第32話 恨みのアルシエル
「イータ、ヨーテ、サダラー、どこだっ!」
紅蓮の炎が舞い、熱風が辺りを覆い尽くしている。
弾ける音と共に、幾万の火の粉が高く四散し、轟音があちこちで飛び交っている。
天へと続く回廊のように、黒い煙がいくつも立ち上る。家屋が崩れ、川は蒸発し、大地は火炎の舌に舐められて原型を留めていない。
スララの誕生から数週間後。
村は、炎に包まれていた。それも単なる炎ではない。
黒い火炎だ。自然界では決して見かけない、おぞましい色の業火に、アルシエルは不吉を覚えて走っていた。
右方にあった山から、巨大な火柱が立ち上がる。黒い火炎でできた柱は一撃で山を真っ二つに割り、遠く離れているはずのアルシエルへと熱風を運ばせる。
「うわあああっ!」
腕の中にある、妹だけは守ろうとアルシエルは体を丸めら。布で包んだスララを抱きしめながら何度も転がり、すすまみれになったまま、何とか立ち上がる。
「アルシエル!」
イエティのイータが、大声を上げながら、切羽詰まった様子で走ってきた。
「イータ……」
それで少しだけアルシエルの気分が楽になる。息を整える。
「無事だったのか……ヨーテとサダラーは? いないのか?」
「サダラーはわからない。ヨーテは……」
一瞬、イータは言葉を詰まらせた。
「ヨーテは、石化させられた」
「え……?」
瞬間。
足元が消えてなくなったかのように、アルシエルは錯覚する。
石化。
ヨーテ。
その二つの単語が、うまく頭の中で噛み合わない。
震えと共に、イータはアルシエルの腕の中にいるスララを確認した。イエティである彼は冷気を常に発している。そばにいると、わずかに熱さが軽減される。
「とにかく村を出るぞ。『ベリアル』がこっちに来る前に……っ」
熱風が一層勢いを増す。その直後、右手に見えていた山から、巨大な影と共に――『何か』が飛んできた。
それは。
その光景を、アルシエルは忘れないだろう。
その後幾度も脳内で再生させ、アルシエルを蝕む光景。最悪にして、最凶の存在。それが、初めてアルシエルの脳裏に刻み込まれる。
六枚の羽。
七本の長い爪。
四肢は太く、尾は長大だった。深紫の牙が、煌々と光っている。
捻じくれた角は天に向かって伸び、体の各所から伸びる突起は禍々しい。
他者の恐怖を、誰かの畏怖を、呼び起こさずにはいられない――強大にして凶悪な姿の存在が、そこに在った。
強風を巻き起こし、盛大な衝撃波を吹き散らしながら、巨影の『ソレ』は、アルシエルとわずか数十歩のところで、振動と共に着地した。
「あ……あ……あ……」
イータが声を震わせて立ち尽くす。
絶対に敵わない相手に、全身が恐怖に縛り付けられる。
何を言わなくともアルシエルには判った。村を燃やした元凶が誰なのかを悟る。
人間と、魔物の住むエレアントの全てを支配しようと画策する者。噂には聞いていた――数多の人間の勇者を倒し、竜を、巨人を、魔獣の軍勢をねじ伏せてきた、最凶かつ最悪の魔神。
それが、目の前にいる。
ベリアル。
三つの異名を持つ魔神。
全ての強者の頂点に立つ、最強の存在がアルシエルを睥睨する。
「に、逃げるんだ……」
イータは、がたがたと震えながらも、それだけは口にした。
「早く逃げろっ! アルシエルっ! ここは俺が……っ」
ベリアルが太く逞しい左腕を振るった。風が起こる。それがイータに吹き当たる。
次の瞬間――イータの体が、たちどころに灰色に覆われて石化した。
「な――」
愕然と、友が石像と化した様子に、アルシエルは言葉も出ない。
「――いたぞ! くらえ、ベリアルっ!」
遠くから逞しい声が聞こえ、落雷がベリアルの脳天に直撃した。氷の槍と毒の水と溶岩の濁流が背中に直撃し、極太の蔦がベリアルの四肢を拘束する。
人喰い獅子マンティコアという、魔物の中でも上位の種が着地する。
「くそ、イータもやられたか、よくも村の仲間を!」
村の精鋭である魔物たちが、死力を尽くして魔神へと挑む。だが誰もが二秒として無事ではいなかった。
吐息だけで敏捷な魔獣が石化した。爪を弾いた風でケンタウロスが石像となり、尾にかすった直後に屈強なワーウルフが石となる。
それでも残る精鋭たちは怯むことなく立て続けに攻める。魔法を、牙を、己の全てを掛けて戦った。誇りのために。幼いアルシエル達のために。
けれど、ベリアルは、そもそも力の次元が違う。
ありとあらゆる攻撃は弾かれ、霧散し、彼に触れた者や息を吹きかけられた者達は、見る間に灰色に包まれて石化する。
勝てるはずがない。
アルシエルは直感する。あれは、戦ってはいけないものだ。戦うことすら考えてはいけないものだ。
「っ!」
村のみんなが稼いでくれた隙に、スララを抱いて村を出るべく走る。
必死に、駆け続ける。
だが、背後から咆哮が響いてきて、アルシエルの全身が総毛立つ。六枚の羽を躍動させ、大気を鳴動させて、ベリアルが追いかけてくる。その間にも、村の生き残りが猛然と攻撃をし続けるが、激烈な氷風も、毒霧も、ベリアルにとってはそよ風にも劣る。
怒声と雄叫びが乱舞し、特攻じみた猛撃を続ける村の魔物たちをよそに、アルシエルは駆け続けた。
やがて――辿り着いたのは思い出のある森だ。かつて、イータたちと親友になった森林地帯。
草木や蔦に前進を阻まれながらも、必死にアルシエルは走っていく。村からの攻撃の嵐の音はすでに聞こえない。村の仲間たちはどうなったのか、想像するだけでも怖い。
ベリアルが、太い樹木を踏み砕きながら目の前に着地してきた。
悲鳴を上げてアルシエルは衝撃のために転がる。
意識はスララを守ることに費やされた。転がり、背中を打ちつつも、妹だけは絶対に離さないと、強く抱き締める。
聞き覚えのある鳴き声が、アルシエルの耳に届く。
ハッとして振り返れば、あのときのヒュドラが、ベリアルと対峙していた。
泉と水で編まれた柱が見えた。いつの間にかヒュドラの住処にまで到達していたらしい。
天を引き裂くような響きが聞こえた。
縄張りを荒らされたヒュドラは、怒り、咆哮し、九つの首を王者の如くくねらせて、虚空から大量の水を呼び寄せた。
村など押しつぶしてしまうかのような津波が、ベリアルへと注がれる。
だが次の瞬間――ベリアルの手から放たれた黒い業火が、水撃ごと呑み込み、ヒュドラへ殺到して一撃で撃ち殺す。
重い音が轟いた。九つの首は為すすべなく地に伏せ、やがて動かなくなる。
「そんな……ヒュドラが、負けた?
あれほど強かったのに。雲の上のような強さを誇った強者が、いとも簡単に殺された光景に、アルシエルは怯えて声も出なくなる。
ベリアルが振り返った。
爛々と、紅く光る瞳が見下ろしてくる。
目が合った。
血と血を混ぜ合わせたような不吉な紅き瞳が、アルシエルを睥睨する。
全てを超越する魔神は、路傍の石ころでも見るかのようにアルシエルを見下ろした後、姿を変えた。
六枚の羽は消え去り、七本の爪は消失して、ヒュドラに酷似した九本の首の紫の大蛇へと変化する。そして、アルシエルを無視して、去っていった。
『変化』の魔法。この世にあらゆる存在に変化し、その能力を操る。ベリアルの力の一つ。
「(――見逃された?)」
違う、興味を失ったんだ!
お前は石にする価値もないと。火で炙る価値すら持っていないと、アルシエルは通告されたに等しい。
恐怖と共に湧き上がった怒りを胸に、けれど、ここまでの無茶がたたったのだろう、アルシエルは疲労に崩れた。
スララを、その腕に抱いたまま。
† †
そして、ベリアル・ゲームが開催される。
全滅した村でわずかに石化されなかった魔物たちが、全て天空宮殿トルバランへと連れて行かれた。長たる上級悪魔、三人組の生き残りのサダラー。アルシエル。その父、母、そしてスララを宮殿へと召喚したベリアルは、同じくエレアント各地で滅ぼした、全ての町や村にいた数百の人間と、魔物を、空の牢獄に閉じ込めた。
ペアを組まされ、闘技を行う人間と魔物たち。
地獄の業火ゲヘナが飛び交い、剣技や魔法が交差する長い日々。
弱すぎる者や幼すぎる者は観衆として、それ以外は闘技の駒として、ベリアル・ゲームは冷酷に続けられていった。
アルシエルは誓った。
ベリアルに復讐をすると。
いつか必ず力を手に入れ、ベリアルに挑み、両親や村の皆が味わった絶望を刻んでやると、多くの嘆きがはびこったゲームの果てに、胸へ強く誓った。
ゲームの序盤で果てたサダラーの顔が忘れられない。長たる上級悪魔が負けた光景が目に焼き付いている。父と母の、勇敢な戦いと石化の瞬間はアルシエルの奥底に刻まれ、後には妹スララだけが残った。
ベリアル・ゲームが終わり、ベリアルはエレアント自体に興味を失って、異世界へと渡った。新たな『ベリアル・ゲーム』を始めるために。際限のない遊戯を続けるべく、次元を越え、ベリアルは旅立っていった。
復讐の炎を胸に抱きながら、十数年後、アルシエルは『ダジウスの輝石』を入手した。
かつてエレアントを支配した魔神の力。神秘のペンダントを身につけ、『魔神アルシエル』へと彼女は生まれ変わった。
その過程で知ったことがある。ベリアルの右腕には、大戦で負った『火傷の痕』があると。人間の聖剣で作られたその傷は、ベリアルの魔法でも打ち消せない。
右腕に火傷の痕を持っている者を、片っ端から召喚すれば。
その中にベリアルはいる。
唯一の手がかりを胸に、アルシエルは天空宮殿トルバランを乗っ取った、魔神となったアルシエルは、そうして『アルシエル・ゲーム』を開催した。
† †
「前には進んでいる。あの時の無力な私は、もういない」
過去の悪夢から覚め、薄っすらと涙を流しながらアルシエルは独りごちる。
「路傍の石でしかなかった私はダジウスの輝石を得た。誰にも恐れられる魔神の力を得た。今ならばお前を殺せる。現れるがいい、ベリアル。貴様は私が倒す」
頬を伝った涙は父たちの無念。母や、イータや、ヨーテやサダラー、そして村のみんなを含めた、怨念の塊でもある。
ベリアルを倒す。
憎悪が湧き出てアルシエルの中を支配する。
ああ――と、アルシエルは身震いして、小さな吐息を洩らしていく。
憎しみで自分の中が彩られる。スララや彩斗と話した記憶が、大波に押し流されるように薄れていった。
脳裏の中では、あの日見た村の光景、石化のイータ、ベリアルの見下す瞳が次々と回り、わずかに残っていた優しいアルシエルの心は、幻のように消え失せる。
「ベリアルを殺す。ベリアルを殺す。ベリアル、ベリアルを殺す。ベリアルを殺す。ベリアルを殺す。ベリアルを――殺す」
呪詛のごとく撒き散らした言葉は空中に溶けていく。その様子をメイドの少女、シャノンが目を瞑りながら聞いていた。
傍らの宝玉オーブを、無造作にアルシエルは手に取った。
それはアルシエル・ゲームの開始と終了を司る魔法具だ。言わばゲームの管理をする鍵。それを用いて、アルシエルはゲームの開催を行った。そして、別の用途にも使える。
オーブを、起動させる。今日の闘技を開始させる。日付は変わって、すでに零時となっていた。アルシエルは冷然と、手に魔力を込めながらオーブに語りかける。
「今から『闘技』を始める。その前に、マスターとしての権限を行使。代理の魔物として、私、アルシエルが闘技に参加する。相手は、スララと彩斗。そして、私が代理として組む人間は――」
ベリアルへの憎悪が心の大半を占める中、スララとの約束だけが、かろうじて残っている。
『アルシエルが闘技に参加し、彩斗とスララのペアと戦うこと』
それだけが、彼女の脳裏でかすかに躍っている。
オーブが輝きを増す。闘技場にペア達が集められる。
――決戦の時が、始まろうとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます