第39話 Date:8月12日PM(4)

ゾクリと泡立つ悪寒を抱きしめるように恍惚とした死神は、こんなときでも美しい。青紫の瞳をもつ生き物の思考は、やはり理解できそうになかった。


「相変わらずの変態っぷりだね」


言葉を失った紗綾の代わりにダリルの声がジルコニックの饗宴を一括する。

「ダリル」と、ジルコニックが残念そうに首を数回横にふった。


「ダリフォングラット。欲に溺れた人間は可愛げがあり、扱いやすい。魔種は絶滅危惧種なのだ、醜い人間の生死の均衡を保つことよりも魔種の繁殖を優先すべきだと、再度声を大にして主張するよ」


あまりにも馬鹿馬鹿しすぎて言葉が出ない。

花畑、観賞用、死神の道楽や娯楽のために生きているのではないと、怒りが紗綾の声を震わせていた。


「そんなこと、させない」

「なぜ?」


心底不思議そうな瞳で、死神は紗綾を見つめる。


「恨みに駆られて、勝手な正義感を振りかざして、非力な人間風情が何か出来ると本気で思っていたとするなら実に驚愕に値する。赤い口紅で十字架を刻んだところで、それはこの計画を止めるための何の布石にもならない。せいぜい、その魂の色を清潔に保つための行動に過ぎず、それは他者の欲望を引き寄せるエサとなるだけだ。それとも何かな、自分だけが世界の特別だと思っているのかい?」


ふわりと風に乗ったジルコニックの身体は、この世界の重力という存在を無視するように宙に浮き、ふわふわと紗綾に近寄ってくる。

そらせないほど深い青紫の瞳。ダリルが間にいるおかげで、一定の距離以上は近づいてこないジルコニックの声だけが紗綾の耳をかすめていく。


「きみたち人間は、その他大勢と何も変わらない。誰もが共犯者で、誰もが当事者だ。だが目の前にある現実を否定して、自分だけは潔白だと言い切って暮らしている。仮面だらけ、実に美しくない。そうは思わないかね?」


問われても答えられない。肯定も否定もできない。言葉を探して唇を噛む紗綾をもてあそぶように、死神は言葉をつらつらと重ねては、ふわふわと風に煽られて左右へ揺れる。


「美しく、美しい世界は黒でもなく赤でもなく、魔界の植物に見初められるたただひとつの白だけさ」

「そんなこと、ない」


なんとかひねり出せた言葉さえ、ちっちっと指を左右に動かした美麗な死神には響かない。その証拠に、死神は優しい死の宣告を口にするように静かに紗綾の前で微笑んだ。


「アリアルージュ、盲信しているにすぎない、この世が不変的なものであると。同じものはどこにもなく、そのことに気付きながら、今日も明日も明後日も変わらない日常がくると信じている。違和感を感じていたはずだ。自分はこんなにも変わってしまったのに、なぜ周囲は何も変わらないのかと。なぜ、普通に過ごせるのかと。なぜ、何もなかったように振る舞えるのかと。だが安心したまえ、変わったように感じているのでさえ、まやかし。人はやがて等しく散る。生がそうであるように、死は絶対だから美しい。これはふむ、死神であるからこそ言えることだが、わたしはこの作られた地上で営まれてきた世界が好きなのだよ。腐ったごみの中に、宝石を見つけたときのあの興奮はなにものにも変えがたい。だが、それも飽きてしまった。探すのにも疲れ、出会う興奮も前ほどではなくなった。美しいものだけで世界が染まればわたしの心も安らかなものになる。そう思ってね。いやいやお喋りが過ぎてしまったようだ。さあ、アリア・ルージュ。いや、紗綾。きみもわたしの白い花におなり。ここまできたご褒美に、ガラスの棺に飾って、特別に愛でてあげよう。その花が朽ちて枯れ行くその日まで」

「ッ!?」


紗綾ちゃん。と、名前を呼ぶダリルの声が焦燥に駆られている。

なぜそんなにも驚いた顔をしているのかと口に出す前に、紗綾は自分の身体に突然与えられた衝撃の苦痛に狼狽えていた。


「ああ、やっと会えた。愛しのアリア・ルージュ」


抱きしめるように押し倒され、耳元で愛の言葉を囁かれる。


「イヤッ、な、に?」

「紗綾ちゃん、ッ」

「おっと、ダリル。人間の求愛に死神が割って入るなんて無粋じゃないか」

「ジル」

「ほほぅ、そういう顔は五百年ぶりにみた」


ごおんごおんと重低音が花火のように夜空に舞う。ジルコニックを標的に定めたらしいダリルの応戦がその激動を物語っているが、紗綾は自分に訪れた衝撃の混乱からまだ抜け出せずにいた。

黒いスーツ、黒い手袋、はあはあと興奮したその美形に心当たりは微塵もない。


「ちょ、やめてよ」


バチバチとこういう時のために持っていたスタンガンを探して、紗綾は必死に抵抗を試みる。足の間に体を滑り込ませ、上から押さえつけるように抱きしめて、頬や首筋に唇を落とされる気色悪さに泣きたくなるが、今はそれがどうとか言っている場合ではない。


「ヤダ…ッ…やめ、あなた、誰なの?」


一向に動かない目の前の胸板を叩きながら紗綾は恐怖を口走る。


「ようやく会えた、ああ、この日を何度夢見たか」

「いや、だから、やめ」

「わかっていたよ、赤い口紅で記された告白を見つけた日からずっと、こうなる日が来ることをずっとずっと待ち望んでいた」

「ヤダ、やめ…ッ…どいてよ」


唇だけは奪われないように必死の抵抗を続けていたのに、硬くなった下半身の熱を布越しに感じて涙腺が歪んでいく。どうしてこんな場所で、こんなときにと、苛立ちと悔しさが紗綾の苦しみを助長していく。

ここには、こういうときに頼りになる十和も、あの日のように助けて来くれた瀧世も、証拠を収めてくれる岩寿もいない。唯一のダリルはジルコニックとの戦闘に気が抜けず、紗綾は乙女の貞操をかけた戦いを案じて、最後の希望を口にした。


「佳良」


その祈りが通じたのか、バチバチと大きな音が紗綾を襲っていた男の身体に放たれる。はあはあと、紗綾は震える両手でスタンガンを握りしめ、呻く男に向かって叫んでいた。


「あなた誰よ、なんなのよ。美形だからって何でも許されるわけじゃないんだからね」


混乱が恐怖に拍車をかけて意味不明なことを口走らせる。触られた場所のすべてが気持ち悪い。肩で首筋の感触を拭い去るように首を傾けた紗綾は、それでも呻く男から視線を外しはしなかった。


「彼は実に面白い人間だろう?」

「ヒッ!?」


真後ろから聞こえてきた声に振り返った瞬間、ジルコニックの身体はダリルに吹き飛ばされる。


「遅くなってごめん」

「ダリル!?」


黒い衣装の裾から、ひたひたと黒い液体が床に水滴を落としている。夜の闇に黒く見えるそれの正体が想像通りであれば、紗綾が指ですくったその色はよく知った赤に染まるはずだった。


「彼の名前は秦内御代(はたうちみだい)。アリア・ルージュに心奪われたただの人間だ」

「気色悪いこと言わないでよ」

「おやおや、ひどい言い草だ。好意を持ってくれている人間をそう邪険にするものではない」

「だって、だって私、その人と会ったことない」

「当たり前だろう。彼は幻影に恋をしている」

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