2000年1月31日

「あれ?アンタは」


 B棟に移動する廊下ですれ違った顔に思わず足を止めた。彼女は丸い顔にはまった丸い目をしばたかせ口まで丸くして驚いた。


「空港から一緒だったよね!」


 2日前上半身裸のオッサンが運転する車の中で「香港から来たの」と挨拶してくれた彼女だ。


「ヤミーだよ。よろしくね!」


 彼女は丸い指先を揃えて差し出した。そこへ大柄の太った男が、スニッカーズをクチャクチャやりながら通り過ぎようとした。彼は口の周りのキャラメルを分厚い手の平でこすると、白いTシャツのすそでぬぐった。


「マイク!昨日貸した消しゴム返しなさいよ!」


 彼女にマイクと呼ばれた巨漢は、彼女と俺の顔を見比べると何やらつぶやいてコンピューター室に消えていった。


「いつも女の子ばっかりジロジロ見てるの。この学校の香港人はわたしとマイクだけなんだけど、”香港の男っていつもああなの?”って言われのホントにイヤ!」


 俺はヤツのことを「エロ白熊」と密かに呼ぶことに決めた。

 教室に入るとまた知っている顔が手招きした。彼女の名はスー・ジー。空港からの車の中で、上半身裸のオッサンの後頭部に「精神病シェンジンピン(いかれポンチ)」とつぶやいた女の子だ。


「高雄市って知ってる?」


 台湾の最南端からやってきた彼女は、会社のスキルアップ研修を兼ねてパースに来た。


「昨日もカレシが電話してきてくれてね」と惚気話がはじまった。目頭を揉んでいるところを見ると、昨晩も長い夜だったのだろう。


「せっかくオーストラリアまで来たのにこれじゃあ中国と変わらないじゃないか!」


 声を上げたのはクラスで最年長のミスター・ワンだ。どこで買ってくるのか、毎朝毒々しい色のソーダを持ってくるので”メロンソーダ”と呼ばれている。


「ずいぶん賑やかね!中国の旧正月は今週でしたっけ?」


 マーガレット先生は北部ダーウィンの出身だ。白髪を肩口で結んでいるが、ヨガのおかげでいつも立ち姿が美しい。


「ちょっと眠くなる時間帯ですが、そろそろ午後の授業を始めましょうか――」


 その時、甲高い声でおしゃべりをしながらトムたちが教室に入ってきた。それに続きヂャイとサームも遅れて席に着いた。彼らはバンコクの金持ちご子息様たちだ。


「口直しのアイスクリームを探してたら遅れちゃったよ!」と悪びれもせず、尚も騒がしい。その様子を同じく呆れた顔で見ている女性がいた。はじめて合わせる顔だったので、こちらから英語であいさつをすると「あぁ、どうも」とぶっきら棒な日本語が返ってきた。彼女は顔をこちらに向けると「日本人でしょ?」と畳みかけてきた。


「アキだよ。よろしく」


 ウェーブを当てた長い髪が顔全体をを覆っており、そもそもアジア人かどうかすら気付かなかった。サッと跳ね上げた前髪の下に大きな絆創膏が見えたので思わず声を上げた。


「…それ、大丈夫ですか?」


 アキさんは慌てて前髪を下ろすと、「話すと長くなるから」とノートに板書を写し始めた。


「それから今日も欠席ですが、もう一人韓国からのクラスメートがいます。3日前オーストラリアに到着し、その後ノースブリッジのバーでパスポートと財布を盗まれたそうです」


 マーガレット先生の話しに動揺が広がった。楽しむならノースブリッジ、という上半身裸のオッサンの言葉が蘇る。


「――いいですか、みなさん。ノースブリッジはとても危険な場所です。犯罪に巻き込まれる可能性があるので絶対に近づいてはいけません」


 マーガレット先生は眉間にしわを寄せてクラス全員を見渡した。

 恐らくあの胸毛のオッサンの口車に乗り、その韓国人は夜の歓楽街に繰り出したのだろう。そしてそんな盛り場にパスポートや財布を持っていったことが仇となった。犯人からすれば「ご丁寧に一式そろえておいてくれてありがとう」と今頃笑いが止まらないに違いない。同じ3日前にオーストラリア入りしたのに、なかなかドラマチックなヤツがいたものだ。



「――ところでマイク。今日廊下ですれ違った時何て言ってたんだ?」


 帰りのバスで、後ろの席に座ったエロ白熊に中国語で話しかけた。


「アンタも香港人だと思って広東語で話しちまったからな。分からなくても無理はないな」


 エロ白熊はカバンから溶けて角の丸まったチョコレートの包みを取り出すと、半分割って俺に差し出してきた。首を振って断ると、彼は肩をすくめて2枚重ねて頬張りはじめた。


「あれはね、”俺のオンナに手を出したらブチ殺すぞ”って言ったんだ」


 ギョッとして振り返ったが、体型はともかくとして意外とお似合いなんじゃないかと早合点した。


「おいおい、そんなわけねーだろ。あんなマズそうな子豚ちゃんなんかいらねーよ」


 真に受けていたこちらを笑うと、エロ白熊は指に垂れたチョコレートを一本ずつ丁寧に舐めはじめた。

 たしかにメロンソーダがいうように、学校といい、ホームステイ先といい、このままでは英語より中国語が堪能になっての帰国となる。毎日6時間半を英語オンリーで過ごすのはなかなかハードだが、そもそもここに来た目的を忘れてはいけない。しっかりと気持ちを引き締めて英語の環境に飛び込んでいかねば。

 広げていたテキストを閉じると、俺は郊外へと続くグリーンを眺めた。

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