第41話 終章:ルージュの妄信 (2)

最後の助けだと言わんばかりに、両足で反動をつけてジルコニックを蹴り飛ばした紗綾は、のけぞった上半身ギリギリにかすめた刃物に気づいて息を呑む。

どさりと、尻もちをつくように倒れた紗綾は、一体何事かと確かめるように半身を起こしてジルコニックを見つめた。そして目を疑ったのも無理はない。


「手、出したら許さないって言ったよね?」


二つ重なった影がぐらりと揺れて、ジルコニックの背後からその鎌を突き刺したらしいダリルの声が聞こえてくる。


「な…っ…ダリ、ふぉんぐら…っと」


巨大な鎌をそのまま引き抜かれ、黒に散る大量の液体がドクドクとジルコニックの闇に放たれた。呆気なく終わった一瞬の出来事。ぐしゃりと倒れたジルコニックを冷酷な青紫の瞳で見つめたダリルの姿に、紗綾は息を止めたまま見つめていたことにハッと気づく。


「ちょっと、ダリル。いま、私ごと突き刺そうとしたでしょ!?」


明らかにジルコニックを貫いたダリルの鎌は容赦なく深々と突き刺さっていた。ジルコニックを蹴った紗綾の胸元にその先端がかするほど、黒い鎌はあと数ミリで紗綾の心臓までもえぐりとっていたに違いない。状況が異常過ぎて、紗綾の口からは行き場のない怒りの声が溢れていた。


「私が佳良くらい胸があったら確実に刺さってたわよ」

「ないから大丈夫でしょ」

「ひどい、ってダリル!?」


ガクンと膝を折ったダリルの影に紗綾は駆け寄る。途中、ジルコニックの影を踏みそうになったが、紗綾はそれを飛び越えてダリルの元へ駆け寄った。


「すごいケガ、早く手当てしないと」

「大丈夫大丈夫、死神は死なないから」

「そこで死んだ死神見てるんだから騙されないわよ」

「痛い。キミはボクに対して相変わらず乱暴だな」

「いつ私が乱暴したのよ」


そういって視線を合わせた顔に笑いがこみあげてくる。

生きている。

伝わってくる温もりも、じんわりと感じる痛みも何もかもが実感を連れてくる。


「ここで最悪のお知らせがあるんだけど」

「シュガープラムに侵された人間は魔種とは違うから回収できないって言うんでしょ」

「うん。それに生者と死者の数は均衡を保つように出来ている。死神が関与しても、世界は簡単にはその均衡を崩さない」

「そんな気がしてた。人生、思い通りにいかないことの方が多いもの。でも、きっと大丈夫」

「え?」

「人間だってみんながみんな、欲望だけで生きているわけじゃないから。戦って倒れそうになっても、苦しんで自暴自棄になっても、それでもきっと負けない。ヴァージンローズなんか比じゃない綺麗な花を咲かせるわ」


なぜか、ダリルが少し寂しそうな瞳で見つめてくる。

青紫の瞳。

その宝石に閉じ込められた光はゆらゆらと揺れ、風にあおられた黒い髪、透き通る白い肌はまばたきの中に閉じ込められる。


「本当、キミを連れていけないのが残念だよ」


優しいダリルの声が、流れる風の音に紛れて紗綾の頬をそっと撫でた。


* * * * *


高い高い塔の上から、人気のない場所に紗綾たちは降り立っていた。

途中、気絶したまま目を覚まさなかった黒いスーツの男は警察の前に置き去りにしてきたので、今頃しかるべき処置を受けているだろう。


「ダリル、本当に行っちゃうの?」


意識のないジルコニックを肩に抱えてダリルは空に帰ろうとしている。


「うん、千年牢獄にぶち込まないとね」

「そっか」


死神の事情は理解の範疇を超えすぎて、もはや突っ込む気にもなれない。気力も体力も底をつき、気を抜けばそのまま地面で眠ってしまいそうなほどの疲労感が紗綾を襲っていた。


「また、帰ってくる?」

「さあ、それはどうかな」

「え?」


てっきり当たり前だと答えてくれるとばかり思っていた紗綾は、驚いたようにダリルを見上げた。


「そんな顔しないでよ」


反則でしょとダリルは笑う。簡易の応急処置で済ませた身体を回復させるまでに時間がかかるからだとか、千年牢獄というところに厄介者をぶち混む手続きが大変だとか、そういう理由を含めても、ダリルの断言しない返答は紗綾の不安を掻き立てる。


「じゃあ、これっきりなの?」


胸に感じた疑問は、紗綾の口から告げられる。


「そんな、嘘でしょ?」


ふっと陰った青紫の瞳に、それは嘘ではないと安易に告げられた気がして、紗綾は現実を否定するようにダリルへと抱き着いた。

ドサリ。ジルコニックが落ちた音が聞こえてくる。


「キミ、ボクが怪我人だってこと忘れてるでしょ」


よしよしと頭を撫でてくれるダリルの手が心地いい。もう何度も何度も味わった感覚なのに、これが最後だと思うだけで名残り惜しく、離れがたい感情が渦を巻いて飛び出てきそうになる。


「ダリル、行かないで」


実際、自分でも驚くことに口からその言葉が飛び出ていた。それはダリルも同じだったようで、驚いたように紗綾を撫でる手が止まっている。


「キミはボクを惑わせすぎだよ。死神の掟さえどうでもよくさせるからタチが悪い」

「なに、それってどういうッ」


ふわりと抱き寄せられ、おでこに落とされた唇の熱が心臓の音を止める。

柔らかく温かなその口付けは、抱きしめられた強さを裏切るように優しくそっと離れていった。


「紗綾、キミと出逢えてよかったよ」


至近距離で微笑む青紫の瞳が紗綾の涙腺を弱らせる。ボロボロととめどなく溢れてくる涙は、いつか流した涙とは違った感情を伴って、胸が張り裂けそうなほど苦しい。

行かないで、行かないで、行かないで。

言葉を覚えたての赤子のように何度も繰り返し泣いてすがる紗綾の声が止むまで、ダリルはその腕の力を緩めようとはしなかった。

ずっと傍にいて欲しい。

住む世界が違う以上、それは当然無理な話。頭ではわかっている。理屈も理解している。それでも心がダリルのいない日常を拒否して、紗綾の胸を締め付ける。

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