2000年2月6日
パース市内にあるチャイナタウンは、マーガレット先生が絶対行ってはいけませんと目を吊り上げていたノースブリッジ地区そのものだった。
「白人たちはチャイナタウン周辺は危ないっていうけど、キミはどう思う?」
ジョニーは旧正月の騒ぎわいを顎でしゃくった。チャイナタウンの入り口で、ジョニーの友人やアヤコと合流することになっている。今日が旧正月当日ということを除けば、見えるのは中華系スーパーとレストランが数軒で、歓楽街と聞いて想像するような胸を半分露出させた女の子の看板など見当たらない。
「オージー(オーストラリア人)は見かけは豪快だけど、やっぱり有色人種が嫌いなんだよなぁ」
ジョニーはそれを「差別」とは言わなかった。
もちろん酒を提供する店がある以上、理性を失った酔っ払いと遭遇する可能性は否定できない。だがこの程度で歓楽街だ騒ぐなら、そういう連中をカゴに詰めて新宿歌舞伎町を引き回したら、全員泡を吹いてお陀仏してしまうだろう。
「――遅くなってスミマセン!」
赤いチャイナドレスが日本語で声をかけてきた。
「スラっとしている」「笑うと可愛い」「とにかく美人だ」というアヤコについてのジョニーの雑な描写は、なるほど大袈裟ではなかった。
「子供のころから水泳やってたから肩幅あるんですよ。せっかく貸してもらったけど背中とかパツパツでしょ?」
アヤコは高く結んだ黒髪を持ち上げて白いうなじを指さした。笑うとペロッと舌を出す癖があり、見方によっては媚びた所作だが、男はだいたいこういうのに弱い。俺は適当に挨拶を切り上げると少しだけ彼女と距離を置くようにした。
そのアヤコの後ろをスティーブン・チェンという香港人が歩いている。格好いいのは名前だけで、体系はエロ白熊と同類である。ところが腹立たしいことにとびきりの美人を連れており、大根のような太い腕を女の肩に回している。
この体型も態度も横幅のある男は、初対面のくせに「今日はオレのメンツを立ててくれ」と寄る店全てでレシートを奪って見栄を張った。
「…わたしたち全然出さなくていいんでしょうか?」
あとから加わった連中を含め総勢8人となったが、アヤコ以外の日本人は俺だけで、必然的に彼女は俺の隣に座りたがった。「あのデブ野郎の好きにさせておきましょう」と微笑むと俺は肩をすくめた。カラオケに移動した段階で見栄っ張りデブは相当酔っており、美人カノジョにたしなめられているにもかかわらず握ったマイクを離さない。
「アヤコさんはどうして留学しているんですか!」
見栄っ張りデブの塩辛声がうるさすぎて、お互い体を密着させて手でメガホンを作って耳元に吹き込んだ。
「パパがグラフィックデザイナーやっていてわたしもそれを目指しているんです!大学卒業したらパパの事務所で働こうと思って!」
これでジョニーへのレポートは書けそうだが、もう少し補足情報を得ておこう。
「好きな食べ物は何ですか!」
「なんでそんなことを聞くんですか!」
アヤコは当然の疑問をぶつけてきた。細かいことは苦手なので正直に打ち明けた。
「実はあそこにいるジョニーからアヤコさんのことを色々聞いてくるようにいわれてるんです!」
3曲連続で見栄っ張りデブと肩を組んでデュエットしているジョニーを指さした。
「わたしあの人のことちょっと苦手なんです!」
その声はあまりにも大きすぎたが、ジョニーは訳の分からない広東語の歌の中にいた。
事件は会計時に起きた。
茹ですぎた餅のようになった見栄っ張りデブの大立ち回りがまた始まった。
「(さすがにアンタにそこまでおごってもらう筋合いはない!)」
俺は中国語を叩きつけると、ヤツの分厚い手からレシートを引ったくった。ところが見栄っ張りデブは血走った目で俺の胸ぐらをつかんできた。
「(何だテメェ。俺のメンツを潰そうってのか!)」
広東語はよくわからないが俺はこの無礼者に対し、分厚い腕をサッとひねり上げると払い腰をお見舞いした。見栄っ張りデブはビールケースに派手にぶつかって倒れた。俺は静かに腕を組み、いつでも次の一手をお見舞いできるように床に転がった男を見下ろした。見栄っ張りデブは喚き散らしながらビール瓶に手を伸ばそうとしたが、寸でのところでジョニーたちが彼の上にのしかかった。
「――大丈夫。彼は酔ってるだけです」
アヤコは俺の後ろで震えながら頷いている。ところが店の外に連れ出された見栄っ張りデブはなおも声を張り上げ、往来で注目を集めていた。その爆裂広東語の中に「ヤップンヤン!」という言葉を聞いた。「日本人」という意味である。周りもその言葉を聞いてギョッとしたところを見るとよほどの侮蔑と見ていい。
俺は足を止めて振り返ると、首を左右に鳴らしながら見栄っ張りデブのもとに歩いていった。ところがあと数歩というところでよだれを垂らした見栄っ張りデブに美人カノジョが強烈なビンタを叩き込んで終劇となった。
俺は日本人らしく深々と頭を下げると、タクシーに手を挙げてふたりに譲った。実際に何を言われたのかわからないが、あの場で日本人うんぬんをいうならば、それは俺だけではなくアヤコも侮辱したことになる。
「…ありがとう。カッコ良かったです」
組んでいた腕をおろした時、手の甲がアヤコの手に触れた。
曖昧に微笑んでジョニーに向きなおると、「危ないからそろそろ帰ろう」とうっかり日本語で声をかけてしまった。
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