第42話 終章:ルージュの妄信 (3)

「キミはちゃんと生きなきゃダメだ」

「ダリル」

「いつかまた会う日まで少し別れるだけだと思えば、今日に至るまでの出来事にきっと意味を見出せる」


そう言って、ダリルはまた紗綾の額にキスをする。

永遠に続くことを願って、紗綾はそっとその目を閉じてダリルの腕に身を任せていた。穏やかな時間、優しい時間。ダリルと過ごした日々が走馬灯のように紗綾の脳裏を駆け巡り、次に目を開けた時には、目の前に死神の姿はどこにもなかった。


「ありがとう」


ポタリと落ちてきた雨粒が、空を見上げた紗綾の頬に涙の痕を刻む。

すべてを洗い流す夜の雨はもう、恐怖にうずくまる対象ではなくなっていた。


* * * * *


夏休みが終わり、新学期が始まった九月のある日。紗綾はいつものようにその小言を聞いていた。


「桐谷さん、この際だからはっきりと言っておくけど、寮はあなた一人の部屋じゃないのよ」

「あ、洋子。おかえり」

「あ、洋子。おかえりじゃないのよ。物騒な事件が立て続けに起こったばかりだっていうのに、夏休みに何があったかわからないけど、すっかり別人みたいになっちゃって」

「洋子、いつもありがとうね」

「何を言っているのかわからないわ」

「点呼のとき、いつも私をかばってくれてるでしょ」

「なっ!?」

「今夜もちょっと出かけてくるからよろしくね。あ、洋子は戸締りちゃんとして夜は外出しちゃダメだよ」

「ちょ、桐谷さん!?」

「私のことは紗綾でいいってば」


ニコリと笑って黙らせるのは、いつから身についたのかはわからない。誰かがよくしていた仕草だが、知らない間に自分も会得していたのかと思うと、自然と笑いがこみあげてくる。


「気色の悪い笑顔を浮かべないで」

「失礼な」

「あたしの心配もいいけれど、ちゃんと自分の心配もしなさいよ」

「ありがとう、洋子。なんだかんだ言って優しいよね」

「うるさい」


バタンとしまった寮の窓にクスクスと笑いがとまらない。玄関ではなく窓から塀をこえて寮を脱出するのは、紗綾のお決まりのルート。この寮に入ってからというもの、毎晩のように抜け出していく道は馬鹿正直に正規の道は使わない。

これもまた、いつの間にか日常になっていることに気が付いて紗綾はふっと視線を細めた。


「この道を通るのもこれで最後かな」


懐かしさを噛み締めるように、紗綾は今しがた自分が飛び出してきたばかりの窓を見上げる。カーテン越しに洋子の視線を感じた気がして、紗綾はまたニコリと嬉しそうな笑みをこぼした。


「洋子っていい子」


そういうことに気づけるようになったのは、数日前から。

雨の夜、道端で倒れていた紗綾を見つけたのはなんとか警察の目をかいくぐり、一晩中街を捜索していたらしい十和と瀧世だった。十和が言うにはぐったりと意識をなくしていた紗綾をみて、瀧世が馬鹿みたいに狼狽えていたそうだが、瀧世が言うには、十和の方が紗綾を見つけた途端、泣きそうな顔になっていたらしい。泣いていないと十和は主張していたが、あながち嘘でもなさそうだなと紗綾は目を開けた先、瀧世の家のベッドで笑ったことを覚えている。


「岩寿は?」


かすれた声で問いかける紗綾に、顔を見合わせる十和と瀧世。どちらが何を言うかもめているが、その喧騒さえどこか愛しく懐かしい。


「え、病院?」


二人の会話から聞き取れた内容に、紗綾は慌てて半身をおこす。


「いいから寝てろ」


そういって瀧世にベッドへと押し戻されるが、紗綾は負けじと視線だけでその先の説明を求めていた。


「あいつは大丈夫だ。明日には退院してくる」

「本当?」

「俺たち含めて、ほぼ無傷なのはダリルのおかげだよ」

「ダリルの?」


誰にもあの瞬間の出来事がどうだったか、詳細を説明できるだけの記憶がない。欠けた情報を拾い集めて認識できたのは、誰一人として命を落とさなかったということだけ。それも無傷に近い状態で燃え盛る工場の脇にいたらしい彼らは、吟条を岩寿に任せて、十和と瀧世は紗綾とダリルを探しに出たということだった。代わりにその間、紗綾は高い塔の上にいて死神の狂気の沙汰を目の当たりにしていたことを二人に告げた。


「そうか」


瀧世の大きな手がわしわしと紗綾の頭を撫でる。


「無事ならそれでいい」


十和は布団をかけ直すように柔らかく微笑んでいる。

その優しい眼差しに見守られて再び紗綾が微睡み始めたあとのことは、正直記憶にない。疲労からの爆睡なのか、次に起きたときには十和と瀧世に両側から抱き締められる形で眠っていた。


「いやぁぁぁあ」


真っ赤な顔で叫んだ紗綾の声が起床の合図。一体何事かと飛び降りた二人の男の上半身がなぜか裸なうえに、自分も服を着ていなかったのだから驚きである。


「なっなななな」


現状を理解できずに半身を起こしてシーツを巻き付けた紗綾が不規則な震えを叫ぶなか「なんだ寝言か」と、また布団に顔をうずめる男がふたり。もちろん犯人だと疑わしき二人の後頭部には、それぞれバシバシと打撲の音が与えられ、事情聴取という当然の責務が加えられる。


「説明して」


ベッドに裸同然の男と入った記憶はないと紗綾は説明を求める。


「説明も何もあれだけ濡れてたら普通脱がすだろ」

「濡れっ!?」

「てかお前ら帰らなくて大丈夫か?」


「心配しなくても今さら、ない胸を…ッ痛い」

「十和のバカ」


聞いているのはそういうことではないと、赤面した顔から出る声の代わりに紗綾は十和の頭を叩く。それを横で見ていた瀧世もからかうように笑ったので、ついでに叩いておくことにした。


「痛っ、なんで俺まで」

「なんとなくムカついた」


一夜開けて夏休み。紗綾と十和の事情を知っている瀧世は、ベッドから一人起き上がりながら頭をさすっている。

その後ろで、紗綾は十和と顔を見合わせて二人揃ってピースサインを瀧世に向けた。

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