第24話 スララの正体
「ねえねえ見て、彩斗~」
晴れやかな声のスララに、彩斗は振り向いた。
「また彩斗の絵を描いてみたよ~。どうかな」
うきうき顔のスララが差し出したのは、彩斗がノートをとっている姿のイラストだ。闘技の戦術について、彩斗がノートにシャーペンを走らせている様子を、スララが描写したものだった。
かなり真摯な表情の彩斗になっていた。ノートに描き込んでいる彼は唇を結び、目をやや細くして、真摯な雰囲気を醸し出している。以前にスララに描いたものと比べて、より繊細に描かれている。
「随分と……イケメンというか、ボクこんな格好良かったっけ? 本物より五割増しのような」
「えへへ……彩斗が一生懸命にしてる姿を見て、思わず描きたくなったの」
頬をほころばせて、スララが言う。
彼女には、ノートの切れ端を渡していた。作戦などについて談義した後、気晴らしにスララが何か描きたいと言ったので、あげたのだ。また自分が描かれることになって、思わず彩斗は気恥ずかしくなる。
「ボクなんか描いて楽しいの?」
「楽しいよ~。一生懸命にしている姿って、好きだもの。何だか、わたしまで嬉しくなる~」
見れば、リコリスまで楽しげに揺れている。そんな彼女を見ていると彩斗まで何だか気分が弾んできて、自然と口の端が緩む。
しかし、彩斗が呑気にしていられるのはそこまでだ。
「そういえば彩斗~」
「ん? どうしたの、スララ」
「彩斗の鞄って、色々面白いものが出てくるよね。他にどんなものがあるの~? 見せて欲しいな」
「ん。……大したものは入ってないよ。筆記用具に、ノート……それからチューインガムに、教科書があって、それから……」
瞬間、彩斗は顔を強張らせた。
「あ、ああ……」
「? どうしたの~?」
「え、あ、いや、何でもないよ? そのくらいだよ、入っているのは。あはは……」
極めてまじものが入っていることを、彩斗は思い出した。
それは男なら誰しも一度は手に取った事があるもの。肌色にして官能を刺激する兵器である。
――要はエロ本だ。
この宮殿に召喚される前、学校帰りに捨てられていた物を、つい拾い、家に仕舞う暇もなく、召喚されたのだ。
もちろん、これがスララに見られるのはまずい。
とてもまずい。
スララは穏やかな性格をしているが、さすがにこれを見て許容してくれるとは思えない。
何しろすごく際どい内容だ、ちらっと開いただけで彩斗は悶絶した。ほとんど永久保存クラスの一品。
こんなものを、女の子であるスララに見られたら――。
『最低、彩斗。変なの持ってる』
『ち、違う! 誤解だ、スララ!』
『こんなハレンチな格好が好きなの? うわ、彩斗のこと、見損なった~。変態、変態。近寄らないで!』
――それはそれでいいかも。いや良くないから! 人生終わるから!
割と本気で。パートナーの少女に見捨てられるとかバッドエンド過ぎる。
「ねえ彩斗、わたしその鞄の中身、見てみたいな。ちょっと開けてみてもいい?」
「いや、だ、駄目だ!」
慌てて血相を変え、彩斗は鞄に近寄ろうとするスララを腕で遮る。
「この中はね、大したものは入ってないんだ。うん、この前出した缶ジュースやチューインガムの他は、どうでもいいものなんだ。だから、見る必要はないよ?」
「そうなの? そんな冷や汗出てるのに?」
「気のせいじゃないかな? 光の加減とかでさ?」
スララは、一瞬怪訝な顔をして、その話は終わりとばかりに、背中を向くと見せかけて――。
「怪しい。やっぱり中を見てみる~っ」
「駄目だって、マジで駄目だってスララ!」
腕を伸ばそうとするスララを必死に彩斗は押しとどめる。
しかし彼女も簡単に諦めない。彩斗が鞄を下げるとスララが腕を伸ばし、彩斗が体勢を変えると再び追いすがる。
「どうして? 彩斗、鞄の中見せてくれないの?」
「あ、諦めてくれないかなスララ。本当に大したもの入ってないんだ」
しかし、スララは何やらリコリスを二房とも伸ばした。
うねうね、くねくねとうごめく触手。
「え。ちょっとスララ。それはマズイって。リコリスは反則だって。そんなの使われたら、ボクはどうすれば……っ」
「じゃあ見せて~。気になる~」
彩斗はがくがく震えた。
「見せられるわけがないから! 許してくれスララ、これだけは無理だって。あっ、スララ、リコリスを伸ばすのやめて。包囲するのをやめて。ああっ、鞄が巻きつかれた……っ、スララ、やめて、ああっ、鞄っ、取らないで――っ」
彩斗の抵抗もむなしく、あられもない女性の裸の雑誌が、スララの前に晒された。
数分が経って。
「きゃ~! わ、わたし、こんな目に遭うの!? 彩斗に服をひん剥かれて、こんな姿にされちゃうの~!?」
「ち、違う! ボクはそんなことしない! 信じてスララ!」
「胸が大きい人いっぱいだよ~、あられもない格好の人ばかり~、あわわ、この人、とっても艶かしい~っ」
「違う! いや違わないけど……と、とにかくスララ、本を返して……っ!」
その後、しばらく彩斗は『巨乳好き』とスララに言われ、針の山に座らされた思いだった。
別に軽蔑などはされていないが、目が合うと、「胸、見る?」と冗談交じりに言われ、穴があったら入りたいほど恥ずかしかった。
今度からエロ本拾ったらすぐ記憶するだけに留めよう――そう誓う彩斗だった。
† †
「ああ、まったくひどい目に遭った……」
彩斗の秘密の本騒動からずいぶんと時間が経っている。
すでに時刻は真夜中。すでにスララは横になっている。
さっきまでの騒ぎを思い出しているのか、何やら「うう~ん、肌色、肌色がいっぱいだよ~」「きゃ~、彩斗、こんな所で胸を掴んできたら駄目~、周りに人がいるよ~」などと、夢を見ている。
いったい彼女の中で自分はどうなっているのか、想像すると不安になってくる。
けれど、なんだか、そんな時間でも、多少は楽しかった。
馬鹿な騒ぎではあったが、気持ちがほのかに高揚して、苦笑が漏れていく。
スララとの交流は穏やかった。
彼女の笑みは優しくて。暖かくて。
心地よい想いに浸りながら、彩斗は意識を、睡眠へと向けていく。
思えばアルシエル・ゲームに巻き込まれてから、一番明るい気持ちのままの夜だった。今後への不安や恐れなど感じられない、もっと前向きな気分が芽生えた上での時間が訪れていた。
安心感が自分を包んでいるのだと、彩斗は思う。スララと一緒にいるだけで、心は満たされていく。
スララが頬を染める表情が忘れられない。恥ずかしそうにしつつ、本をめくる彼女を思い出すと、微笑ましさや愛おしさ、守りたいという気持ちが次々芽生えていく。
色んなスララが彩斗の脳裏の中で躍っていた。その中で、彼女は時に明るく、時に優しく、時には凛々しい表情をして、彩斗の隣にいるのだ。
幸せな夢を見た。
数多の激戦を潜り抜け、全ての闘技を勝ち抜き、アルシエル・ゲームで優勝した彩斗が、勝ち抜いた証である本、『想示録』を高く掲げている。
傍らにはパートナーであるスララ。目の前にはアルシエル。
黒いウェディングドレスのような衣装を揺らし、傲岸な口調を使いながらも、ゲームの主催者たるアルシエルは、闘技を勝ち抜いた彩斗とスララに、惜しみない賞賛の言葉をささやいていく。
彩斗はその口上を前にして、高揚感に包まれていた。スララと戦い、何度も繰り広げた激闘。苦しくて、何度も諦めかけたけど、その度に彼を救ったのは、スララの笑顔と励ましの声。
『彩斗~、頑張って!』
夢の中で、スララの声が鳴り響く。
『彩斗、すごいよ~。きゃー』
愛らしい笑みを浮かべる彼女と共に、激闘を潜り抜けていった。強敵がいた。難敵がいた。策を張り巡らす強者で苦戦したし、英雄に相応しい傑物もいた。
けれど、それら全てを、スララと共に退けた。
夢の景色はスララの励ましの言葉で溢れていた。長い戦いの中で培われた信頼が瞳の中に込められ、繋いだ手のぬくもりが彩斗を暖かくさせる。
『スララ……』
優勝した喜びが大きすぎて、彩斗はよろけてバランスを崩す。つい、彼女の方へ倒れてしまった。少し慌てながらも、受け止めるスララ。笑う彩斗。「ごめん」と謝りながら、彩斗はスララに肩を貸してもらい、態勢を立て直す。
その瞬間、彩斗は自分の右手の火傷の痕が目に入った。弾みで、スララの肘のところの火傷の痕も、目に入って――。
え?
幸せな夢の中、わずかに意識を持っていた彩斗は、不自然な点に気が付いた。
いま、自分は何を見ていた?
夢。
夢だ。もしも順調に闘技を勝ち抜いていき、アルシエル・ゲームを制覇したら、という仮定の夢。幸福な光景。理想の映像。
でも、そのどこかにおいて、明らかにおかしな部分がある。
――火傷の痕がなかった。
スララの右の肘に、あるべきはずの火傷の痕がなかった。
アルシエル・ゲームに召喚された者たちは、全員が右腕に火傷の痕を持っている。
例外はない。何日もかけて調べた。その末に、結論づけた。
そして何より、エルンストと初めて会話をしたとき、話の流れで、スララの火傷の痕も確かめたではないか。彼女はケープをまくり、肘にある火傷の痕を見せてくれたのだ。
じゃあ――いま見た夢のスララの肘は、どうして綺麗なままだったんだろう。
あれほど克明に見たのに。確かにスララの肘には火傷の痕があると、確認したのに。それでも彩斗の夢のスララは、綺麗な肘を持っていた。
ドクン。
一つ思い出したことがある。
彩斗はこの幸せな夢の前に、火傷の痕がないスララを見たような気がする。
ドクン。
それはいつだっただろうか。そんなに前のことではない。むしろ今日の出来事。夢に出るほど強烈な瞬間があり、それを元にして、夢のスララは構築された。
それはいつだっただろうか。
本の騒動のとき? いや、違う。あのときスララは衣装を着ていた。
もっと前。
思い出す――それは、湯浴みのためにスララが服を脱ぎ、マダラコグモが出た後――真っ白な太腿や、豊かに実った胸、そして『綺麗な腕』を見た、あの瞬間。
「まさか……」
かすかな物音を聞き止めて、彩斗の意識が完全に浮上する。
二人しかいない牢屋の中で、すぐ隣から音が聞こえた。
民族衣装が織りなす、かすかな空気の乱れだ。鋭敏化された彩斗の意識が、スララがリコリスのベッドから起き上がり、ゆっくりと床へ足をつける気配を感じ取る。
「(スララ?)」
かすかな呼吸音と共に、スララはベッドから離れて行く。足音はしない。スララは裸足だった。集中していなければ感じ取れないほどわずかな衣擦れ音だけで、スララは格子の方へと歩み寄った。
何をする気だろう。
ひょっとすると、なんてことはない行動かもしれなかった。眠っていたら、たまたま目が覚めて、なんとなく起き上がっただけかもしれない。格子のそばに寄ったのも意味はなく、ほんの気まぐれ。だから――別に気にすることはない。
そのはずなのに、彩斗の心臓はドッドッドッと信じられないくらい高鳴っていた。
「――」
かすかにスララが動く気配がする。我慢できずに、彩斗は、目を薄く開けた。
スララが、リコリスの先端を変形させていた。
それは鍵のように見える。複雑なギザギザがついていて、手のひらサイズの鍵。スララはリコリスを動かすと、その先端の鍵を、格子の穴に差し込み――。
カチリ。
あり得ない音が鳴る。
開いてはならない格子、闘技になるまでには絶対に開けられないはずの格子が、スララのリコリスによって、開けられた。そして少しずつ、開閉音が鳴らないよう、格子をずらし、スララは外に出ていこうとする。
――夢だと、思いたかった。
スララは格子を完全に開けた。
――何かの間違いだと思いたかった。
スララは牢屋の外に出た。
そして彼女はきょろきょろと廊下の様子をうかがい、誰もいないことを確かめると、しっかりとした足取りで、廊下の奥の方へと歩いて行った。
「――っ、――っ!」
声を出そうとしても出ない瞬間があることを、彩斗は知った。
あり得ない。頭の中はそんな単語ばかりで、他には何も浮かばない。いや、「嘘だ」という単語と、「なぜ?」「どうして?」という疑問がいくつも飛び交っている。そして直後に浮かび上がるのは、「追いかけるべきだ」という焦燥感。
彩斗は、物音を立てずに、リコリスのベッドから降りた。
そしてスララと同じように、靴を脱いだまま格子のところまで寄っていった。
鍵は閉められてはいない。忘れたのか、何らかの手間が掛かるのか、何にしても彩斗のやることは一つだった。ゆっくりと格子をずらし、体をくぐらせる。
彩斗は、牢屋の外に出た。
本来ならあり得ない状況だった。けれど深く考えている時間はない。気配は右の方にあった。スララは廊下を右に進んでいったらしい。彩斗は壊れそうなくらい速く鳴る胸を押さえながら、彼女の後を追っていった。
薄暗い通路の中で、篝火が並んでいる。空気は湿っぽく、硬い石の床がどこまでも続いている。
いくつもの格子が見える。他のペアが閉じ込められている牢屋だ。彩斗は思わず息を呑む。もしも牢屋を抜けだしたことが他のペアにバレれば、騒がれるかもしれない。
けれどその心配はない。廊下の幅は広く、大人が十人手を広げてようやく端に到達するほど。牢屋と反対側の壁に添って歩けば、薄暗い空間が彩斗の姿を隠してくれる。
しばらく歩くと、スララの背中が見えた。
落ち着いた足取りの彼女の後ろを、二十メートルの間隔を開けて彩斗はつける。
心臓が恐ろしいくらい速く鳴っている。その音でスララに気づかれるのではないかと思ったが、彼女はただ前に進むだけで、後ろには注意を払わない。
長く薄暗い廊下を進んでいくと、時折石像が立っているのが目に入る。
ぎょっとして彩斗が見ると、その石像はコロシアムの石像と同様のものだと気付く。過去のゲームで石化された人間や、魔物たちの成れの果てが、牢屋の層にも点在しているのだった。
あっと彩斗が声を上げかけたのは、それから少し後のことだった。スララの行く先から、ガーゴイルが向かってきた。
けれど、ガーゴイルはスララなどいなかったかのように素通りした。まるで、彼女がいることを承知しているかのように。一瞬だけ石の番人はスララを見ると、そのまますれ違ってしまった。
――どうして?
彩斗は愕然とした。
なぜスララは、ガーゴイルに見つかっても、何もされない。
疑念が彩斗の頭で渦巻くが、深く考える余地はなかった。彩斗は点在する石像の一つの陰に潜み、ガーゴイルをやり過ごす。無事に通り過ぎたのを確認してから、震える足取りで後をつけていく。
長い――薄暗い空間をどれだけ歩いたのだろう。やがて見えたのは、真紅のカーペットのひかれた階段だった。その階段を、スララは慣れた様子で上がっていく。左右を高い壁に覆われた、長い階段だった。彩斗も後に続く。
そして階段を登り切り、T字となった角をスララが左に曲がった後だった。信じられない言葉が、彩斗の耳に飛び込んできた。
「お帰りなさいませ、スララ様」
背中に電撃が走ったような間隔が、彩斗を貫いた。
T字の角から様子を伺うと、スララが微笑み、相手を労っているのが見えた。
「うん、ただいま~。異常は何もない?」
「ございません。今晩は特別に平穏でございます」
メイドだ、スララに声をかけたのは可憐な少女だった。人間ではないらしく、尖った耳をした少女は、フリルのついた黒の衣装で折り目正しく礼をすると、一歩下がった。スララから小さく「ご苦労さま~」という声が聞こえた。
恭しく礼をしたメイドの少女が、傍らの扉を開ける。精緻な彫刻が施された扉だった。スララがそこを潜っていった。そして、聞こえてきたのは――この宮殿の支配者の声。
「お帰り、スララ」
「ただいま~、お姉ちゃん」
思考が完全に停止した。彩斗は彫像のように凍りつく。見えるのは、スララが親しげに話しかける様子。そして、彼女に優しく声をかける魔神アルシエル。
それ以降は、もう彩斗は何にも見えないし、考えられない。
メイドの少女によって扉が閉められた後、彩斗は来た道を引き返し、牢屋の中でがたがたと震えるしか、出来なかった。
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