2000年3月21日
「…ねぇリュウ。起きて。リュウ…」
暗闇から聞こえた声は夢ではなかった。声は、隣の膨らみから漏れてきた。
「どうした?大丈夫か?」
すると布団の中から「すごく寒い」という声が返ってきた。デジタル時計が深夜2時過ぎをオレンジ色の文字で伝えていた。
布団をめくるとサキは体を丸めて震えていた。首筋も額も、それとわかるほど熱い。すぐにエアコンを切ると厚手のタオルを首に巻いてやり、その上から布団をかぶせた。歯の根が合っておらずよほどの高熱と見ていい。
――異変は昨日の朝からあった。いつも朝からシャキッとしているサキだが、昨日の朝は時間ギリギリまでベッドに座り込んでいた。
「なんだか体がフワフワするなぁ。飲みすぎたかな」
心なしか顔色もよくない。額に手を当ててみたが特段火照っている印象もなかった。「ツラいなら今日一日休んだらどうだ?」と背中をさすった。
「ダメだよ!ここで休んだらせっかくの2連休が取れなくなっちゃうじゃん」
サキは自分の頬を軽く叩いて立ち上がると「行ってくるわ」と部屋を出ていった。一日心配して待っていたが、意外にもサキは元気になって戻ってきた。
「客室係のインドネシア人が風邪で休んじゃったからアタシもルームメイキングに駆り出されちゃってさ。でも動いて汗かいているうちに何だか元気になっちゃった」
顔色もスッキリしている。「着替えたらこの前見つけたアイスクリーム屋さんに行こ?」とサキははしゃいでみせたが、しかしその帰りのトラムで再び妙なことを言いはじめた。
「なんか寒くない?アタシだけかな?」
今から考えれば、部屋に戻った後熱いお風呂などやめさせるべきだった。
湯船につかって温まった後ベッドでマッサージをしていたが、そのうちサキは落ちてしまった。そっと布団をかけ電気を消したのが数時間前。そして今、彼女のうめき声に起こされた。
とにかく寒いというので湯を沸かし、ベッドに座らせて白湯を飲ませた。
厚手の靴下がなかったので、新しいバスタオルを足首に巻いてあげた。高熱のせいか体の節々が痛むらしく顔を歪めている。マグカップを受け取ると、もう一度横たえて布団をかけた。ただ、これ以上は部屋にあるものでどうすることもできない。
「とりあえずフロントで薬や厚手の毛布がないか聞いてくる」
ところが、立ち上がった俺の手を毛布の中から伸びた手が引っ張った。
「一人にしないで。そばにいて…」
こんな弱り切ったサキを見るのは初めてだった。ベッドに膝まづくと、華奢な手を布団の中にそっとしまって彼女の黒髪をなでた。
「ずっとそばにいる。大好きだからちょっとだけ待ってて。走って戻ってくるから」
「…アタシも大好き。ずっと大好きだったの。アタシ、幸せ」
「新宿のタイ料理屋で”リュウのバーカ!”って言わなかった?」
サキは毛布から顔だけ出して鼻をすすりながら微笑んだ。その頬に優しく手を当てる。手のひらにたくさんの気持ちが伝ってきた。
その後、フロントから体温計や解熱剤を受け取って戻ってくると、サキは肩を上下させて眠っていた。しかし、しばらくして毛布を担いだ客室係が部屋のベルを鳴らした。
「ホントありがとう。リュウがいて助かったよ」
脇に挟ませた体温計は38.9度を示していた。ツラいわけである。解熱剤を飲ませると、腰の下に温熱パッドを敷いて横にさせた。ところが、この病人は信じられないことに明日絶対仕事に行くという。
「バカなことをいうな!朝になったら俺と病院に行くんだ。明日はとにかく何も考えずにゆっくり休め。つきっきりで看病してやるから」
サキは声を上げて泣きはじめた。
「明日休んだら来週の2連休は無理じゃん!リュウとのハネムーンがアタシのせいで行けなくなっちゃうじゃん!」
「とにかく回復が優先だ。それからひとつだけハッキリ言っておく、今回の旅行はハネムーンじゃない。ハネムーンはパリと決まっている」
サキは涙を拭いながら「パリ?」と絞り出した。
「そうだ。パリのハーゲンダッツでの約束を覚えているか?凱旋門に一緒に登りたいって言ってただろ。まぁどうせ登ったらまた膝をガタつかせてピーピー泣くんだろうな。俺はそれを見て死ぬほど笑わせてもらう。それ以外のハネムーンはない」
サキは鼻をすすりながらアハハと笑った。
「…そうだったね。でも笑ったら殺すからね」
”殺す”とは穏やかではないハネムーンがあったものだ。
「ちゃんと覚えていてくれてありがとう。そうだね、ハネムーンはもう一度パリに行こう。あの時はユースホステルで別々のお部屋だったけど、今度行くときは同じお布団で寝ようね」
「楽しみだなぁ」というつぶやきは、いつしか静かな寝息に変わっていた――。
ヨークストリート沿いに日本語が通じる病院を見つけた。やはりただの夏風邪だったらしい。昨夜大量に汗をかいたので、熱もだいぶ下がり血色も戻ってきた。
今は”たっぷりチーズを乗せたピザが食べたい”というサキの要望をかなえるべく、俺は再びひとりで街に出た。
<…ずっと大好きだったの。アタシ、幸せ>
真夜中、サキは目に涙をためてそう言った。
恥ずかしくていえないが、俺も今最高に幸せだ。旅なんてどうでもいい。ここでサキのお世話をしているほうがよほど幸せだ。
これが愛なのか。今日もシドニーを照り付ける太陽に向かって問いかけてみた。
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