第3話 Date:3月27日(2)


「紗綾」

「なに?」


佳良にならって、紗綾もグラスを手に取る。残念ながら落ちた水滴は紗綾の胸を通り越して、白い太ももにぽたりと落ちた。


「お兄ちゃんと結婚しても私を追い出さないでね」

「なっ、ゴホッゴホッ」


突然何を言い出すのかと、むせた紗綾は近くのティッシュを手に取ってその辺に吹きこぼれた残骸を拭きとる。今までの文脈の流れで、一体どうして、佳良の兄と結婚する結論が生まれるのだろうか。


「気づかないとは言わせないよ。お兄ちゃんは紗綾に惚れてる」


探偵気取りとでもいうのだろうか。佳良は飲み物の入ったグラスをテーブルに置いて、紗綾の目を覗き込む。


「受験が終わったら告白するらしいよ」

「はぁ!?」


自分至上一番の大声を出したといっても過言ではない。紗綾は部屋が完全防音なことも忘れて、慌てて両手でその口を塞いだ。


「驚きすぎだよ」

「だ、だって」


ふてくされた顔をした佳良がまた飲み物を口にするが、突然の告白を耳にした紗綾にとって飲み物どころの騒ぎではない。今度は紗綾が佳良につめよるようにその顔を近づけた。


「どういうことか説明してよ」

「説明も何もないじゃん。お兄ちゃんは紗綾を好きなんだよ」

「いや、十和とはそういう関係じゃないじゃない」

「そういう関係を望んでいるんだよ」

「いやいやいや」

「妹の私がいうのもなんだけど、容姿端麗、才色兼備、秀才で運動神経も抜群で超絶モテる。将来は社長。お得な物件だよ」

「そうかもしれないけど」

「もれなく私もついてくるし」

「そこはいいけど」

「じゃ、なにも問題ないじゃん。性格悪いお兄ちゃんに貰い手が見つかって、私も安心だよ」

「私、十和にずっと嫌われていると思っていたんだけど」

「ええええええええ」


ゴホゴホっと、今度は佳良が盛大に咳き込んだ。先ほどと違うのは紗綾が自分で処理をしたことに対して、佳良のまきちらしたジュースは紗綾がふき取っている。


「どうして、どこをどうみたらあれだけ紗綾一筋が嫌われ認識になるの?」

「そりゃ挨拶はするけど、いつもそっけないし、私にだけ冷たいじゃない」


んーと声に出しながら紗綾は最近の十和の様子を思い浮かべる。最近と言ってもほぼ数時間前だが、隣人にも関わらず佳良が家まで迎えに来てほしいというので迎えにいったところ、インターホン越しに出たのが他でもない十和だった。


「ああ、お前か」


開口一番がそれ。入れと言わんばかりに無言であいた門扉をくぐり、重厚な玄関扉をあけた先に立っていたのも十和だった。


「あ、こんにちは」

「何のようだ」

「えっと、佳良を迎えにきた」

「は?」


それ以外の用事があればよかったのだが、不機嫌な十和の視線から避けるように紗綾は視線を外す。広い吹き抜けの玄関は、さすが社長宅といった雰囲気で、そこは昔から変わらない佳良の実家。生け花に絵画。母親の趣味だろうが、ごてごての雰囲気は余計なものなど一切ない紗綾の家とは真逆でどこか落ち着かない。


「あがるのか?」

「え?」


そこで顔をあげて改めて十和を見た紗綾は気が付いた。参考書を片手に眼鏡をかけ、見下ろしてくる十和の顔は無表情で何を考えているかは謎に包まれている。言葉の意味が伝わってこない。

あがってもいいのか、あがったほうがいいのか、それともあがるなと言われているのか、判断がつかない質問に何と答えればいいのか紗綾の頭の中はグルグルと混乱していく。つまるところ、苦手。いつからそう思うようになったのかはわからないが、十和と顔を合わせるたびにこんな調子なので、紗綾は意図的に十和を避けるようにして過ごしてきた。はずだった。それがまさかここにきて、十和が紗綾が好きだという事実を知ることになるとは。人生どこでどうなるかはわからない。そして、その未来を期待する幼馴染相手にどう対応すればいいのだろう。


「お兄ちゃん、性格歪んでいるから」


ばっさりと紗綾の悩みを切り去った佳良が最後のジュースを飲み干すようにストローを吸い上げる。


「あそこで紗綾があがってくれていたら、お兄ちゃん勉強どころじゃなくなって面白かったのに」

「え?」

「まさかお母さん帰ってきちゃうんだもんな」


はぁっとつまらなさそうに息を吐いた佳良の言うとおり、買い物に出ていたらしい十和と佳良の母親は帰宅するなり「十和の勉強の邪魔よ」と紗綾と佳良をあっけなく追い出した。初めから佳良の家にあがるつもりはなかったが、迎えにこなければよかったと内心気落ちしたのは言うまでもない。


「ま、明日も懲りずにお兄ちゃんに会ってあげてよ。そしたら受験失敗なんてしないと思うんだ」


どうしてこの至近距離で「わざわざ」迎えに行かされたのかという謎がとけた気がした。佳良は佳良なりに十和を応援している。


「やっぱり兄妹だね」

「えーなにそれ」


性格が歪んでいる隣人の幼馴染たちに不思議と嫌な感情はない。小さなころからの付き合いということもあるが、垣間見える優しさを知っているから協力してあげたいという感情を触発されるのかもしれない。


「紗綾の部屋はいくら叫んでも怒られないし、ご近所迷惑も考えなくていいから好き」


声が大きいことを気にしているのか、出かけ前に母親に怒られたことを根に持っているのか、佳良はんーっと大きく伸びをして、携帯を指で操作する。


「ちょっと」


最大音量で鳴り出した部屋のスピーカーに紗綾の声が重なったが、耳鳴りがするほど大音量でかけられた曲にその悲鳴はかき消されていた。閑静な住宅街に、重低音のビートだけがかすかに響く。それでもきっと隣の十和の勉強の妨げにはならないだろう。防音の施された部屋でどれだけ熱唱しようと踊ろうと、止めるものはどこにもいない。

行き遅れたセミが孤独に泣く外の世界をあざ笑うかのように、紗綾と佳良は最高の夏休みを過ごしていた。

そして今に戻る。


「あー、夏休みが恋しい」


どこかで聞いたことのある台詞が、隣でうなだれる佳良の口から再び聞こえてくる。すでに夏休みは終わりを迎え、最終日に詰め込んだ宿題も提出が終わり、中間試験の存在に打ちひしがれた帰り道。


「試験なんてなくなればいいのに」


試験範囲を確認しおえた佳良の指が最後の教科を数えてだらりと地面に落ちていった。


「お兄ちゃんは推薦で受かるっぽいよ」

「どこ受けるんだっけ?」

「やだ、本気で聞いてる?」

「え?」

「うちに決まってるじゃん」

「え?」

「箔銘大学。私たちはこんなエスカレーター式でも、外から受験しようと思ったら私立最難関っておかしいよね」


悪戯に笑う佳良の声が紗綾を振り返る。


「お兄ちゃん、紗綾に本気だから。覚悟した方がいいよ」


じっとりと嫌な汗が頬を伝うのは気のせいではないだろう。逃げられない魔の手が迫っているように背筋に悪寒が走るのは、この兄妹の存在が大きいに違いない。


「紗綾、お兄ちゃんのことよろしくね」


夏の終わり、秋の始まり。夏服の胸元を盛大に揺らした幼馴染の声は、風鈴のように帰り道で静かな音をたてていた。


* * * * *


ガチャリ。夕方から降り出した雨は紗綾の全身を濡らし、ぼとぼとと大きな水たまりを床に作ろうとしていた。こんな日に限って「少しいいですか」と呼び止めてきた男の存在が恨めしい。

いつも通り帰宅しようと校門を出たばかりの紗綾と佳良は、そこで別れて、あとで家で落ち合うことにしていた。たまに訪れる日常の変化。別に今更珍しくもなんともない変化。夏休みが終え、再び告白のチャンスが巡ってきたといわんばかりに他校の男子生徒たちが紗綾に愛を告げにくることは、何も今に始まったことではない。


「好きです、付き合ってください」


学校の近くにある公園。夏休みは子どもたちでにぎわっていた公園も、まだ残暑の厳しい平日には犬の散歩にきたらしい近所の老人がひとりいるだけ。人影から隠れるというより、暑さをしのぐように物影に建てられた三角屋根の休憩所で、紗綾は男の話を聞くことにした。


「ごめんなさい」


即答でそう告げれば、大抵はすんなり終わる。しかし、今日の男は少し違った。


「彼氏がいるんですか?」


そこで「はい」と答えればよかったものを紗綾は素直に「いいえ」と言ってしまったのだから仕方がない。男は紗綾が抵抗するまもなく、友達からはじめましょうと紗綾の手を握り、友達にはしないキスを求めるように迫ってくるという強行突破に転じてきたのだった。


「イヤッ」

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