2000年2月20日
フリーマントルのフェリー乗り場から西に18キロ。ロッドネスト島は、エメラルドグリーンの海と白い砂に囲まれていた。
”ちょっと出かけてくる”というウソは、いつの間にか1泊2日のお泊り旅行に変わってしまった。
「――今日中に帰る予定だったんだが結構人が集まっちゃって。今日の夕飯はいらないってナンシーに伝えておいて」
「わかった。have fun《楽しんで》!」
ジョニーは何の疑いもなくロッドネスト島からの電話を、パース郊外のタイ人宅からとして受け取った。近くのお土産屋でTシャツを眺めているアヤコが見える。受話器を置くと、罪悪感に目がくらんだ。
ロッドネスト島への1泊2日は急に決まった。
「その島にしかいないクオッカっていうかわいい動物がいてね。一緒に行ってみたいな、お泊りで…」
アヤコはカバンの中からCDほどの大きさの包みを取り出した。
「それからこれ。少し遅くなってゴメン。でもこれは本命だからね」
大きなハート形のチョコだった。今までの恋愛が複雑すぎたのだが、こうして小さなプレゼントを交換し合ったり、カノジョが行きたいという場所をつぶしていく普通の恋愛がうれしい。試しに早速旅行代理店に電話したところ、1時間後の便にちょうどあと2席空きがあることがわかった。
…こうしてロットネスト島に新しい朝が来るまで、何度も胸と胸を重ねた。
”こんな恥ずかしい格好できないよ"という仕草も一滴残らず受け止めさせた。彼女の恥じらいが、ソーダのように喉の奥で弾けた。
なぜ動きを止めるの?とうるんだ瞳がいう。
「…そんなに声上げるから痛いのかなって」
「そんなこと気にしなくていいのに」
そういってアヤコは俺の首に腕を回して引き寄せた…。
島の朝5時は、絹のように柔らかい風と濃い緑の中に沈んでいた。シャワーを浴びて窓の外に目をやると、何かが中庭に集まっていた。
「…アヤコ、来てごらん」
彼女は白いシーツに包まりながら「もう少し寝ようよ」とくぐもった声を出したが、催促されて窓の外を見ると目を輝かせた。ホテルの中庭でクオッカの群れが木の実を食べていた。目をクリクリさせた可愛らしいラットたちが中庭に出たアヤコの膝に集まってきた。
「ありがとう、連れてきてくれて」
彼女は立ち上がるとキスをしてくれた。
この島には一般車両の乗り入れが禁止されている。インド洋からのさわやかな風の中を2台のマウンテンバイクが走り抜ける。道の端に停めると、白い砂浜を踏みしめながらエメラルドグリーンが寄せるところまで歩いた。
「――なぁアヤコ。東京に帰ってからも会ってくれるよね」
「パースだけのいい思い出で終わらせるつもりだった?」
なぜそんなことを気にしたのかうまく言葉にならなかった。
「いや、お互い海外っていう特殊な状況だったし、東京に帰ったら急につまらない男って飽きたりされないかなって」
「昨日の夜はあんなに積極的だったのに意外と繊細なんだね。東京でもグイグイ引っ張ってくれると思ってた」
むしろグイグイ引っ張っているのはアヤコのほうだ。
「パパはデザイナーとして成功した人だけど一切家庭をかえりみない人だった。ママは文句ばかりだったけど、わたしはそんなパパが好き。男性にアンニュイな魅力なんて求めないし。思いっきり束縛して振り回してほしいし、強引なぐらいがちょうどいいかも」
アヤコは立ち上がるとお尻についた砂をパタパタと払った。ロッドネスト島の青さを目に焼き付けると、俺はアヤコの背中を追いかけて走り出した。
アヤコは帰りの座席に着くと、そのまま俺の肩に頬を預けて眠ってしまった。
だんだんアヤコという人が分かってきた。クオッカの頭を撫ぜながら女の子な一面を見せたかと思えば、狙ったものはぜったい諦めない「さそり座の女」にもなれる。
そこはいいとして、偉大な父親と重ねられるのには閉口する。強引すぎる男にときめくらしいが、そういうのがいいといくら遠い目で語られても戸惑ってしまう。チョコを割れば大きいほうを差し出すし、今回のロッドネスト島もそうだが、まずは彼女の希望を優先したい。だがアヤコの理想は、「オマエは黙って俺についてくればいい」という明快な主従関係らしい。
しかしそんな封建的な男を求められても、いちいち同意を求めてくる俺にやがて飽きてしまうのではないか。まだ日も浅いので、お互い新鮮な甘酸っぱさに驚いたりしているが、減点行為が蓄積すれば、ある日突然「何か違う気がする」と捨てられるかもしれない。
「――この後どうする?」
フェリーを降りたアヤコは背伸びをしながら聞いてきた。昨晩はほとんど寝ていないし、一日インド洋に降り注ぐ太陽を浴びていたので少し目の奥がズキズキする。
「アヤコはどうしたい?」
「…う~ん、じゃあ帰ろっか?」
うなづいてバス停に向かって歩き出したが急に会話が続かなくなった。アヤコは窓辺の席に腰を下ろしたが、バスの外で顔を上げている俺を探すでもなく、目を閉じると椅子にもたれて横を向いた。扉が閉まったとき、はじめて窓の外に俺を認めたアヤコはあわてて笑顔を作った。しかしバスはそれに応える時間を与えず、大袈裟な音を立てて目の前を過ぎていった。
――疲れたのだろう。
そう思うことにして、俺はバス停を後にした。
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