第40話 終章:ルージュの妄信
日々を過ごしているとつい忘れがちになる。
与えられた日常が奇跡の連続で繋がっているのだということを。
「幻影に恋をしている?」
ジルコニックの発言に耳を疑った紗綾の声は、膝をおったダリルをかばいながら風を漂い空に消えていく。
ジルコニックの足元には紗綾から与えられたスタンガンの威力に呻く青年が一人。どうやら気を失ったようだが、面識もなければ声を交わしたこともない。さすがにすれ違う人間のすべてを記憶してはいないが、好意をもたれる接点が思い当たらない。
「キミって本当によくモテるね」
「こんな時に冗談言わないで」
知らないところで好意を持たれる経験は今に始まったことではない。
顔も名前も知らない人からの告白は、何度も紗綾の人生では当たり前に存在している。それでもこれは特殊で特異なケースだと紗綾はダリルに断言した。
「彼はね、アリア・ルージュに恋をしたんだよ」
何がおかしいのか、ジルコニックは嬉しそうに青年と紗綾の顔を見比べる。
「面白いだろう。姿を見たことも、声を聴いたことも、まして性別もわからない人間に恋をする人間がいるという事実に」
そう言ってジルコニックは紗綾に秦内御代(はたうちみだい)だと正体を告げた青年についておもむろに語り始めた。
「少女の遺体からヴァージンローズを回収するのは彼の役目だった。彼は良くも悪くも目立たない。人間は彼を無の存在として認識しているようでね。ここも面白いところなのだが、人間は見たいものしか見ようとしない。たしかにそこに存在しているのに、彼の姿はほとんどの人間に承認されない。それがヴァージンローズを回収するには都合がよかったのだが、彼もまた自分がそういう存在だということを認め、そうであるという人生を受け入れていた。紗綾、きみが口紅で十字架を残すまでは。彼はアリア・ルージュが自分の存在を認めてくれていると錯覚した。同じ世界を共有し、二人だけの秘密をもっていることに興奮し、白濁にまみれた少女の中にその赤を見つけるたびに、彼は知りもしない存在に溺れていった」
それを聞いてどうしろというのか。
衝動に駆られて自分の感情を形にしたが、あの十字架は誰かに好かれるために残したものではない。
「狂ってる」
紗綾は浮かぶままの感想を口にした。
「面白いことを言うね、紗綾。他人はダメで自分だけはイイと思うのかい?」
「どういう意味?」
「遺体に口紅で十字架を描きながら徘徊する姿は十分狂っている」
それに関しては何も反論できる言葉が見つからない。
自分だけが狂っていない保証はどこにもない。視点が違えば正常は異常。無我夢中で走っているときには気づかない、改めて振り返って見た世界が想像と随分違う光景だということは、第三者に指摘されて初めて道を外れていることを知る。
「欲望は簡単に人を狂わせる。人間はそれだからこそ、魔界のいち植物である魔種にすら操られ、苗床にされる。染まってしまえばいいのだよ、何も考えず、感じるまま欲望のままに動き、白い花を咲かせて散っていけばいい」
夜風が絶望を運んでくる。
ジルコニックの演説は一貫して何も変わっていないのに、ここ数分の間でとらえかたが違っていることに驚く。紗綾はここに来るまで、それこそあの事件の日からずっと、復讐のことだけを考え、そのためだけに模索していたはずだった。それなのに、ここへ来てそのすべてが想像とは違う世界を描いている。
「ところで魔界の植物といえど、そうすぐに成長するわけではない」
もうジルコニックの言いたいことが何かはわからない。
元から共感できるものはなかったが、今では次に何の言葉が飛び出すのかさえ予想もつかなかった。
「花を咲かせるには種まきが必要なのは魔界の植物も同じこと。時間をかけたかいあって、随分と広範囲に種は根を下ろした。そうなると次にどうなるかわかるかな?」
「次に、どうなるか」
「魔種は芽を出し、花を咲かせる場所を求めてさまよいだす。通常、魔種は処女の匂いをかぎ分け種を産ませるためにオスの身体に寄生する。だが今、地上に蔓延しているものは魔種を改良したシュガープラム。美味しい美味しい甘いお菓子。小さな星の形にしたのは正解だった。予定よりも人間には好まれたようだ。おかげでシュガープラムは徐々に進化し、ついに最終形態に突入した」
ドキドキと早鐘を打つ心臓が、その先を聞くことを拒否していた。
耳を塞ぎたい気持ちが、それでもその先を聞きたい欲望にまたしても負ける。
「母体を選ばなくなったのだよ」
紗綾の身体は、負傷したダリルを知らずに強く抱きしめる。言葉は何も必要ない。嬉々として話す死神を止めるものは、もうどこにも存在しない。
「わかりやすく説明すると、処女である必要はなくなったということだ。品質の面では前者を選ぶ傾向にあるが、花畑を作るにはまず質より量が大事だからね」
その事実に直面した時、一気に目の前が真っ暗になった気がした。
ジルコニックが人間を動物のように分類わけする言葉を使った時からイヤな予感はしていた。工場に足を運んだ時に見たあの白い化け物たち。「末期症状」だと彼は最初にそう言っていたが、その時にはさらりと流した言葉が今更重みを添えて胃袋にのしかかってくる。
「オスは等しく白濁の泡となり、メスは等しく純白の花となる。まもなくここから見える世界は白一色に染まり、美しい魔界の植物ヴァージンローズの花園となる。想像したまえ、美しく美しい、白だけの世界。無垢の快楽という言葉にふさわしい世界を望むことが出来るようになるのだよ。わくわくするね」
ジルコニックの感覚がどうなっているのか、理解は永遠に出来そうにない。何が正しくて何が間違っているのか、自信はグラグラと音をたてて崩壊していくが、そのことだけに意識を使っているわけにはいかなかった。
紗綾は抱きしめるダリルが黙ったままのことに一抹の不安を抱えていた。
はぁはぁとか細く息を繰り返すだけで力の入らない体を時々苦しそうに押さえている。医者でなくても、まずい状態だということは伝わっていた。だからといって何も出来ない。抱きしめて支えることしか出来ない。
「アリア・ルージュ。まだ本来の世界を見ようとしないのかい?」
ジルコニックは反抗の意思を示さないダリルを無視するかのように、紗綾の元へ近づいてくる。持ち上げられた顎。綺麗な指は驚くほど冷たくて、青紫の瞳は夜の闇の中にあっても宝石のように美しい色をしながら覗き込んでくる。
「赤い口紅でいくら十字架を残そうと、それらに誓った言葉はすべて無意味なもの。戯言を口にして優越に浸っていた時間は随分と癒しになったことだろう。なに悲しむ必要はない。努力が無駄になることなど、人間にとってはよくある日常だ」
青紫の瞳に至近距離で見つめられることの意味を知っている。
覗かれた記憶は、紗綾の感情も行動も何もかもを赤裸々にジルコニックへと伝達し、そして告げる。
「キミが復讐したい相手は永遠に見つからない」
「っ」
感情が紗綾を無意識に突き動かす。
「おっと」と、どこか楽しそうに距離をとったジルコニックを追いかけるように、紗綾は悔しさと悲しさをぶつける相手を望んでいた。
本当は心のどこかで違っていてほしいと望んでいた。ダリルからも聞いた事実を認めようとしなかった。疑うことで行動を正当化して、現実に目を向けようとはしなかった。勇気がもてなかった。それを認めてしまえば、自分の中で何かが崩れる気がして怖かった。
「犯人は、とっくの昔に白い泡となって雨に流されている」
この世界が無情だという真理を受け止めきれずに心が荒れ狂う。喉が切れるまで叫んでも戻ってこない幸福の日常は、あの日まで当たり前だと妄信していた奇跡の連続。
感じた違和感の正体は、見ようとして見なかったこと。
もっと大事に、大切に日々を過ごしていればよかったと後悔に押しつぶされる雨はいらない。
「どんな形であれ、一生懸命に自分と向き合った人間は愛しい」
「ッ…ふっ~~くっ」
「泣いて睨むその顔が実にそそる。なるほど、なるほど。ダリルが先ほどキミはモテると言ったが、その言葉はわたしも次いで肯定しよう。ヴァージンローズが無垢の花なら、紗綾、キミは魔性の花だ。魔性の花の色が何色か、実に興味深く、試してみる価値がありそうだ」
いとも簡単にとらえられ、抱き留められる現象に理由はない。男だとか、女だとか、そういう次元すら超えて人間ですらない超人相手に何をどう戦えというのか。暴れる紗綾の腰を抱き、頬を掴んで無理矢理上を向かせる奇人は、痛くも痒くもないといった風に余裕の眼差しで見つめてくる。
「美しく、美しい、永遠の花におなり」
ゆっくりとジルコニックの唇が、噛み締めて抵抗の意思を示す紗綾の唇に近づいてくる。もう、どうにもならないのかとジルコニックの手首に爪を立てて全体重をかけてみても、その体は進み始めた動作を止めようとはしてくれない。
「冗談じゃ、な、え?」
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