第41話 レベル1の魔神
「……ワタシの前に、なぜ貴方が立ちはだかるであるか」
エルンストが低く抑えた声音で言う。
黒い、ウェディングドレスのような衣装。
漆黒の翼のように、広がりたなびく長い裾。
彩斗の正体がベリアルだと断じたエルンストを前に、アルシエルは守護神のように彩斗を守ってみせる。
「エルンスト、一つ、気が付いたことがある」
彼が首を傾げた。
「何に気が付いたのであるか? それは、彩斗の異常性を覆せるものであるか。それとも、貴方の感情論であるか?」
アルシエルは横に首を振った。
「どちらも違う。あなたの論説は正しい。彩斗は、ゲヘナを他の者より長く操れるし、血液はベリアルのものと同じで合っている」
「なら――」
エルンストは眉根を寄せた。
「どういうことであるか。あなたはなぜ彩斗を庇う?」
「その前に思い出せ。ベリアルの異名を。奴は、エレアントで何と呼ばれていた?」
意外な問いかけに、エルンストもフレスベルグも戸惑う。
スララが不安そうに、姉の様子を見つめる。険しい顔つきでアルシエルは、
「皆、思い出すがいい。ベリアルはその強大な力から、三つの異名を持っていたな? それはいったい、何を表していた?」
緊張を孕んだ沈黙が訪れる。思案の間が数秒ほど続いた後に、
「――黒き大蛇だよ」
スララがまず答えた。
「ゲヘナを示す、黒い火炎」
『それに加え――『石像庭園』だっけ?』
フレスベルグが後に続いた。
「そして、三つ目は――」
エルンストが答えようとして、ハッとする。他の全員も同じだ。その最後の異名を思い出し、言葉を詰まらせる。
「思い出したか? 三つ目は、『円環の鎧』だ。これはいったい何を意味すると思う? ……黒き大蛇は、ゲヘナのことを示す。一撃でどんな魔物をも倒せる暗黒の火炎だ。二つ目の石像庭園は、石化の魔法のことだ。ベリアルは石化させる事にも長けていた。……では『円環の鎧』とは一体何だ。それが、最後のピースだ。それが判明して、初めて私たちはベリアルを理解することができる」
「それは……」
誰ももが絶句して動くことが出来ずにいる。
確かに、『円環の鎧』――それだけは最後まで分からなかった。
未だ潜む、ベリエルの最後の謎。
「私は、円環の鎧が何なのか、その正体を知らない。復讐心に駆られていた頃、私はベリアルを殺せればいいと思っていた。だから奴の能力より、どうやって奴を苦しめればいいか、そればかり考えていた。私は奴のことを、全ては知らなかった」
それは全員が共通する事だ。誰もがベリアルを脅威と思いつつ、全てを把握してはいなかった。
「しかし、ベリアルのことをよく知っている者がいる。その者は、天空宮殿の中にいる。彼女はかつてのベリアル・ゲームの時からこの宮殿でメイドをしていた。彼女なら、ベリアルの全てを知っている」
そう言って、アルシエルは呼んだ。彼女の名を、最後の鍵を持つ者を。
「シャノン! 隠し部屋の本はもういい! 先にこちらへ戻り、説明しろ!」
しばらくして、皆の前へ姿を表したのは、先ほど大宝物庫へ行ったメイドの少女だった。
シャノンは彩斗やスララが倒れている状況を見て、怪訝に思いつつも、アルシエルのそばへと寄った。
「どういたしましたか、アルシエル様。そのような大声で――」
「ベリアルの円環の鎧とは何だ。それを今説明しろ。それが終わったら大宝物庫プレアデスまで戻っていい」
唐突もいい命令に、怪訝な顔のまま少女は小首を傾げた。
だが一同が見つめているのに気づくと、やがて話し始める。
口調は静かに、柔らかく。それでいて、かすかな畏怖をも感じさせる声音で、彼女はベリアルの秘密を口にする。
「ベリアル様の――いえ、ベリアルの円環の鎧は、『死亡しても転生できる魔法』のことでございます」
衝撃という名の槍が皆の体を貫いた。皆の目が、凝然と開かれる。
「ベリアルは、たとえ死んだとしてもそれで終わりません。自らにかけた『転生の魔法』により、何度でも姿を変え、蘇生することが可能なのです」
衝撃的な発言に、誰もが動けない。
シャノンは皆の顔を順繰りに見つめながら、続きを語る。
「ベリアルは、この宮殿でベリアル・ゲームをしていた際に、わたくしに言いました。自分は死亡したとしても、転生して蘇る魔法を持っていると。有事の際には、自動で発動するようにしていると。そう語りました。実際、生まれて間もなくの頃、二回ほど転生したことがあると話していました」
わずかに震えるのはエルンストだ。かすれそうになる声を抑えながら、
「まさか、殺しても滅ぼせない――などと、そんな力を本当にベリアルは持っているのであるか……?」
戦慄するエルンストに、シャノンは深く頷いて肯定する。
「あります。歴代の魔神の中にも、そうした魔法を持つ者がいたとか。……ただ、『転生の魔法』は、蘇生してもすぐに元の記憶や力が戻るわけではないようです。命だけはすぐに元に戻りますが、蓄えた記憶と、力を取り戻すには相応の年月を要すると。完全な復活の時間は、力が多ければ多いほど長く掛かると、そうベリアルはおっしゃっていました。だから魔神となった今では、相当な年月――おそらくは数百年でしょう――膨大な月日をかけて、元に戻るのだと思います」
深海の底のような沈黙が降りる。
誰も、何も口にしない。言葉を忘れたかのように唖然と立ち尽くす様はまるで彫像であるかのようだ。
その沈黙を破り、かろうじて言葉を紡ぎ出したのは、アルシエルだった。
「……よく判った。下がっていいぞ、シャノン」
「いえ。わたくしの知識がお役に立てるのなら、いつでもお呼びください」
「……そういうわけだ、エルンスト」
そして視線は、白衣の青年へと向けられる。
「それが真相だ。私たちはベリアルの全てを知ってはいなかった。足りないピースがあるまま、結論を導こうとした。そう、つまりは――」
苦い顔つきでアルシエルは言った。災厄の魔神の全ての事実。そして現在の状況。様々な謎が氷解して出た答えが、目の前にある。
「――ベリアルは、すでに死んでいる。そして転生し、新たな姿で召喚されている。そう考えるのが、妥当だ」
「まさか……」
円環の鎧とは、何度も同じ状態に戻れる力。転生の魔法のこと。
ベリアルはアルシエル・ゲームの最中、まったくその気配を見せていない。
彼はその強大な力ゆえに、長い年月をかけて、記憶と力を取り戻さなければならない。
そしてそのベリアルと同じ血液は、彩斗が持っている。
つまりは――。
「――彩斗。君は、魔神ベリアルの転生体だ。死して記憶を失い、力を失って、何も知らないまま私に召喚された――『レベル1の魔神』。それが、君の本当の正体だ」
誰も、息をすることすら忘れたかのように、凍りついていた。
呆然とエルンストが立ち尽くす。スララが目を見開いて彩斗を見る。メイドのシャノンは両手で口を覆い、フレスベルグも一言も発することはなかった。
お互いの鼓動音すら聞こえるほどの、深い静寂を経て。
「ボクが……ベリアル? その、生まれ変わり?」
彩斗の呟きに、無言でアルシエルが頷く。
「そんな、まさか……。ボク、全然、そんな実感なんてないんです。ボクは元の世界では目立たない人間で、特別な才能も特徴もない高校生で、いつも影が薄くて、存在感がないと言われていました。まさか、そんな……」
「君の右手の甲には、火傷の痕があるだろう。それはいつ負ったものか、わかるか?」
彩斗はハッとした。
「……ずっと小さい頃だと思います。記憶がないんです。親も、知らないと言っていました。どこで、どうして火傷したのか、全然わからなくて――」
そこまで言って、彩斗は口ごもる。
負った記憶のない火傷と、『大戦』で右腕に消えない傷を負ったベリアル。
聖剣でつけられた傷は魔神の魔法でも癒えることはなく、だからこそアルシエルはそれを頼りに無数の人間や魔物を召喚した。
全てが彩斗の正体を示す要素として符合している。
「彩斗がベリアルの転生体かどうか、簡単に調べる方法があるのである」
エルンストが長い沈黙を経て、口を開いた。
「今からゲヘナを使ってみるのである」
「え……?」
「普通、闘技中でなければあの黒い業火は生み出せない。ゲヘナは闘技専用の技ゆえに。しかし、もし本当に君がベリアルの生まれ変わりであるならば、今でも出せるはず」
「それは……」
確かに理屈としては合っている。
あれが仮初めの力ではなく、ベリアルの力だというならば、彩斗に撃てないはずがない。
しかし、それを認めるという事は、自分が災厄の化身だと認める事だ。
彩斗は、自分の右手を見つめた。
本当にあるのだろうか。そのような力が。誰より弱いと思っていた自分に、かつてエレアントを支配した魔神の力が、隠されているだなんて。
戸惑いはほんの数秒だった。確かめなければならない。アルシエルの復讐が終わっているのか、全ての元凶がどうなったのか、不明だった全ての答えを導き出す方法が、自分にある。
彩斗はきゅっと唇を結んだ。
右手を掲げる。天井へとまっすぐ伸ばしてみる。そして小さく息を吸い込み――。
「ゲヘナ!」
直後――手のひらから出たのは黒い火炎。
ふわりとしたゆったりな動きで、天井へ向かい、ゆっくり浮かんでいく。
それは、闘技中の業火と比べれば微弱もいいところだ。速度はなく、規模も小さく。勢いもない。黒い火炎は、まるで花火のように、やがて数秒後には空気に溶けていった。
けれど、それで判明する。
彩斗は――ベリアルだった。
極めて小さい力とはいえ、その黒い火花が、何よりの証明だった。
黒き大蛇と石像庭園を使いこなし、円環の鎧で、死すら超越する魔神――その生まれ変わりこそが、彩斗だった。
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