2000年2月4日

 おろしたての赤い水性ペンがホワイトボードを走っていく。一切が英語で、尚且つなかなかなスピードで授業は進んでいく。


「…おい。…おいって!」


 うるせえなぁとエロ白熊を睨みつけるが、ヤツはひるまない。


「昨日ナッツフォードストリートのレンタルビデオ屋で、あそこに座っているアキって女を見かけたぞ。白人野郎と一緒だったぜ」


 思わず集中が途切れる。アキさんとは初日の自己紹介以来声を交わしていない。まだ前髪で覆った額の下の絆創膏はとれていないようだ。エロ白熊がいう白人野郎と額の絆創膏には何らかの関係があると直感した。


「イチャイチャしてたぜ。まぁ男のほうが夢中って感じかな。やたらあのオンナの体を撫でまわしてたぜ」


 その後彼らは『インディペンデンス・デイ』を借りて、そのまま街に消えていったという。


「な?面白い情報だろ?だから昼休みにタバコ寄こせ」


 オーストラリアは健康増進の一貫として、タバコに信じられないほどの関税をかけている。よって喫煙者のほとんどはここで手巻きたばこを覚えることになる。乾燥したタバコの葉をシガーペーパーの上に集め、フィルターと一緒に巻く。これには結構コツがいる。

 アキさんは手巻きたばこの達人だ。彼女は授業が終わるとザッとテキストをテーブルの端にどけ、さっそくシガーペーパーを取り出して唇の端でサッと舐めはじめた。


「それ、なかなか難しいですよね」


 今日初めて発した日本語だ。


「慣れればそんなことないよ。車運転しながらでも巻けるようになるから」


 アキさんは顔も上げずあっという間に3本も仕上げた。


「このほうが安いし、それに市販のタバコって葉っぱ同士をくっつけるために蜜みたいなのが練り込まれているんだけど、それが結構有害らしいよ」


 喫煙者に有害も無害もないだろう。


「でも自分で巻けちゃうから”別の葉っぱ”も混ぜられちゃうんだよね。あ、これには混ぜてないから安心して」


 アキさんは巻き終えたタバコの1本を俺に差し出すと、端に寄せていた教科書をカバンの中に詰め始めた。


「アタシ今日これから用事があるから午後休むわ。マーガレット先生に伝えておいて」


 そう言うと彼女は颯爽と教室を出て行った。その背中を見送りつつ、彼女が舐めて巻いてくれたタバコをくわえ外のベンチに出た。



「――いやぁ参ったよ。領事館のオネエちゃんはよっぽどオレ様に会いたいらしいね!」


 昼休憩から戻ってくると、新顔がみんなに取り囲まれていた。ノースブリッジのバーでパスポートと財布を同時に盗まれて有名になった韓国人であった。


「パスポート再発行は当日じゃできないって言うんよ。そういうわけでまた明後日また領事館のオネエちゃんに会いにいかなきゃなんないわけ」


 よほど領事館に呼び出されるのが嬉しいのか、渡世人キムはゲラゲラ笑っている。そもそもこの男の留学は単なる逃亡が目的である。


「ウチら韓国じゃ19歳から29歳までの2年間、ファッキン兵役に行かなければならないしょ?だからオレ様は29になるまで祖国の地を踏めないってわけ」


 渡世人キムはおどけて床に泣き崩れた。祖父が興した運送会社で父親はすでに会長職に収まっているという。酩酊して盗まれた財布の中身は、翌日には韓国から多めに送金されてきたらしい。


「だってさぁ、入隊後のイジメが原因で自殺とかあるんだよ。ウチらみたいな金持ちの兵役逃れに世間はうるさいけど、その前にもっと問題にしなきゃいけないことがあると思うんだよね」


 海外の歓楽街でパスポートを盗まれた野郎がいえたことではない。

 ともかくカネならジャブジャブ送ってもらえる。喫煙所で会うたびに手巻きタバコ組をバカにして「1本やろうか」などと生意気にダンヒルのタバコを燻らせている。この調子でいけば9年後には立派な勘違い野郎が出来上がることだろう。

 一旦教室を出たキムは再びドアから顔だけ入れるとその辺にいた数人に声をかけた。


「今度パスポート再発行を祝って、もう一回ノースブリッジに繰り出そうと思うんだけど、一緒に行きたいヤツいる?」


 「おごってくれるなら」と手を挙げたエロ白熊の後頭部をノートでひっぱたいた。


「オッケー全員おごるよ。この前は一人で出掛けちゃったからやられたけど、何人かで行けば大丈夫だろ。メロンソーダもどう?」


 声をかけられたメロンソーダことミスター・ワンは「旧正月と重なってなければ」と口ごもった。コイツも危険予備軍だ。そう。今週末中国の旧正月がやってくる。



「――そういうわけで今週末チャイナタウンに行くんだけどなぁ」


 ジョニーは失敗した野菜炒めをゴミ箱に捨てながらぼやいた。炒めすぎたキャベツともやしから火の手があがったのを初めて見た。


「実はお願いがあってさぁ。キミも一緒に来てほしいんだなぁ…」


 アヤコか。

 ようするにうまく間を取り持ってくれないかという相談だった。


「バレンタインに告白するからそれまでにもう少し仲良くなっておきたいんだよなぁ。まだ彼女のこと色々知らないしなぁ」


 ”そのためにキミの日本語が必要なんだ”とハッキリと頼めばいいものを、俺ごときを相手にいつまでも口ごもっている。


「わかったよ。そんなにその子を俺に紹介したいんだな。俺も最近恋人に捨てられたばかりだから、いい子だったらカノジョ候補に考えてみるよ」


 それを聞いたジョニーは悲鳴を上げた。これは初日のバスの時刻表のお返しである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る