第37話 魔神の涙
決戦を行った闘技場は、静けさに覆われていた。
誰も、何も口にしない。注がれるのは驚愕の視線ばかりで、動揺を含んだ気配に満ちている。
完全に、静寂のままの観衆席を後にして、彩斗たちは、ガーゴイルに連れられ、第一層のアルシエルの部屋へと歩いていた。
「ベリアルはあたしたちから全てを奪った……」
スララに肩を貸してもらいながら、懺悔するように、アルシエルはつぶやいた。
「幸せな時間も……楽しい未来も。笑顔あふれる瞬間を、奪っていった。だから殺してやるつもりだった。あたしが罰を与えるのだと、ベリアルに同じ思いをさせて、復讐するのだと……そう、思っていた……」
憔悴したアルシエルをスララは優しく抱きしめた。
もう戦いは終わり、悪夢は覚めたと、暖かな体温でそれを伝えていく。
「毎日が、憎しみとの戦いだった……。油断すれば、すぐに憎悪で私の理性は消えるとわかっていた……だからスララのことを毎日考えて、それだけは防ごうと務めた。スララの弾んだ声、明るい笑み、あどけない仕草……何度も何度も、そればかり頭に浮かべようとした……。でも、ベリアルへの憎しみは日に日に強くなる一方で、抑えるのもままならない状態だった……」
「アルシエル……」
すでに闘技での傷は全員癒えている。腕輪は闘技の終了と同時に治療の魔法を発動させ、それはゲヘナでの傷すら癒やしていた。
けれど精神的な疲労までは治せないため、スララはアルシエルに肩を貸し、その後ろで彩斗が支え、彼らの前にエルンストやガーゴイルがいる構図。先頭をガーゴイルにして、一同はアルシエルの部屋へ向かっていた。
「今でも消えはしない、私の中の憎悪の炎を。私は……ベリアルが憎かった。けれど、そうしているとスララは悲しむんだね……。ごめん、ごめんよ、スララ。愚かな姉で、ごめんな……」
「もういいんだよ、お姉ちゃん」
スララは柔らかな声をかけた。
「自分のことを愚かなんて言わないで。わたしのことを考えていてくれたことは嬉しいよ~。わたしこそ、ごめんね。ずっとずっと、お姉ちゃんは苦しんでたのに。わたしは何もできなかった。だから、今度からは、わたしがお姉ちゃんの助けになる。お姉ちゃんも、わたしを頼って。姉妹なんだよ? たった二人の姉妹なの。だから、困ったときがあったら、わたしに言ってほしい」
アルシエルは、溢れんばかりの感情を抱いていたが、それを表す言葉が出なかった。
「すまなかったな……。お前には心配をかけっぱなしで……寂しい思いばかりさせて……私は、姉として失格だ」
「ダメだよ、お姉ちゃん、そんな自分を追い込んだら」
スララが優しくも厳しい声音で言った。
「そうやって自分をどんどん追い込むのは良くないよ。お姉ちゃんにはわたしがいるから。昔はお転婆だったけど、今は違うから。お姉ちゃんの危機は、わたしの危機だよ。だから……」
少し、涙声を滲ませて彼女は言う。
「もう一人で悩まないで。わたしにも相談して、お姉ちゃん」
「スララ……」
ぎゅっと、姉妹は目元に涙を溜めたまま抱き締める。小さな震えが互いの体に伝わっていた。これまでの孤独感や、虚しさ、後悔の感情が、余すことなく伝わり、小さく彼女たちは嗚咽した。
しばらく、全員が立ち止まり、姉妹のくぐもった声だけが広がっていく。
「……ゲームは、終わらせる」
数分ほどそうした後、アルシエルが決然と口にした。
「闘技は私の負けだ。約束通り、アルシエル・ゲームは今日をもって終了させる。全てのペアは開放し、治療した後、元の世界に帰そう。それが……私が成すべき、最低限の償いだ」
「うん、そうだね、お姉ちゃん」
涙を滲ませていたスララだが、彩斗とエルンストへ向き直ると、真摯な表情を向ける。
「彩斗たちもありがとう、色々と迷惑かけて、ごめんね」
アルシエルも後に続ける。
「私からも……改めて謝罪を。本当に、すまなかった。お前たちには、本当に何と言っていいのか……」
「いえ……そんな」
思わず苦笑をこぼし、彩斗は言う。
「ボクは、この世界で色々なことを学びました。スララとの出会い、困難への打ち勝つ方法。そして、諦めない意志。それらは、ここへ来なければ得られませんでした」
影が薄い、存在感がないと言われた自分。けれど今の自分は、あの時のように自分に自信がなく、未来に希望がないなんて思わない。
道がなければ自分で切り開けばいい。困難は乗り越えられる。そう――大切な事を学んだから。
「結果論かもしれませんけど、今はもう、アルシエルさんを悪くは思ってないです」
「そうか……優しいな、彩斗は」
静かな口調のまま、アルシエルは呟いた。
「もちろん、途中で何度も怖い思いもたくさんしましたけど……」
彩斗は笑って続ける。
「アルシエルさんの事情は理解出来ました。スララとの関係を知って、ベリアルの残虐さを聞いて、最後の闘技をして……思ったんです。アルシエルさんは、自分の中の憎しみと戦っていた。必死に抑えながら、何とか被害を最小限にしようと頑張っていた。それを否定出来る権利はボクにはありません。その強さは……ボクになかったものだから」
憎悪に歪む復讐鬼の瞳に、砂粒ほどの後悔を見た。
紅蓮の爪が振るわれ、大気が焦がされるとき、彼女の魂は叫んでいた。
ベリアルが憎い。殺してやりたいくらい憎い。けれど同時に、これ以上やれば戻れなくなる。
理性が死に、破壊の衝動のまま牙を剥く獣になる。それだけは嫌だ――スララとの平穏が遠ざってしまう。
そんな、矛盾という名の牙が心を抉り――砕き、引き裂かれそうだった時。スララへの家族愛だけが、彼女を必死に繋ぎ止めていた。
その苦しみを、彩斗は少しは判ってあげられる。
彩斗も、もしスララがいなくなったらと思うと怖かった。
だから、アルシエルのした事は許されないけれど、その内の中の強さだけは、認めてあげたかった。
「ボクは何度か、アルシエルさんの攻撃を受けましたけど……致命傷はなかったです。これは、意識のどこかで、アルシエルさんが手加減したからじゃないですか?」
「それは……偶然の産物だ。私はあのとき、お前はどうなってもいいと思っていた。殺意に満ちていたのは確かだった。そんなもの、何の免罪符にもならない」
「別にいいじゃないですか」
彩斗は首を横に振った。
「殺意があって、本気で攻撃したのは本当だと思います。でも……なんて言うか……『直撃』させる意思は、なかったんじゃないですか? だって、そうじゃないとおかしいです。戦う訓練もしたことないボクが、こうしていられるなんて。ボクが五体満足なこと自体が、アルシエルさんが根底で自分の中の憎悪と戦った、証拠なんじゃないかって、今は思います」
「そう、か……」
見つめる先のアルシエルの瞳には大きな後悔があった。
それに労りを込めるように、少しでも彼女が罪悪感で潰されないように、彩斗は穏やかに続ける。
「アルシエルさんがやったことは、どう考えても許される事ではありません。それはもう変えられない。でも、アルシエルさん自身が変わることは、出来ると思ってます」
「変わる、だと……?」
「そうです。スララが今言ったように、彼女を頼ってあげてください。そして助けあってほしいです。ボクも……スララのおかげでたくさん救われました。戦いはまだ怖いけど……それに立ち向かえる勇気をもらいました」
「彩斗……」
夜津木との闘技と思い出す。ガルムとの激闘が頭に過ぎる。
いつだって、彩斗の心は挫けそうになっていた。けれどスララの励ましが、笑顔が、彩斗に力を与え、不可能を可能にした。
一人では限界がある。けれど二人ならば、ましてや姉妹なら、残された困難な道も乗り越えられるだろう。
「今度は、アルシエルさんが、スララから貰ってください。困難に負けない勇気や愛情を。それが、ボクからアルシエルさんへの、お願いです」
「彩斗……君は……」
涙混じりに、アルシエルは言葉に詰まる。
「許すだけでなく励ますなどと……。君は、本当に……」
それ以上は、感情に押し流されて言葉にならない。
嬉しくて。
そして申し訳なくて。アルシエルは心の奥底で浄化されていくのを感じた。
しばらく――アルシエルが声を出さずに泣いた後。
「ワタシも、彩斗と同感である。彼と同じ結論しかない」
エルンストが、大きく頷いて言った。
「過去も大事だが未来も重要である。アルシエル、あなたはこれからベリアルという過去に縛られず、未来を見て歩むのである。今回のことは、あなたにとって最大の失策だろう。しかし失敗したらそこで人生が終わるのではない。失敗は、新たな始まりなのである。スララと手を繋いで進む。懺悔への――長い未来への第一歩。ワタシは、そう思うのである」
「……エルンスト」
アルシエルの声が、涙で震えている。かすれる声でかろうじて感謝の意を述べる。
「すまない、彩斗。エルンスト。ありがとう……」
感極まって、アルシエルが両手で顔を覆って泣く。
孤独な戦いは終わりなのだと。他にも方法はあるのだと。
そう諭された彼女は、十数年の間、自らを縛り付けていた無念や哀しみ、憎悪の鎖から解き放たれ、声を上げてすすり泣いた。
静かな嗚咽だけが、回廊の中で響き渡った。
こぼれ落ちていった雫を、スララが優しく拭っていく。
いつまでもいつまでも。姉妹は――互いに抱き締め合っていたのだった。
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