傾けながら窓辺の景色に見とれていると、燕尾服の男が声をかけてきた。
「マジシャンのアスカジョーと申します。今ご挨拶を兼ねて各テーブルを回らさせていただいていたのですが、もしよろしければ何かお見せいたしましょうか?」
どうでもいいが、男はだいぶ船に弱いのか、こめかみから汗を垂らしながら青い顔をしていた。口を開けたまま固まっている我々をよそに、「さて何がいいかな」と男は勝手にトランプを取り出しながらつぶやいた。いつの間にか男の冷たい汗は止まっていた。ばかりか背筋も伸び、深いため息の中からすっかり蘇っていた。
「――こちらは何かのシンボルですか?」
引いたカードにサインを求められたサキは、そう確認されなければ分からないほど下手クソなクマちゃんの絵を描いた。どう見てもブタにしか見えない。
「…ではここからです」
混ぜたトランプの上で男は大袈裟に指を鳴らした。すると真ん中に入れたはずのクマちゃんが一番上から現れた。男はふたたびそのカードを中程にもどしたが、指を鳴らすたびにクマちゃんはトランプの束の一番上から現れた。
「このカードを持って指を鳴らせばお二人はどんな時でも一番になれます!」
キザなセリフを残すと、男は少しよろめきながら去っていった。
記念に頂いたそのカードをヒラヒラさせながら、サキはその背中に感想を述べた。
「指を鳴らすと一番って言ってたけど、アタシたちそんなことしなくても毎晩イッちゃうもんね?」
マジシャンがテーブルに残していった奇跡とやらを、サキは5分もしないうちに下ネタにした。
「…アイツ、絶対友達いないな」
他のテーブルで断られ続けた男の顔は、みるみる土色になり始めている。さすがのマジシャンも指を鳴らすだけでは船の中から脱出できないらしい。
その後ニューオリンズのジャズカルテットや、ロシアサーカス団、そして再び正気を取り戻したあの男によるイリュージョンショーと続き、最後はムーランルージュ出身のダンサーたちのフレンチ・カンカンがシドニー最後の夜を飾ってくれた。
「――9月にはオリンピック始まっちゃうからしばらくは休み取れなさそう」
帰りの道すがら、サキは街灯にぶら下がったポスターを恨めし気に見上げた。
2000年9月15日から2週間、シドニーは4年に一度のスポーツの祭典による観光客を目論んでいる。
「ナミエとアタシの誕生日もちょうどオリンピック真っ最中だし」
サキが「ナミエ」と呼び捨てる安室奈美恵とサキは、同じ年の同じ日に生まれた。「だからアタシたちは双子なの」と飛躍しつつ、サキは部屋にサイン入りポスターを貼って応援してきた。
ようやく部屋に戻ったサキは、冷蔵庫で冷やしておいたイチゴを口に放り込むと「サイアクだよ」とベッドに倒れ込んだ。サキはそのままイチゴを頬張っていたが、やがて鼻をすすり始めた。
「…ゴメン、リュウが帰るまで絶対に泣かないって決めてたのに。でも寂しいよ!寂しくて死にたいよ!寝相ひどかったらベッドから突き落としていいから一人にしないでよ!」
本当に辛いのは、これからもシドニーに残るサキの方だ。俺もこぼれてきたものを薙ぎ払うと、無理やり笑ってサキの口元を指さした。
「イチゴの汁で吸血鬼みたいになってるぞ」
「顔なんてどうでもいいよ!そのままのアタシを好きでいてよ!」
語学留学から始まったオーストラリアの旅が終わる。その最後の夜にいたのは、口の周りイチゴを汚した、世界一可愛いホテルマンだった。サキの体温を忘れないようギュッとした。サキは「泣くなんてズルいよ」と言いながらどんどん声を上げていった。
奇跡など、マジシャンが指を鳴らして叶うほど単純なものではない。ほんの少しタイミングがずれれば、ありふれた失敗になってしまうのだ。俺たちに奇跡のトランプなどいらない。このぬくもりこそが奇跡なのだ。
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