ノンストップ・アクション3~バックパッカー青春放浪記〜
マジシャン・アスカジョー
~Prologue~2019年10月20日
「…おはようございます。お話があるのですがよろしいですか?」
社長は面倒くさそうにモニターから顔を上げると、俺に椅子をすすめた。
「先週ご説明した人事計画案について改めて考えてみました。しかしどう考えても実績にそぐわない採用を人事部として引き受けることはできません。つきましては他でお力添えできる業務もありませんので、」
そこでいったん言葉を区切った。
”そう早まるな”という声を待ったが、社長は腕を組んだままだった。一呼吸おくと、胸ポケットから白い封筒を取り出した。
「…申し訳ございませんが、退職願を出させていただきます」
事の発端となった人事計画案には当り前のことしか書いていない。しかし社長から返ってきたのは、「これじゃ夢がない」という短いコメントだった。
「凝り固まった発想を変えるためにも、新卒採用を進めようと言っているんじゃないか!」
経営方針を放棄し、昨日まで大学生だった新卒に何を期待するというのか。さらに言えば、社長が独断で推し進めてきた新規事業が赤字を垂れ流し続けており、他の事業での収益を圧迫している。人事会議に出席した他の幹部たちからの無言の圧に、「新しいチャレンジに立ち向かえる人材を育ててこなかった人事部が悪い!」と社長は吠えた。
この20人に満たないデザイン会社への転職を決意したのは、当時の社長の人柄だった。得意先からもニックネームで親しまれ、誰からも愛される社長だった。ところが大手から受注が増えてくると社長は人が変わり始めた。
「来週までに新しい人事計画案を持ってこい。できないなら人事課長の職を解く!」
幹部たちは不幸な事故現場を見るような顔をしたものの、社長のヒステリーに気圧され、居酒屋での怪気炎は発動しなかった。こうして7年間務めたこの会社を見限ることにした。
「――大丈夫だ。どんな仕事をしても家にお金は入れるから」
下の娘はまだ1歳にもなっていない。何一つ間違っていない自信はあったが、この歳になっても不器用な自分に嫌気が差す。妻は、心配がないわけではないが子供たちのためにもプライドのある生き方をしてほしいと励ましてくれた。
ところが翌日から始めた転職活動は想像していた以上に厳しかった。
「――ここは『失楽園』を書いた渡辺淳一って人がよく通ってた部屋なんだって。オレには何のことかサッパリわからないけど」
小浜はタバコに火をつけると、遠慮なくそこの天井に煙を吐き出した。
中国残留孤児3世の小浜は、10歳の時に両親に連れられて日本に来た。どういうわけだかウマが合った。その後別々の中学に進んだが、高校2年の時に参加した日中交流プロジェクトで偶然にも彼と再会した。会わなかった数年の間、彼は足立区の札付きワルになっていたが、これをきっかけに互いの家を往復するようになった。
そんな小浜が会社を興したのは今から6年前のことだ。清掃業などを区から受注し、今では数十人のアルバイトを抱えて365日稼働している。
「付き合いが多くてさ。また太ったよ!」
向島の料亭にタクシーで乗り付けると、彼は馴れた様子で奥に続く細い石畳を進んだ。一応上座に座らされているが、ファミレスに行くような格好で来てしまったことをひどく恥じた。こんな高級料亭の個室など一生来ることはないだろう。小浜は女将がついだひれ酒を声を上げて飲み干し、せり出した腹を叩いている。会計の時ちらりと見ると7万3千円と書かれていた。小浜は慣れた感じで領収書を受け取ると、「少ないけど後でみなさんでやってください!」とさらに1万円を女将に握らせていた。
何がこれほどの差を生んだのか。夜な夜なバイクを乗り回していた足立のケンカ番長が、昭和の文豪や内閣総理大臣の書が飾られている高級料亭でタバコをふかし、偉そうに祝儀を配っている。帰りのタクシーの窓に写っていたのは、嫉妬で青黒くなった俺の顔だった。
会社で評価されるために資格試験にしがみつき、着々と人事評価を積み上げてきたつもりだ。それに対し小浜は自分が欲しいものに最短距離を進んだ。
「――さて本題なんだがオレの会社に来ないか?仕事辞めたばかりなんだろ?オレの会社でナンバー2として働かないか?」
先にタクシーを降りた俺に小浜は声をかけた。
「あんな高級料亭でご馳走になった上こんな俺に声をかけてくれてありがとう。だが本当に申し訳ないが俺では力不足だ。他を当たってくれ」
一息に言ってしまった。「まぁ気が変わったら連絡くれや」と継いでくれたが、たぶんしばらく彼に連絡を取ることはないだろう。
プライドのある生き方――。そんなもののためにどれだけ遠回りしてきたことか。
また不採用のメールを受け取ったばかりだった。小浜の友情もありがたかったし、日々面接に向かう俺を見送る妻や娘たちのことを思うと、とても格好つけている場合ではない。しかしここで彼の軍門に下り、敗北を認めるわけにはいかない。またプライドの為に遠回りになろうと、これからも自分の歩調で旅を続けていくしかないのだ。
「――確かにもったいない話だったかもしれないけれど、お断りして良かったと思う」
帰宅した俺にハーブティーを入れながら妻は珍しく言い切った。
「…すまない」
そう言うより他なかった。まだ負けるわけにはいかない。
寝室では、娘たちが安っぽいぬいぐるみに囲まれて静かに寝息を立てていた。彼女たちの頭をなでながら静かに涙を流した。
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