第5話 スライムの少女
冷ややかに湿った空気が、肌を撫でた。
すえた匂いが鼻に取り込まれる。硬い、石のような感触が、体の節々を痛めさせ、それで彩斗は目が覚める。
「あっ、起きた~」
弾んだ声が響き、彩斗は何度か瞬きをした。
あのとき、助けてくれた少女だった。くりくりとした瞳が彩斗の顔を覗いている。肩より少し長めの髪は清い水色で、もみあげの部分だけが長く、半透明になっている。
衣装は、どこかの民族衣装だろうか。涼しげな色のケープが目立つその服装は、昔テレビで見た素朴な集落で暮らす人々を思い起こす。
彼女は、少し安心した表情をしていた。白い手をぽんっと優しく叩いて、頬を緩ませる。
「良かったよ~。あの後、倒れちゃったから、どうしようかと思ってたんだ。大丈夫? どこか痛いところとかない? 何かあったら言ってほしいな」
「い、いや。どこも怪我してない。大丈夫」
「そう。それなら良かった~」
少女はひまわりのような笑顔を浮かべた。
そのあまりに自然な笑みに、少しだけ彩斗はほっとした。靄がかかったように記憶は曖昧だったが、徐々に、これまでのことが思い起こされていく。
学校帰りの魔法陣。
殺人鬼の刃。
黒い大蛇ような炎。
カーバンクルの石化。
そして、アルシエル・ゲームの開幕――
「――そ、そうだ! ボクは気絶して……ここは、どこ?」
「牢屋だよ~」
少しのんびりとした口調で、少女は言った。
「牢……屋?」
「うん。あのね、あの後、アルシエルがゲームの開催を宣言した後、羽が生えた石像――ガーゴイルが、わたしたちを先導していったの。そしたらこの牢屋に連れて来られて、中に押し込まれちゃった」
眉根を寄せて、少女は困った顔をした。
「そんな……じゃあ全部、夢じゃなかったんだ……」
「そうみたい~」
せめて悪い夢であってほしい――心の中でそう思っていた彩斗は、無残に砕かれた希望に意気消沈する。
学校の帰りの魔法陣も、殺人鬼である夜津木も、数多の人間や魔物たちも、アルシエル・ゲームも全てが現実。
青い顔のまま、冷や汗が流れて止まらない。
「こ、ここからは出られないの?」
「無理みたい~、壁も格子も、すごく頑丈なの。さっき叩いてみたけど、こっちが痛くなっちゃった」
彩斗と少女がいるのは薄暗い空間だった。灰色に包まれたその場所は無機質であって温かい色はなく、むしろ寒々しい印象を抱かせる。
光源は、頼りなげに灯る小さな篝火。床は灰色の石で、天井、壁、それらを含め、全てが無骨な灰色の石でできた部屋だった。出入口には黒い格子が立ち並んでいたが、どう見ても抜け出せるような雰囲気ではなかった。
「そ、そんな……じゃあボクは、ゲームに……アルシエル・ゲームに、巻き込まれたままなの?」
少女は少しだけ顔を伏せた。
「……うん。そうみたい。わたしとあなた、二人で、何とか勝ち抜いていかないと」
「む、無理だ、そんなの……」
自然と、自分を抱きしめる形になって彩斗は震える。
魔法だった。アルシエルが操ったのは紛れもない魔法だった。火炎を生み出し、手首に腕輪を出現させ、瞬間移動すら可能としていた。
他の件などの武器を持つ人々や魔物もそう。凄まじい速さで跳び、激しい攻撃を放ち、戦いのための技を繰り出していた。
誰もが彩斗より、遥かに強い俊英。
「あんなのと、どうやって戦えば……」
高校になるまで平凡に生きてきて、取り柄と言えるものなんて何もない。成績は中の下、スポーツだってしていないし、身を守る手段だって何一つない。
ふとした瞬間に、忘れられるくらい影の薄い学生なのだ。大剣や地獄の業火や巨人たちがひしめく中、勝ち抜いていく自信などこれっぽっちもなかった。
それに――。
「うん?」
水色の髪の少女の方を見て、彩斗は唇を噛みしめる。
目の前のパートナーである少女は、どう見てもか弱い女の子にしか見えなかった。白い肌も、細い手足も、争い事には向かないような印象だ。とてもではないが、あの戦うために生まれてきたような人々に混じって、勝ち抜くなど不可能だ。
しかし――。
「大丈夫だよ~」
少女は、にこりと頬を緩ませる。
「アルシエル・ゲームはね、一人だけの戦いじゃないよ。二人で協力して戦うゲームだよ~。あなたが怖くなっても、わたしが頑張るから。そんな、落ち込まないで」
少女は優しく語りかけてくる。それでも彩斗の脳裏には、どうしても諦めの念が湧き出てしまうのだ。
夜津木の凶器の笑みが浮かぶ。
巨人の豪腕と、荒々しい金属棒。
アルシエルに撃退はされた大剣の男や杖の女性たちだって、尋常ではない動きだった。それと比べて、自分はなんて非力なのだろう――彩斗は自分を抱き締める。
声すらも出せなくなってしまった彩斗に対して、少女は、
「――それじゃあ、コインで決めようよ~」
「こ、コイン……?」
「うん。今から、わたしが一枚のコインを投げるの~。それで、表が出たら、わたしとあなたで、ゲームを『戦う』、裏が出たら、『戦わない』ことにする」
彩斗の目の前で、少女はスカートのポケットから一枚の硬貨を取り出した。彩斗は困惑のまま、
「た、戦わない? じゃあ、何もしないで、ただ負けるの?」
「うん。そうだよ~」
彩斗の問いかけに、何の迷いもなく少女は応えてくる。
「で、でも……それじゃ、キミは」
「いくよ~」
「ま、待って。それはいくらなんでも……っ」
ぽーん、と、緩やかな動作でコインが放り投げられる。彩斗が止める間もなかった。ゆるやかに回転しながらコインは宙を登っていった。やがて、天井近くにまで投げられたそれは、篝火のわずかな光を受け、落ちてくる。
彩斗は、見ていることしかできない。
石のように強張った体で、ただ自分の運命を眺めるしかない。
けれど、少女は――。
次の瞬間、床に落ちかけたコインを、手でバチンッと払っていた。
「え、え……?」
音を立ててコインが転がっていく。格子を越え、くるくると回転しながら進む硬貨は、もう手を伸ばしても届かないところまで行ってしまった。
何がなんだかわからない様子の彩斗に――少女は、にこっと笑ってみせる。
「理不尽なことが起きても、自分たちの手で振り払っていこうよ。――きっと、大丈夫だよ~。強い人や、賢い人ばかりがいるわけじゃないよ。わたしだって半人前だけど、色んなことができると思うから。一緒に、がんばろ?」
「君は……」
――少し、思い違いをしていたのかもしれない。
そんな風に、彩斗は思う。
彩斗は自分に自信がなく、飛び抜けた成果が出せるとはまだ思っていない。しかし目の前の彼女は、か弱そうなだけの少女ではないのかもしれない。
不安はある。どうしようもないほどに胸に巣食っている。
けれど。
このとき、確かに彩斗は少女の言葉に、ほんの少しだが希望を抱かされたのだ。
コインは暗闇の中を転がっていく。是か非かしかなかった選択肢が、遠くどこかへ消え去っていく。
それは、暗示だ。可能性なんて転がっている。嫌なものは弾ける。そして、それは自分たちで成し遂げられるのだと。そう、彩斗は救われた。
「あ、そういえば、名前をまだ聞いてなかったよ~」
しばらく経って、明るい声で少女は朗らかに言う。
「ぼ、ボクは……」
掴めるだろうか。絶望ではない未来を。届くだろうか、明るい世界に向かって。
「ボクは……及川彩斗って言うんだ。その、よろしく」
「わたしの名前は、【スララ】だよ~。これからよろしくね、彩斗~」
半透明の房が、跳ねるように振るわれる。
弾ける笑顔の少女――スララを前に、彩斗はせめて、この娘だけは石化させたくないと、そう思っていた。
† †
「それで、どうしよう。今後の方針が必要だよね」
互いに名乗り合って、数分後のこと。彩斗はスララに、そんな言葉を向けていた。
「まず確認したいんだけど、この牢屋からは出られないんだよね」
「そうだよ~」
少しばかりのんびりとした口調で、水色の髪をなびかせながらスララは応じる。
「格子も壁もすごく硬いよ。叩いても全然ダメみたい。素材も硬いし、魔法もかけられてる」
何度か言葉を交わし合って、彩斗はスララのことをよく観察する余裕が出てきた。彼女は、穏やかな性格らしかった。それは話し方にも出ているし、ちょっとした仕草にも出ている。牢屋の中だというのに、まるでピクニックにでも行くような落ち着き具合だ。
それは彩斗にとって、ありがたかった。冷たく狭い牢屋の中で、スララのように平然とした少女がいると心強い。
パートナーが、もしも夜津木のような殺人鬼だったら――そう考えると、ぞっとせずにはいられない。
「どうしたの?」
格子をつんつんしていたスララが、少し心配そうにして寄ってきた。
「やっぱりどこか怪我をしていたとか。しっかり見たほうが良かったかな」
「あ、いや、そうじゃなくて。……色々驚いているんだけど、まず、わかってることをまとめたいんだ」
「あ、そうだね。それがいいよ~」
言って、スララはその場で床にゆったりと座り込んだ。調度品などほとんどない牢屋の中だ。くたびれた鉄製のベッドはあるが、毛布の類はない。
他には大きめの桶、ささやかな明かりを灯している篝火、あとは一応の寒さ対策だろうか、穴の空いた薄い布切れが無造作に置かれているだけだ。窓すらない。
一つ気になったのは、部屋の隅の一角に、拳大ほどの穴が空いていることぐらいだ。
網目状の鋼の蓋がされているところを見ると、排水路らしかった。
じめりとした牢屋の空気の中で、彩斗は聞いた。
「まず、ここはどこなのかな」
「牢屋の中~」
「いや、そうなんだけど……そうじゃなくて。すごく今さらなことなんだけど――ここはまさか日本――なわけないよね、はあ……」
「ニホン? 不思議な響き~。それが、彩斗の故郷?」
「まあ、そう。うん」
夢なら覚めて欲しいところだが、さすがにもうそうではないとわかっている。怖くとも、不安でも、置かれた状況を把握しなければ始まらない。
「そういえば、ここに連れてこられて最初、アルシエルは様々な世界から人間や魔物を召喚したって言ってたけど……」
「そうみたい~。ここは『エレアント』っていう名前の世界なんだけど、魔神アルシエルは他の色んな世界から、たくさんの人や魔物を集めたんだって。彩斗が気絶している間に、アルシエルが色々と説明してたよ」
異世界エレアント。
そこへ、様々な場所から集わされた、数多の人々。魔物たち。
「召喚……集められた……それじゃあ、スララも、どこかから喚び出されたの?」
「ん~」
わずかだけ、スララは考えたようだった。
「わたしはね、このエレアントが自分の世界なんだよ~。なんかね、数は少ないけど、アルシエルは同じ世界からもこの天空宮殿トルバランに召喚したみたい。数合わせなのかな~」
「召喚ってことは、まあ、馬鹿なこと聞くようだけど……魔法、なんだよね?」
「そうだよ~」
「色々と出来る、不思議な力、で合ってるのかな……」
「そうだよ~」
「何にもないところから火を起こせたり、飛行機もないのに空を飛べたりする、あの魔法……?」
「そうだよ。ヒコウキってなぁに? 彩斗の世界って少し不思議な響きが多いね。そういえば、アヤトも不思議な響き~」
華奢な手をぽんっと合わせて、スララが朗らかに笑う。
「あはは……」
彩斗は改めて出口を閉ざす格子を見た。黒く鈍く光る金属には、よく見ると細かい文字列が描かれている。魔法陣だ。スララの言う魔法が、この世界にあるのはもう確定だろう。そもそもコロシアムで散々見ている。
魔法――何か遥か遠くへ来てしまった感覚に、彩斗はこめかみから冷や汗が流れる。
「スララも、魔法が使える?」
少ない余裕の心を振り絞り、問いかけてみた。
「ううん、使えないよ。わたしは弱い魔物だから。アルシエルみたいに炎を出したり、炎を津波みたいに操るのは無理~」
スララは少し困ったような顔をする。
彼女はどう見ても普通の女の子だった。少しばかりのんびりとした口調をすることはあっても、とても恐ろしい怪物――魔物には見えない。というよりも、町で見かけたら振り向いてしまうような、可愛らしい顔立ちをした少女だった。
「そういえば、キミは何の魔物なの?」
「スライムだよ~」
あっさりと、彼女はそう言った。
「え」
「あっ、彩斗、よく見ると膝を怪我してるよ~。痛くないの?」
そう言うとスララは、髪の半透明の長い房を、ひょこひょこと動かした。意思あるもののように、小さく螺旋を描いた長い房は、彩斗の左足の膝に到達すると、ぺたりと触れる。
「う、わわっ!?」
予想外の出来事に、驚愕して飛び上がる彩斗。
「わ、動いたらダメだよ~。傷口に魔素がこびりついてるかもしれないから。悪質な魔素がずっと体についてると、倒れちゃうかもしれないよ」
「ま、魔素ってなに? いったいなに?」
「魔法を使ったときに出る残りカス~。放っておくと体がだるくなったりするよ」
驚き、慌てる彩斗に対して、スララは真剣な様子だった。半透明の房を一生懸命に動かし、彩斗の膝を念入りに調べている。
「な、何これ!? 冷たいというか、ぷにぷにしてるというか、半分液体みたいな髪……とても変な感じなんだけど!」
「動いたらダメだよ~」
「なんか蛇みたいに動いてない? だ、弾力がすごいよ、これっ」
「じっとしててね」
うねうねと半透明の房は動く。
「うわ、なんかくすぐったいし! 待った、その前にスライムって、まさかあのスライム? ゼリーみたいな外見で、ぷるぷるして、不定形な、あのスライム?」
「そうだよ~。あ、間違えて彩斗の膝をこすっちゃった」
「痛ああああ!?」
悶絶して、床の上を少しばかり跳ねながら彩斗は叫ぶ。スララは申し訳無さそうな表情で、「ごめんっ」と謝った。
「うう……キミが人じゃない、魔物だということはわかった……」
「あの、彩斗、大丈夫? ごめんね」
「うん、平気……。あの、それだったらスララ……スライムって言うことは、さっき自分でも言ってたけど、キミはあまり強くないの?」
「うん、弱いよ~」
「自信満々に言われても困るけど……そうか、キミはスライム――『スライム』なのかぁ」
女の子座りして済まなさそうにしている少女を見ると、まったくそんな気はしてこない。だが髪の半透明な房を眺めると、ほわほわ動き、次いでうねうね動いていることがよくわかる。
スライムだった。
紛れも無く、スララはスライムだった。
何より膝を触られたとき、半透明の房は冷たくて、弾力があって、妙な感触だと彩斗は思ったのだ。
半透明かつ半液体の部分は、どうやらもみあげから伸びた二房だけで、他は普通の少女と変わりない。そこは接しやすいと言えるが――アルシエルに召喚されてから、多くの驚愕や困惑を経験した中で、ある意味スララのことは、一番衝撃的だった。
「……あの、髪の毛、少し触ってもいい?」
「いいよ~」
快くスララはそう返事をした。どうやら、房は伸長が可能らしい――ゆっくりと、彩斗を怯えさせないように、伸ばしてくる。
「そ、それじゃあ、失礼します……」
呟いて、まず彩斗は半透明の房のうち、一番端の方を触れてみた。すぐにぽよんと跳ね返される。次いで恐る恐る、房を撫でてみる。ひんやりとした感触がして、「す、すごね……」と指でつついてみれば、その度に弾力性ある房は彩斗の指を押し返してくる。
まごうことなきスライムの感触だった。
「触られてる感覚はあるの?」
「あるよ~。触覚の他に、手足の代わりにも使えるんだよ~」
「自由に伸ばすことはできる?」
「限界はあるけど、伸ばせるよ~。小さな丘をぐるっと一周したことならあるから」
「へえ……」
笑顔で答える彼女の前で、ゆっくりとではあるが、何度かつついてみた。
「あはは、くすぐったいよ」
「ご、ごめん。まさか、本当に触覚でもあるなんて……」
くねくねと、半透明の房を動かしながらスララが笑う。それはまるで、元気いっぱいのひまわりのような笑顔だった。
柔らかで、本当に屈託がなくて。
あまりに無邪気な笑みに、顔を強張らせながらも、彩斗は少しだけほっとする。
――少なくとも、敵意や悪意はなくて良かった。それは、彼女を見てみればわかる。
同時に思っていた。これは、かなりの幸運なのではないか、と。
コロシアムの光景を思い出して、魔法を湯水のごとく使う様を思い返して、彩斗は考えずにはいられない。
凶悪そうな者ばかりだった。爪や牙、太い尾を持つ魔物はざらで、そういう魔物は見た限りでは、好戦的な連中ばかりだった。
アルシエルが命令口調で「戦え、戦え!」などと言ったとき、無数の殺気がコロシアムを貫いたのを、彩斗は忘れることができない。
殺意が槍のように放たれるなんて瞬間を、彩斗は初めて経験した。あれは元の世界では絶対にあり得ない瞬間。命を摘み取ることに容赦がない瞬間。
怖かった。冷や汗がたくさん出た。思わず気を失ってしまいそうになったし、膝は笑い、それでも何とか歯を食いしばって、耐えたのだ。
けれどそんな中、ほとんど唯一例外と言っていい気配があった。
スララだ。
彼女だけは、殺気なんて物騒なものではなく、もっと暖かな空気を発していた。
コロシアムでの記憶は、怖い気持ちや、困惑から、あまり鮮明には思い出せないが、スララの様子は思い出させる。彩斗を案じるような視線は思い出せる。
そういえば、彼女はコロシアムで、ずっと彩斗を気にかけていた。
夜津木の攻撃から守ってくれたのは彼女だ。その後、案じる視線を向けていたのも彼女。ずっとスララは、彩斗が倒れないように、不安で怯えてもなんとかできるように、見守っていた。
自分もきっと怖いはずなのに。
アルシエル・ゲームに巻き込まれて、困ってるはずなのに。
さっきはコインを弾きだして、彩斗の不安を払拭させようともしてくれた。
スララの心遣いを思い出し、彩斗は胸がきゅっと締め付けられた。
「あの……ありがとう、スララ」
「え? 突然、どうしたの~?」
「そういえば、夜津木から助けてもらったお礼、まだしてなかったから。あのとき、すごく助かった。――ありがとう」
偽りのない気持ちだった。彼女がいてくれて良かった。その気持ちを、彩斗は込める。
すると、彼女は花のように笑った。
「平気だよ~。これから苦しいときも、厳しいときもあるかもしれないけど、大丈夫、わたしが彩斗を守るよ~。だから彩斗には、もう少し笑っていてほしい」
「え……笑う?」
「そうだよ~。不安かもしれないけど、笑顔でいれば少しだけ楽になれるよ。昔、故郷で教わったことがあるの。人は笑っていると、嘘の笑いでも気持ちが楽になるんだって」
「笑う……」
頬を動かそうとしたが、顔が固まってうまくいかなかった。
「あ、あれ……だめだな……」
「えっと、少しいい~? 触るよ~」
少しひんやりとした手だった。けれど、優しい接触だった。なんだかそれだけで彩斗は、涙が出てしまいそうになる。そういえばここへ来てから、エレアントへ連れてこられてから、一度も心の底で安心したことがない。
スララの手は、彩斗の不安を拭うように、優しく触れてきた。
「ほら、こうすると、笑顔~。どうかな、どうかな? ……あれ?」
涙がぽたぽたと流れていく少年を見て、スララが少し慌てる。
「わ、どうしよう、わたし何かまずかったかな。彩斗が泣いてる、どうしよう~」
「う、ううん。違うんだ、そういうわけじゃないよ、スララ……」
影が薄い人間だと言われてきた。
何をやっても平凡で、取り柄なんてないと言われてきた。
そんな彩斗だったから、誰かに優しくされることなんて稀で、今までに数えるほどしかない。
けれど。
スララの手の優しさは、そんな過去を吹き飛ばすくらいの威力があったから。
――この娘となら戦えるかもしれない。
いや、少なくとも、彼女がいれば大丈夫だ。
今まで日陰ばかりにいた少年は――。
このとき、この瞬間、胸の中に暖かさを感じていた。
「あ、やった。彩斗が笑ったよ~。嬉しいな」
スララが手を上げて表情をほころばせる。手で無理矢理に自分で動かしたから、きっと惨めな笑顔だと思うけれど。
それでも彩斗は、精一杯、笑顔を作ってみた。
冷たい牢屋の中、束の間ではあったが、彩斗とスララは、和やかな空気に包まれたのだった。
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