2000年2月2日

 通りに立てられている時刻表には、フリーマントル行きのバスは毎朝8時17分にここパース郊外を通過すると書かれている。ところが通学初日、バスは20分も遅れてやってきた。


「――言い忘れたけど、バスならいつも遅れるから」


 あぁ、ジョニー…。

 こちらが靴を履いたタイミングでそれを言う度胸がうらやましい。マードック大学でグラフィックデザインを学ぶこの香港人は、脂肪の乗ったふてぶてしい二重あごを緩ませ、ぼう然と立ち尽くす俺に手を振った。

 ただこの愛すべきルームメイトの名誉のために言っておくが、彼は悪気があってバスのことを伝えなかったわけではない。終始そうであるように、ただうっかりしていただけだ。

 昨晩もキッチンでステーキ用の牛肉をカリカリのベーコンのように焼き上げてナンシーから雷を落とされていた。フライパンに肉を乗せたままノートパソコンで誰かとチャットを始めた結果、全てが手遅れになった。


「…フライパンにお肉を乗せたタイミングで気になっていた子からチャットの誘いが入っちゃったからなぁ」


 フライパンにこびりついた牛肉をひきはがそうと、ジョニーは夜遅くまでほうれい線を震わせてゴシゴシやっていた。こんな調子の人間なので、他人の1分でも大事な朝をパニックに陥れてやろうなどと悪知恵が働くはずもない。

 だがバスの一件は必ず償わせなければならない。おかげで初登校日から遅刻としてカウントされてしまった。


 ジョニーは、パースに来て2回目の旧正月を迎えようとしている。


「半年前まで後輩とルームシェアしてたんだけど、その後輩にカノジョができちゃってさ。その子も一緒に住むようになったんだよなぁ」


 しかし付き合い始めの最も楽しい時期を迎えた後輩に気を遣ってというより、毎晩聞かされる後輩と彼女のに苦しんで引っ越したというのが実態らしい。


「もうすぐ2月14日でバレンタインデーだろ?香港じゃ情人節チェンヤンジッといって、男から女の子にバラの花を捧げて告白する日なんだよなぁ」


 どうやら今年は昨晩牛肉を焼きながらチャットしていた同級生にバラ一輪を持って膝まづくつもりらしい。


「…でも知り合ってまだ日が浅いから気持ち悪がられないといいんだけどなぁ」


 そのため息はあまりにも深かったが、まずはその気持ち悪い髪型を何とかするべきだと助言した。まるでキャラメルソースをかぶったプリンになっている。ジョニーは頬まで垂れた前髪を指先でこねながら窓ガラスに写った自分の顔を眺めた。


「そうだよなぁ。確かにうまそうなプリンだよなぁ」


 こちらの舌鋒鋭い指摘にあまり感じてないらしい。さておき彼女の基本的なことは押さえているんだろうなと念を押すと、ジョニーは動揺して目の前のオレンジジュース入れたグラスを倒しかけた。


「彼女は去年の10月からウチの大学に短期で来てるんだけど、スラっとしてた美人で笑うとすごくかわいいんだよなぁ!」


 後半の描写が荒すぎて何も伝わってこなかったが、他のクラスメートも混ぜて何度か遊びに行っているうちに、ジョニーはその子を好きになってしまったらしい。


「最近じゃ宿題のことでわからないとチャットで相談してくれるんだぜ。まぁそのせいで昨日は肉を焦がしちゃったんだけどなぁ」


 それは断じて彼女のせいではない。ろくに油も敷かず、煙の立ったフライパンに牛肉を乗せた結果、フライパンと牛肉が結婚しただけのことだ。

 そういえば、とジョニーは宙を仰いだ。


「アヤコはたしか日本人だったなぁ」


 バカ野郎。アヤコという名の中国人でもいると思っていたのか。


「でもなぁ、2月14日にバラを持って告白しようとおもうんだけど、アヤコはあまり英語が得意じゃないからなぁ…」

 

 この時点で問題はひとつではないが、俺は大袈裟に野郎の肩を叩いて笑った。


「俺が日本人だということを忘れてないか?」

「そっか!アヤコと君は同じ日本人だもんね!君に通訳してもらえばいいんだ!」


 毎日中国語でやり取りしているため、俺が日本人だということを忘れていたらしい。大学で使っているパソコンは、複雑なグラフィック加工にも耐えられるアップルの最新モデルかもしれないが、ジョニーの脳みそはせいぜい16ビット程度の物理メモリしか積んでいない。

 まるで千軍万馬を得たかのようにジョニーははしゃいだが、俺は頬杖をかいたまま「Just be cool,my friend!」と叩きつけた。通訳を買って出たがそのアヤコとやらがコテコテの津軽弁の使い手かもしれない。


「とにかくだ。まずはその気持ち悪い髪型を一刻も早くなんとかしろ。次の休みに街に出て、一流の美容師さんを捕まえてこい。ついでにもう少しマシな服も買ってきたほうがよさそうだな」


 彼の着ている薄いブルーのTシャツには、俺がキライな「ピカチュウ」が間抜けな大きな口を開けて短い手足を伸ばしている。誰かが言ってやらねばそれに適当な短パンを合わせてアヤコの前に現れかねない。


「ありがとう友よ!」


 まるで『走れメロス』の名シーンである。ジョニーはピカチュウのTシャツのままひしと抱き着くとそのまま俺の体を揺さぶった。


「アンタたち何考えてるの!もうこんな時間よ!」


 自室から首だけ出したナンシーがまるで交尾中の犬でも叱りつけるような声を出した。フラれたのか今宵はひどくご機嫌斜めだ。

 違う、違う。コイツとイチャ付いていたわけじゃない。悪いのは全部このピカチュウTシャツの16ビットメモリ野郎だ。

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