第14話 間奏
その日は吐く息も白く凍るほどの寒い寒い冬だった。夜景を望むには最高の場所だが、安易に誰も入れない特別な場所。眼下に広がる無数の人工星は赤や青、黄色や緑に色を変えて黒い地上に無数の花を咲かせるように光っている。
凍てつく風の存在を忘れたのか、くたびれたスーツだけを纏い、防寒具らしいコートやマフラーや手袋さえも身に着けていない男がそれを眺めている。色を失った瞳に、無数の煌めく都会の星は随分と眩しいことだろう。てらてらと不気味な光源を瞳に反射させながら、男はぶつぶつと生気のない声で何かを呟いていた。
「どうして」
疑問の声は冬の風にのって真上へと舞い上がる。分厚い雲が垂れこめた灰色の空。やがて男の声を吸収したその雲から、真っ白の結晶がふわふわと降り始めていく。雪。ちらつく氷の結晶に眼下に住む人間たちは喜びの声をあげていることだろう。
「どうして」
ビルがひしめく摩天楼もその屋上で疑問を口にする男の声までは届かない。
いや、ここに一人男の声を聴くものがいた。
「ふんふふーんふふん」
調子外れの変な鼻歌を奏でながら、高層ビルの屋上のそれも男が眼下を覗き込む少し先で、若いような若くないようなよくわからな風貌の男が足をぶらぶらしながら楽しそうに揺れている。
「きっきみ、危ないぞ」
男は思わず声をかけてからしまったと口を閉ざした。自分が言える立場なのか、答えはノーだ。危険性を天秤にかけるなら、二人はいま同じ状況にさらされている。
「ほほぅ?」
よほどうれしいことがあったのだろう。鼻歌をうたう流れで、声をかけた男を振り返った青年は、眼鏡の奥に光る青紫の瞳をきらりと輝かせている。地上に咲く光の花を反射するように、その瞳はぬらぬらと不思議な光をまとっているように見えた。
「聞かせておくれよ」
男は両手を広げて世界に向かって語りかける。
「この素晴らしい世界で、なぜ自ら命を絶とうとしているのかを」
ひょうっと冬の冷たい風が吹き上げて二人の男に突き刺さる。思わず体制を崩した男は真後ろのフェンスを思わず手にとり、奇怪な青年の安否に顔を向ける。だが、その心配は皆無だったようで鼻歌を奏でるその体は足を前後に揺り動かしながらケタケタと楽しそうな笑みまでこぼしていた。
「ほら、ごらんよ。美しい夜だ。ある女はかつては浮気相手だった恋人との間に出来た赤子の服を選んでいるし、ある少女は寂しさを紛らわすために売った体に名前も知らない男の子どもが宿ったことを告げられた夜。生は欠くことなく巡り、飽きることのない模様を描いている」
「僕には関係ない」
「ほほぅ」
意外そうな顔で青年はフェンスから手を離した男に顔を向ける。
「関係ない?」
そしてまた「ほほぅ」と一人考え込むような仕草で、足をぶらぶらと動かし始めた。
「人が一人死んだところで世界は何も変わらない。世界から生者が一人減り、死者が一人増え、わたしの仕事がひとつ増えるだけ。まあ、いまは仕事とは言わないので、ただの気まぐれとでもいっておこう。なに、単純な計算さ」
「放っておいてくれ」
「これはただの独り言。聞きたければ聞けばいいし、聞きたくなければ聞かなければいい。強制も強要もしていないのに、随分と変わった言葉を吐くのだね。自分に語り掛けられていると思い込むのは、なにか心当たりでもあるのかい?」
男は何も答えない。青年も男を見てはいなかった。
高層ビルの屋上から眺める夜景は冬の冷気に煌いて、最高に美しい世界を描いているというのに、寒空にかじかむ手足をもった男たちは何も動かない。
「自分が受けた傷の痛みを緩和させるために、同じ痛みを他人に負わせることは罪になるのか」
ふいに男が口を開いた。
「ふんふっふふーんふふーん」などと変わった鼻歌を奏でていた青年の足がピタリと止まり、にやりと唇の端があがる。
「それはつまり懺悔かな?」
「ただの独り言だ」
「ほほぅ」
青年は両手を広げて夜空を見上げる。分厚い雲の隙間からチラチラと舞う白い雪を眺めているのか、視界の端でゆっくりと傾く男の影をとらえながら、にこにこと不気味な笑みを浮かべているだけ。夜景の花園に溶けようと、白い雪が地上に舞い落ちはしても、世界はそこから飛び降りた男まで包みこみはしない。静かに、ゆっくりと人生を振り返る短い時間を経て、男は答えを求めるように冬の雪に身をまかせていた。
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