第29話 彩斗の決断
天空宮殿トルバランは、妙な静けさに覆われていた。
開催から数日が経ち、巻き込まれた人間も、魔物も、状況に順応し小さな混乱は起こさないよう配慮している。初期には怒鳴り声や反抗の意志の罵声を発していたペアも、連日ガーゴイルに鎮圧され、鳴りを潜めている。
みんなが諦めかけているのだと、彩斗はそう思った。今のペアたちはかつての彩斗と同じ。自分の無力を嘆き、どうしようもない状況に流され、空虚な日々を送っているのだ。
絶望の上に絶望が重なり、止めどない負の感情が山のように積み重なっている。
それを変えられるのはスララだけ。そして諦めかけている彼女を励ませるのは、彩斗だけだ。
自分の背中に、彩斗は重圧が伸し掛かるのを感じる。けれど、弱音だけはもう吐きたくなかった。
絶対の支配者であるアルシエルの部屋の前に着く。メイドの少女がスララの姿を見とめ、折り目正しく礼をした。
「お帰りなさいませ、スララ様」
「うん、ただいま~。アルシエルはいる?」
「はい。今日は特別に機嫌が良いらしく、ガーゴイルを仮想敵としてベリアルの心臓を貫く練習をしておられます」
礼をするメイドの少女は魅力的な美しさだった。スララは硬い顔の彩斗を振り返った。
「行くよ、彩斗~」
「ああ、始めよう、スララ」
スララが頷き、豪奢な扉を叩く。
「お姉ちゃん、ただいま~」
メイドが開けた扉の奥へ、二人は入る。敷き詰められた紅蓮色のカーペットの色彩が、鮮やかに視界で映えた。
その直後、響くのは岩を砕く音。
燦然と燃える火炎の爪。
紅蓮色のカーペットのあちこちに、砕かれたガーゴイルが転がっていた。残骸はただ単純に転がっているわけではなく、ある種の規則性に従って転がされている。
その規則性とは、とある生物のシルエットを模す配置。
背中に六枚の羽がある悪魔のような影。二本の脚と鋭利な六本の爪。それらを備えた邪悪な魔神の形になるように、ガーゴイルの残骸は転がっている。
「ベリアルを殺す。ベリアルを殺す。ベリアルを殺す。ベリアルを殺す。ベリアル殺す。ベリアルを殺す」
呪怨を口走りながら、黒いウェディングドレスのような衣装を翻して、アルシエルは爪を振りかざす。
「グエぎャ」
奇妙な声を撒き散らし、ガーゴイルの一体が胴体を貫かれて砕け散る。
紅蓮の爪で貫かれたガーゴイルの残骸は、わずかに震えると、ただの石ころのように沈黙。それらを拾い上げ、アルシエルは魔神の影――ベリアルを模したと思われる六枚の翼のシルエットの上に、転がしていった。
「ああ、お帰り、スララ」
「ただいま~。お姉ちゃん」
上機嫌のまま振り返ったアルシエルに、スララは親しげに言葉を交わした。
しかし改めてそばで聞くと、スララは自分の感情を抑えていると彩斗はわかった。
友好的なのは表面だけ。悲しい気持ちを必死に押しとどめ、スララは相対している。
「少し散らかっている。すぐに椅子を用意させよう。――シャノン」
呼ばれて、入り口で礼をしたメイドの少女が、静かな足取りでやってくる。
豪奢な木製の椅子を三つ用意し、彼女は退出していった。
「今日は良い夜だな、スララ。なぜか体を動かしたくなる」
「そうだね~」
アルシエルが促したままに、スララと彩斗は椅子に腰掛けた。アルシエル自身も優雅に腰掛ける。
「今日の闘技は、見事な結果だった。あれほどのものはなかなかな無い」
アルシエルは口の端に笑みを浮かべながら、上機嫌に賞賛する。
「ガルムとマルギット。あの二人は、全てのペアの中でも優秀な逸材だ。よくそれに対抗し、打ち勝った。私はお前の姉として、お前を誇りに思う」
「ありがとう。お姉ちゃんも今日も、凄く良い貫手だったよ~」
にこやかに言葉を返すスララの声を聞きながら、彩斗はここに来る直前、回廊でのやり取りを思い出す。
『お姉ちゃんとはね、うまく話を合わせないと大変なんだよ』
スララは、回廊を歩きつつそう説明した。
『お姉ちゃんはね、ゲームが始まってから……ううん、魔神となってから、すごく情緒が不安定なの。機嫌が良いと思ったらすぐに悪くなる。食べ物の話をしていたらベリアルの話に、花が綺麗だと言っていたらベリアルの話に、すぐに変わってしまうの』
スララは密やかな声のまま続けた。
『それと、お姉ちゃんの中で、原因と結果はあまりくっついていない。ある事実だけを見て、それについて話をすることが多いの。例えば……』
スララは、まだアルシエル・ゲームが始まる前、ゲームの中止の説得をした。けれどその結果としてアルシエルは邪魔をするなと憤激し、スララをゲームに参加させてしまった。
しかし、その因果関係は、現在アルシエルの中で正常に繋がってない。
スララを『邪魔に思った』事と、アルシエル・ゲームに『参加させた』事は、別の話として認識されている。
『そもそもお姉ちゃんは、記憶も欠落することがあるの。わたしはいま、アルシエル・ゲームに参加させられているけど、お姉ちゃんは『なぜ』わたしが参加しているかを忘れてる。何か理由があって、残酷なゲームに参加していると、普段は思ってるの。だから時々、言われるよ。『スララ、お前はなぜこんなゲームにいるんだ? 誰だ、私の妹を陥れたのは――ベリアルか。許さんzそ、ベリアル』って、言うときもある。矛盾ばかりの会話になると思うけど、そこは注意して~』
聞きながら、彩斗は寒気がした。もはやアルシエルの中では、正常な思考すら回ってないのだ。脳裏はベリアルへの恨みで満たされて、わずかな空きの中、スララへの愛情や、両親への家族愛などが残っている。
彩斗はふと我に返る。アルシエルが、優雅に腰掛けながら言った。
「そこの少年」
「あ、……はい」
「今日の闘技は見事にスララと戦ったな。褒めてやろう。ちっぽけなナイフで、あのガルムに立ち向かったことは、賞賛に値する」
「ありがとう、ございます」
「スララは少々おてんばで困ることもあるだろう。これは集落にいたときから、しょっちゅう外に出ては、危険な洞窟や森にばかり行っていた。おかげで女らしさよりも、お転婆らしさがある」
「もう。だって、お姉ちゃんは家でこもっていたんだもの。わたしは一緒に遊びたかったよ」
「それは……悪いことをしたな。私は家で研究をしてばかりだったからな」
ふとアルシエルは考えた。
「まあ……何の研究だったかは覚えていないのだが。忘れるということは、大した研究ではなかったのだろう、そうだ、きっとそうだ」
華やかに、アルシエルは笑んだ。
スララは彩斗に耳打ちをしてくる。
「家でベリアルを倒す方法を模索してたことを忘れてる~。やっぱり、記憶が時々抜け落ちてる。話すときは、うまく合わせて」
彩斗は冷や汗をかきながらも、小さく頷いた。
「なんだ、内緒話か」
アルシエルは少し寂しそうな顔になった。
「ゲームが始まって仲良くなったのか。羨ましいことだな。スララ、お前は私に対して、そういうことはしてくれなかったのに」
「お姉ちゃんも、してほしいの~?」
「ああ、こそこそ話は――そういえばスララが小さい頃、一度だけされたな。あのときは、何だか耳がくすぐたかった」
「それなら、今耳打ちしてあげる」
スララは姉の耳元へ口を寄せた。
「お姉ちゃん、大好きだよ」
途端にアルシエルは頬を緩ませた。
「ふふ、子供みたいなことを言うものではない。恥ずかしいではないか。……そういえば、少年」
「あ、はい」
彩斗は思わず身構えた。
「スララとは仲が良いみたいだが、いつも妹とそういう事をしているのだろうか?」
「え……いや、その」
「たまにするよ~。こうやって……」
スララは彩斗の耳元に口を寄せた。極めて小声になり、
「もう少し機嫌を良くしてからの方が説得は進むと思う。彩斗も、うまく合わせて~」
「わ、判った」
「むう」
アルシエルは少し妬けた表情に変わった。
「またも私の前で内緒話とは……。スララはいつまでも私のそばにいて、男になぞ興味ないと思っていたが。やはり異性とは親しくなりたいのか……」
少しだけしゅんとした空気をアルシエルは見せる。
「そんなことないよ~。わたし、お姉ちゃんが一番好きだよ~。ほら」
リコリスを伸ばして、スララは姉の目の前に持っていく。
アルシエルは手で応じ、妹のリコリスを優しく撫でていった。
安らかな笑みが彼女に生まれていく。柔和な表情で、ゆっくりとスララのリコリスを撫でる姿は至福そのものだ。
「少年よ」
「はい」
「このゲームの間、スララのことを頼む。これはまだまだ精神的に未熟、色気よりも食い気な娘だが、私の大事な妹だ。とてもとても大切な、残された家族だ。守ってやってほしい。妹が闘技に負けて石になってしまう姿など、私は絶対に見たくない」
「はい。それは……もちろんです」
素直に返しながら、因果関係が抜けていると、そう彩斗は察した。
アルシエルがスララをゲームに参加させたことを、彼女は忘れているのだ。
「ボクは、初めの頃はスララに助けられてばかりでしたけど、もうそんなのは御免です。スララと一緒に、勝ち抜いていきたいと思っています」
「ああ、ありがたい。お前のような少年がスララのパートナーで、本当に良かったと思っている」
アルシエルは虚空を見つめつつ、語り続けた。
「私はいつも、闘技の時間は胸がざわめくのだ。妹が負けてしまわないかと。命の輝きが一片もない石像になってしまわないかと、心配で、心配でたまらない。殺人鬼と巨人のときは最後まで肝を冷やした。あの老犬や人形師のときは、思わず叫びたくなった。私は怖くて、胸が痛くなる。今のように、スララと会話も出来ない日が来るかと思うと、夜も眠れない」
「……」
アルシエルの心配の視線は、妹へと向く。
「ああ、スララ、どうか最後まで勝ち残ってくれ。私を一人にしないでくれ。お前の笑顔が何よりの私の力になるんだ。手を伸ばしてくれ、スララ。お前の温かい手を……」
「うん、お姉ちゃん、大丈夫だよ。わたしはここにいるよ」
差し出された姉の手を、スララは優しく握った。
すぐさまアルシエルは口の端を緩ませ、幸せそうな表情になる。
「ああ、スララ。お前だけが安らぎだ。いつまでも私のそばにいてくれ。絶対にこのゲームを勝ち抜いてくれ。その間に私は、ベリアルを殺す。あいつを倒し、鎖で縛り上げ、四肢を拘束し、眼を繰り抜き、爪を剥がし、解けた鉄を口へとぶち込んでやろう。耳と鼻を削ぎ、体中の皮を剥いで、全身の関節を砕き、私の業火で焼きつくすのだ。それで全てが終わる。そうして奴を滅ぼし、平和を取り戻したなら――スララ、今度こそ集落で幸せに暮らそう」
「うんっ」
胸に苦しさを覚えて、彩斗は小さく呻く。アルシエルの中では、ベリアルへの憎しみでいっぱいなのだ。けれど、スララへの愛情も忘れていない。ベリアルへの激情とスララへの心配の狭間で揺れるアルシエルは、すでに壊れかけている。
笑っても、何をしても、その瞳は濁っている。半分ここではないどこかを見ている。きっと近いうちに、アルシエルは精神の限界が来てしまうだろう。
もしかしたら、ベリアルもそれを感づいていて、何もしてこないのかもしれない。魔神を倒そうと足掻くアルシエルを見て、楽しんでいるのだ。そう思わずにいられないほど、アルシエルは不安定に揺れている。
「わたしもお姉ちゃんと同じだよ~。早くお姉ちゃんと、一緒に暮らしたいな」
スララは甘えるような声を出した。
「だから、もうこんなゲーム、やめにしようよ。わたし、もうあんな闘技、続けたくないよ」
「――今、なんと言った?」
急激に、アルシエルの声の温度が下がった。
「え……?」
「お前は今、アルシエル・ゲームを、やめろと言ったのか?」
「だって、このままじゃ、お姉ちゃんは――」
「愚か者がっ!」
怒気が熱風となってスララを襲う。たちまち起こった紅蓮の風がスララを、彩斗を呑み込む。とっさに二人が椅子から崩れ落ちるようにして離れた矢先に、
「アルシエル・ゲームを途中でやめるだと!? それはできない、絶対にできない!」
それまでの穏やかさが嘘のように、怒気へと塗り替わっていく。
「ベリアルは殺さなければならない! あの卑劣で、傲慢で、冷酷なる魔神を殺さなければ、ゲームは終われないっ!」
「でもお姉ちゃん、このゲームは、残酷すぎるよ」
とっさにスララは言い返す。
「お姉ちゃんも、見たはずだよ~。闘技に負けて、泣きながら石になった人を見て、なんとも思わないの?」
「些細な問題に過ぎん! ペアたちが石になろうとも、ベリアルを殺すためには仕方がない。アルシエル・ゲームは、ベリアル・ゲームの残酷さを全て受け継いだ。奴は自分の造ったゲームに怯えながら、精神を蝕まれればいい!」
「そんな……」
スララが悲しそうに目を伏せた。
「関係ない人たちまで巻き込むのは駄目。そんなこと続けてほしくない。ガーゴイルに乱暴されて、塞ぎこんだ人がいるのも知ってるはずなのに」
「それも同じこと! 全てのガーゴイルは、ベリアルが創りだした。だが今度はやつの下僕たるガーゴイルがベリアルへ恐怖を与える。牢屋に閉じ込められ、自由を奪われ、己の創造物の石像に連れられて、奴はコロシアムへ行く! フフハハ、言い様だ、胸がすくようだ!」
スララは黙って首を横に振る。
「武器を他のペアに奪われて怪我をした人たちもいるのに。彩斗も襲われかけて酷い目に遭いかけたんだよ。これからもそういう事をされるペアが出てくるかもしれない。それも、仕方がないって言うの?」
「瑣末な問題をいくつも言うな。私はお前が石化しなければ後はどうでもいい。奪われる恐怖をベリアルも感じれば私の心は満たされる。もっと奪われれば良い。ベリアルは自分の武器を、パートナーを、希望を剥がされて無様に叫ぶがいい!」
「それは……っ」
スララは一瞬アルシエルの顔を見て、言葉を詰まらせた。
怒りと憎しみで彩られた、復讐鬼の姿。その姿を前に、顔が歪む。
「お姉ちゃんの体だって、危ないのに。わたし、故郷で聞いたよ。お姉ちゃんを魔神にした、『ダジウスの輝石』は、持ち主の命を削るって。このままゲームを続けたら、お姉ちゃんも倒れちゃう。わたしは嫌だよ。そんな姿は見たくない。だから、」
「ベリアルを殺せばこんな輝石すぐに捨ててやる。だが奴が正体を現し、私に挑むまでこれは外せない。ベリアルは自分以外の全てを見下していた。私のことも、ゴミのように冷酷に見下した。思い知らせてやる……かつてゴミと侮った私の炎に焼かれ、奴は骨まで溶かし尽くされればいい!」
すすり泣くような声音がスララから洩れる。声を震わせた彼女は、哀願するように声を絞り出した。
「こんなの、間違ってるよ! お母さんもお父さんも、やっちゃダメだってきっと思ってる。集落のみんなも、アルシエルのことを心配していたよ。やめてほしいよ。みんな、アルシエルのことを怖い目で見てた……」
「恐怖を他者へ与えられる存在になった事は、私にとって僥倖だ! それはすなわち、ベリアルに並んだということ! ベリアルに並んだということは、私は奴を殺せる立場にある! 誰もができなかった! 勇者も龍族も巨人族も精霊王も、誰もベリアルを殺せなかった! 私が変える! 私がそんな歴史を変えてみせるッ! ベリアルに断末魔を響かせ、父さんと母さんの無念を晴らし、この世界に、永遠の平穏をもたらしてみせるッ!」
「それは間違ってるよ!」
ダメだ、これはもう無理だと彩斗は痛感する。
アルシエルはベリアルへの憎しみが強すぎて、正常な判断なんてできない。思考の最優先はベリアルで、もうスララの言葉ですら通じない。
呪詛と共に紅蓮の風がアルシエルの全身から放たれていく。スララがリコリスの膜を作るも、爛れて崩れ落ちて床に散らばっていく。
これ以上は、スララすら危うい。
彩斗は、スララの辛そうな横顔を見ながら、唇を噛み締めた。
やるしかない。自分がこの流れを変えるしかない。彩斗は精一杯の勇気を振り絞り、体を鼓舞し、可能な限りの声を張り上げる。
「……それは無理だ、アルシエル」
「なんだと?」
憎悪で濁った視線が、彩斗に突き刺さる。
「アルシエル、それでは平穏は訪れない。スララと幸福な日常を送ることは出来ない。なぜなら――このままゲームを続けた場合、ボクはわざと負けるからだ」
「なん……だと?」
初めて、アルシエルの顔が硬直した。
「あ、彩斗……?」
「アルシエル、よく聞くんだ! ボクはもう、これ以上不毛な戦いなんかしたくない! でもお前はゲームは止めないと言う。だったら簡単だ――次の闘技で、ボクはゲヘナをスララに当てる」
「貴様ァ……!」
「自爆の一撃だ。彼女が逃げようとしても、当ててやる! そうして闘技にわざと敗北する。そうしたら、どうなると思う? 魔物が倒れたらそのペアは終了。当然、ボクは石になる。そして、スララも石になる。妹が石像と化した世界でも平穏と言えるのなら、勝手にゲームを続ければいい」
「貴様ァァァァアッ!」
怒気が激しく膨れ上がり、怖気が彩斗の背中へ襲いかかる。
「私の妹に、牙を向けると言ったな!? どうなるかわかっていてほざくか、人間ッ!」
「わかっていて言ってるんだ!」
彩斗は呑み込まれそうになる自分を鼓舞し、勇気を絞り尽くして、叫んだ。
「このゲームを続けば、次第にアルシエルの状態は悪くなる。そうすればスララは、より悲しむことになる。ボクは何度も彼女に救われた。ボクが役立たずでも、闘技で怯えていても、彼女はいつも明るく、太陽のような笑顔で、希望を与えてくれた! でも――そんなスララでも、あなたの話をする時は悲しそうな表情になる。ゲームが進めば、さらにスララは苦しい思いをするだろう。そんなスララを見るのが、ボクは辛い。今よりさらに酷くなると判っていて、何もしないなんて出来ない。だからそんな彼女を見るくらいなら――ここで終わりにしてやる。
ボクが、貴方からスララを奪ってやる!」
「身の程をわきまえよ、人間!」
鬼のごとき形相のアルシエルは、今にも彩斗へ襲わんと構える。
「そのようなことをほざき、無事に済むなと思うな! 私はお前を、ここで焼き尽くすこともできるのだぞッ!」
「やってみればいい!」
膝が笑う。背筋から汗が滝のように流れる。
だがそれでも、彩斗は言葉を迸らせる。
ここで引けば、全てが終わるから。
「ただしその場合、スララが少なからず悲しむことになる。ボクたちは、幸運もあったけど、ここまでやってこれた。一緒に苦難を乗り越えてきた。もうボクとスララは他人じゃない。もしボクが倒されて、スララが平然としていられるなんて、思わないことだっ!」
「貴様……貴様……貴様ァ!」
焚き付けすぎた。
彩斗は怒りのアルシエルを見て、焼き尽くされると思った。理性をなくした彼女がどんな行動になるかなんて予測できない。自暴自棄になり全てを破滅に導く可能性が出てしまった。
殺される。
アルシエルに殺される。
這い寄る死の気配を感じ、彩斗は、せめてスララだけでもかばおうと、コンバットナイフの鞘に手をかけ――。
「……なるほど……」
急激にしぼんだアルシエルの声音に、彩斗はナイフの柄を持つ手を止めた。
「二回の闘技を勝ち抜いたのは、幸運ではないようだ」
「……アルシエル?」
彩斗の声に、アルシエルはいつの間にか立ち上がっていた体を椅子に戻し、深く腰掛けた。
アルシエルの表情が、変わっている。劇的に塗り替わっている。
今にも相手を焼き殺そうとしていた憤怒は鳴りを潜め、深い後悔を湛えた悲しみが、表情に現れる。
まるで、別人だった。彩斗は次の瞬間、ハッとした。
『アルシエルは、情緒が不安定なんだよ』
スララの言葉が脳裏に過ぎる中、アルシエルは片手で顔を押さえ、黙考し、やがて大きく息を吐いた。
「スララを、妹を失うわけにはいかない。彼女は私にとって最後の希望だ。スララ無しでは私は生きていけない。生きていても、意味がない。ベリアルを倒した後に、彼女がいなければ、何の意味もないんだ……っ」
そして、続ける。彩斗に向け、懺悔するような目つきで宣言する。
「……いいだろう、人間。アルシエル・ゲームは、中断するとしよう」
「え――」
ざわりと、全身の毛が立つのを彩斗は感じる。激昂のスイッチではなかった。スララを持ち出すことは、怒れるアルシエルにとって、冷却のスイッチだったのだ。
「そうだ、スララだけは失いたくない。ずっと私は、ベリアルを殺すべく動いてきた。だが、それは何のためだ? 両親の仇? 故郷を滅ぼされた恨み? それもある。だがスララを守るためでもあった。そうだ、私は、スララのために生きてきたのだ。妹を、失いたくない。……離れないで……スララ」
「お姉ちゃん……うん、わたし、ここにいるよ~」
思わずスララが駆け寄って、姉の手を握る。それをアルシエルは幸福そうな、それでいて複雑そうな表情で、強く握り返した。
「だが、私の中には二人の私がいる。スララを守りたいという『私』と、ベリアルを殺そうとする『私』だ。わかるのだ、私には。先ほどまでの私は、恨みに燃える私だ。今の私は、わずかに残った良心の欠片」
「アルシエル……」
「けれど、今の私は、簡単に消えてしまうだろう。ふとした瞬間に、感嘆に押し流される。そしてまた、お前たちへ牙を剥くだろう」
スララがぎゅっと姉の手を強く握る。それを、ほとんど包み込むようにアルシエルは覆った。
「ベリアルへの恨みが、深すぎるためだ。それは簡単に消えるわけではない。理屈ではなく、私の奥底に刻み込まれた憎悪の炎だ。それを消し尽くすことができない限り、私は何度でも愚かな行動を続けるだろう」
「アルシエル……」
冷却されたアルシエルは静かな口調で語る。愛情と憎悪の鎖に縛り付けられながら、必死に未来へ繋げようと、足掻いている。
「だから、きっかけを、私にくれ」
アルシエルは彩斗の眼を見て頼む。
「え……?」
「どんな条件でもいい。私をアルシエル・ゲームから解放させるために、何か、条件を与えてくれ」
「彩斗……」
心配そうに、スララは彼の方を見る。
「条件、ですか? でもそれは……」
口ごもる。そんな提案は、予想もしていなかった。
しかし同時に、チャンスだということも彩斗は悟る。残酷なゲームを開催し、ベリアルへの復讐を望むアルシエルは、一方で終わりを望んでいる。心の奥底では、これが限りなく愚かなことで、スララに迷惑をかけるとわかっているのだ。
だからアルシエルがベリアルへの憎悪を上回る感情――スララへの家族愛を優先させることができれば、アルシエルの中で、ベリアルへの復讐は終わらせるきっかけになり得る。
それは、賭けだ。
一歩間違えば悪化するだろう。
やるなら半端なものでは効果がない。
激情の状態と今のアルシエルは、あまりにもかけ離れている。二人のアルシエルがいるというのは本当で、それは簡単な条件では治せない。
――出来るのだろうか。彩斗は疑念を抱く。
けれど、冷却の状態のアルシエルが長く続く保証はない。彩斗は吟味する時間もなく問いかける。
「闘技のとき、あなたが『魔物』として参加することは、できますか」
硬い声音で彼は問いかけた。
「……できる。アルシエル・ゲームは――もっと言えば、ゲームを司る天空宮殿トルバランは、これ自体が巨大な魔法具で、あらゆるルールを厳格に組み上げている。人間と魔物のペア、三度だけの
一拍だけ、彼女は間を置いた。
「ペアのいずれかのうち、代理の魔物として、私が一時的に参加することは、可能だ」
「じゃあ……っ」
彩斗は、少しだけ躊躇した。しかし時間がない。『今の』アルシエルがいるうちに、状況を繋げなくてはならなかった。
「それなら……次のボクたちの闘技で、アルシエルはそのペアの『代理の魔物』として、戦ってください」
「なんだと……?」
「そしてその戦いで、ボクたちが勝てば、このゲームを中断させると、約束してください」
「っ――」
アルシエルが驚愕する。スララが目を見開く。
つまりは妹を自分で手にかけるような状況を作り、アルシエルへ良心を取り戻させるのが狙い。
もちろん、危険な賭けと言わざるをえない。魔神となったアルシエルの攻撃が直撃すれば、スララは重症、最悪それ以上の事態もあり得る。生と死の狭間に彼女を陥れることが、博打なのは彩斗だってわかっている。
だが、アルシエルの中にベリアルとスララしか存在しない以上――現れないベリアルより、スララをきっかけにする方法が最善だ。
スララだ、彼女だけが唯一アルシエルを変えられるのだ。彩斗はそのために、どうすれば未来への橋渡しができるのか、提案することしか出来ない。
「彩斗……」
スララが不安そうに見る。彩斗と、無言のアルシエルを交互に伺う。
――応じてくれるだろうか、アルシエルは。
これがダメなら、もう彩斗に手段はない。
冷静なアルシエルはこのまま潮に流されるようにして消え、後には烈火のごとく激しい憎悪のアルシエルが舞い戻ってくる。そして彩斗とスララは再び闘技の日々に戻され、いつか、石になって終わるだろう。
永遠とも言える沈黙が、辺りを支配する。氷のように張り詰めた空気が手を、脚を、全身に至り総毛立たせていく。
了承か。
拒否か。
悩み、苦しみ、目を瞑って思案していたアルシエルの返答は――。
「……わかった。それしかないな。それで、いこう」
繋がった。
一瞬だけ、気が遠くなりかけて彩斗はふらつく。しかしまだ気を失うわけにはいかなかない。最後の仕上げをしなければならない。
スララが、彩斗の名前を呼びながら手を握ってくる。優しい温もりだった。かすれそうになる視界の中で、唇を噛み、己を叱咤して、彩斗は気力を振り絞る。
「一つだけ……確認があります」
アルシエルの瞳を見つめる。
「もしその条件で闘技を行って、アルシエルが負けたとき――石化する前ですが、ゲームの中断はできるんですよね?」
「もちろん、可能だ」
アルシエルは、一瞬後に頷いた。
「通常、一度ゲームが開催されれば、ゲームを中断することは出来ない。だがゲームマスターであるわたしだけは例外だ。石化現象は、ゲームが中断されれば、行われることはない」
「それならいいです」
彩斗はほっとした。ゲームを終わらせてもアルシエルが石化してしまっては意味がない。
「では、約束してください。次の闘技、必ず『代理の魔物』として、貴方が参加することを。そしてもし、ボクたちが貴方に勝てば、ゲームの中断をすることを。……ボクではなく、スララに誓ってください」
「スララに?」
「……彩斗~?」
「うん。スララに言うのが、大切な事なんだ」
彩斗は少女に微笑む。
スララへ宣言すれば、アルシエルはそれを忘れないだろう。
この会話の前後は、記憶が抜け落ちたり、順番がばらばらになるかもしれない。けれど妹であるスララへの約束なら、きっとアルシエルの中に刻まれる。彼女の思考は、ベリアルを除けば、スララが大きく占められている。
アルシエルは、スララを振り返り、彩斗へと視線を戻すと、強く首肯した。
「約束しよう。私は次の闘技でお前たちと戦い、お前たちが勝てばゲームを中断させる」
「ありがとう、ございます……」
希望は繋げた。
だが彩斗はそれ以上、意識を保てなかった。ただでさえ、神経は太いとはいえないのに深い緊張感だった。魔神と相対し、殺気をぶつけられ、限界まで気力を振り絞った体は、脱力感に包まれる。
――良かった。
これであと一回勝てば、皆は解放される。
ボクは、ゲームを終わらせる可能性を作った……。
「彩斗!」
それだけを思いつつ、彩斗はスララの呼びやアルシエルの声を聞きながら、大きな達成感と共に、深い闇の中に、意識を委ねたのだった。
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