2000年1月29日

 上空3万7000フィート。中央のモニターにはタイ航空641便を示す三角形が南シナ海に差し掛かろうとしている。朝早いフライトだったので、機内食が片付くと多くはリクライニングを傾けて目を閉じた。

 天空の強烈なまばゆさに目を細める。窓の外には雄大な雲の峰が続いており、ここが海の上であることを遮っている。バンコクを出発した翼はまもなく赤道を超え、はるかオーストラリアを目指す。


 今回は、旅に出てきたわけではない。足元のカバンには分厚い英語の辞書や参考書が詰まっている。

 西オーストラリア・パース。

 毎朝決まった時間のバスに乗り、英語のみ許された教室に通い、ホームステイ先に戻って宿題を広げる。そういう日々の為に今空の上にいる。パースでの数週間の後シドニーまで冒険する予定はあるが、あくまでもそれがメインではない。

 ただ、唱えるように今回は学生をしに行くのだと強調しているのには訳がある。


 昨晩エマと別れた。


 目を閉じて、肺の中に残っていた言葉もすべて吐き出す。2日後の月曜日から早速授業が始まるのだ。バンコクでの痛みをいつまでも引きずっているわけにはいかない。

 あんな悲劇のヒロインなどさっさと忘れてしまえ――。



 バンコクに到着したのは5日前のことだった。


<――あら。珍しい時間に電話してきたのね>


 夕暮れのバンコクは、屋台から立ち上る油の匂いとうんざりするような暑さで膨らんでいる。エマの食堂のすぐ横にあるセブンイレブンから彼女の番号を呼び出した。これからオーストラリアに留学することも、その途中でバンコクに立ち寄ったことも伝えていない。

 毎月最終土曜日の夜8時。それがエマとの約束だ。その時間になるとエマのモバイルに東京からの国際電話を知らせる番号が表示される。機嫌が悪い時は<約束の2分遅れよ>といきなり冷たく突き放つが、その後にはかならず優しい微笑みが返ってきた。知り合って半年。往復させた手紙の数も10通は超えた。


<ところでいつになったら会いに来てくれるの?暑さで干からびちゃうわ>


 近頃はそのセリフが気に入っているらしい。エマは受話器の向こうから諦めたような溜息をついたが、今夜は魔法が起こることを知らない。


<じゃあ、指を鳴らして今すぐ1階に降りて来てごらん…>


 ガードレールに腰かけている俺を見つけたエマは、口に手を当てたまま突っ立った。やがて伝うものを薙ぎ払いながら、腕を伸ばして近づいてきた。半年ぶりの再会だった。


 そしてその夜、初めてエマと結ばれた。彼女から誘ってきたのだが、意外にも彼女は泣いた。行為の間、彼女は訳の分からない言葉をうわごとのように繰り返し、そのたびに俺の背中に爪を立てたり、平手打ちを喰らわそうとした。


「(このまま殺して!)」


 聞き取れたのはそれだけだった。その腕を押さえつけると、彼女は「愛してる」と喚きながら激しく頭を振り、涙で顔中を汚した。


 …シーツに吐き出された情熱を指ですくうと、エマは濡れた額の上でそれをかざしてしばらく眺めていた。そしてその指を俺の胸板に擦り付けると、ふと迷惑そうな顔をこちらに向けた。


「…We are over(もう別れましょ)」


 あまりに唐突で何を言われているのか分からなかった。俺は腕枕の中の彼女を撫でながらほほ笑んだ。


「今何て?」


 すると彼女は真顔になり同じ言葉をゆっくり繰り返した。


「――今夜あなたを見た瞬間、ものすごく堪らない気持ちになってしまった。だからアタシから誘ってしまったんだけど、悪いけど結婚や子供には興味がないの。だからこれがわたしたちのゴール。そう思うとなんで体を許してしまったのかって…」


 その安っぽいドラマのようなセリフに「バカなんじゃないか?」と短い感想を返すと、そのまま彼女の黒髪を触りながら眠りに落ちてしまった。ところがその後の数日で彼女のWe are overが枕辺の戯言などではなかったことを思い知らされた。そしてバンコク滞在の最終日である昨晩、とうとう俺の方から降参してしまった。


「もうこれ以上アンタに傷つけられるのはゴメンだ。望み通りこのまま終わりにしてやるよ!」


 エマは少しも動じることなく、俺の目を真っ直ぐ見たままだった。

 荷物をまとめると部屋を出て行った。途中一度足を止めたが、後ろから追いかけてくる足音はなかった――。



 足元に置いた重たいカバンを軽く蹴ってみる。繰り返すが、俺は語学研修のために今飛行機に乗っている。

 

 俺なりにこの新しい恋を育ててきた。エマがとんでもない不幸を抱えていることを汲んだ上で、それでもひとつずつ積み上げてきたつもりだった。この半年間は決して彼女の太腿をこじ開けるための長い前戯だったわけではない。いつだって誠実であろうとしたし、目を見開けば美しいものが溢れているこの世界を伝えようとしてきた。

 しかしまるで無意味だった。もうこれ以上彼女が作り出したゲームに傷つけられるのは耐え難い。さようなら、悲劇のヒロイン様――。


 機体がゆっくりと降下を始めた。

 必要なのは刺激ではない。明日へと進み続ける気持ちだ。

 はるか彼方にグリーンが見えてきた。オーストラリアの広大な大地にまもなく降り立つ。

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