第32話 8月12日AM(1)

夏も本格的な暑さを迎え、蝉が激しい愛の告白を叫んでいる。

小さな会社が連なる場所は冷房という近代技術の賜物が動いている音に囲まれ、蝉の音もどこか霞んで聞こえてきそうだった。一言目にも二言目にも「暑い」以外の文字が浮かびそうにない時間。通りのどこを見ても人影はなく、そういえば世間はお盆休みに突入しているのかと、夏休みも中盤に差し掛かる灼熱地獄の中、紗綾は小さなビルを見上げて眩しそうに額に手をあてていた。

「株式会社へルシード」

五階建ての四角いビルは無人の入り口に紗綾が口にしたのと同じ「株式会社へルシード」と確かに書かれた黒い看板を取り付けていた。間違いはない。街路樹の刺さった土手沿いに建つその会社は、紗綾の暮らす街から電車で一本乗り継いだ程度の身近な場所に立っていた。


「十和、まじで紗綾連れていくのか?」

「あいつが行かないやつだと思うか?」

「いや、そうかもしれないけど」

「こんなときだっていうのにキミたちは青春を謳歌しているよね」

「そういや死神って恋心とかわかるん?」

「やだなキミ、カメラで女の子を口説くだけの人間に言われたくないよ」

「いやいや、俺はいつも真剣やで。女の子はみんな俺のカメラに映るだけで可愛くなるわけやし、ほら見て、今日の紗綾ちゃんもめっちゃ可愛いと思わん?」

「死神で一番厄介なのはカメラという存在がないことかもしれないな」

「せやろせやろ、ほらこんなんも、こんな顔もさっき撮らしてもろた」

「岩寿、お前はまたなにやってんだよ」

「紗綾ちゃんがええんやったらええやんか。たっちゃんもそんなこと言ってんと、見たいんやったら遠慮しな」

「今すぐ消せ」

「十和くんも素直になったほうがええよ、まだ若いんやし」


蝉の声などきっと彼らの耳には入っていない。白く浮かぶ入道雲も、緑が色濃く染まる街路樹も、じりじりと焦がすアスファルトの熱も何もかもが眩しく肌にまとわりつくというのに、「男の子ってこれだから」と、紗綾は遠くの方でカメラを覗き込んでいる男子たちに視線をさげて息をついた。

はぁっとこぼした息の先で、もう一度目的の会社に視線を向けようとしたとき、紗綾の視界は不自然な水たまりをみつける。まるでバニラアイスのような白さと、むせかえるような甘い匂いがアスファルトの上でじゅうじゅうと音を立てて溶けているように見えなくもない。

甘い匂い。

記憶の中にある匂いとは違う臭いに違和感を感じた紗綾が眉をしかめる。そのときピタリと、紗綾の肩に粘着性の雨が零れ落ちた。


「イヤァアア」


紗綾の悲鳴とバチバチという電気音、そして鈍い残骸の音が交互に混ざり、最終的に紗綾の身体は死神の鎌を出したダリルの腕の中でおさまっていた。


「紗綾、大丈夫か」


焦燥の顔で駆け寄ってきた十和にダリルから引きはがされるようにして抱きしめられるが、紗綾はその手に持ったスタンガンを見せつけるように動かしながら「平気」だと笑顔を向ける。


「私、今、スタンガン選手権があれば一位になれる自信がある」

「そんなものにならなくていい」


この状況下で無理をするなという方が無理がある。ここに来た理由を考えれば今のはまだ可愛いと表現できる、いわば序の口というやつだろう。紗綾は想定の範囲内だとスタンガンをもったまま、得意げな顔で十和とダリルに挟まれながら笑っていた。


「せやけど、死神っていう存在はやっぱええな」


岩寿はダリルの勇姿を目の前にして、カメラに残すことの出来ないその実態に肩を落として嘆いている。その真横で、周囲への警戒体勢に入ったらしい瀧世がまた真上に一人隠れているのを見つけて容赦なく殴りつけていた。


「やっぱ、あたりと見て間違いないようだな」

「そうみたいだね」


瀧世の言葉にダリルが頷く。


「ボクたちを歓迎する気は満々ってわけみたいだ」


熱で溶けたような白い化け物がうようよと現れる。木の上、塀の隙間、物陰、あらゆる場所からはい出してきた白い化け物たちは、一直線に紗綾に向かって歩みを進めていた。


「キミって本当にモテるよね」

「ダリル、冗談でもイヤ」

「死神に愛されると寿命が縮むって言うけど、その死に方は妬けちゃうかな」

「なにそれ、どういう意味」

「さあ、どういう意味でしょう?」


そういって巨大な鎌を振りかざすダリルの言動はやはりよくわからない。スタンガン片手に首をかしげる美少女もどうかと思うが、生死がかかった一場面で呑気にダリルの冗談に付き合っている暇はなさそうだった。


「紗綾、行くぞ」

「うん」


十和の掛け声で紗綾は走る。目指す場所はたったひとつ。目の前にたたずむ小さなビルだが、目当ての場所にたどり着く前に白い化け物の団体をどうにかしなければ話にならない。株式会社へルシード。その実態がシュガープラムの精製工場であることは、紗綾たちはとっくに突き止めて知っていた。

七月の終わり、岩寿の家でその会社名を初めて耳にした夜から今日で数えて二週間。最初は煮え切らない本題への近道を探すために、近隣で起こった事件をすべて洗い出してみようという発想がきっかけだが、思いがけず最初の一発目で紗綾たちはあたりをひいた。翼心会という巨大な組織の下層部で違法に麻薬を入手し売りさばいている人たちがいたが、それを仕切っていた男が突然消失し、その娘が白濁の少女となって自宅近くの倉庫から発見された。仲のいい親子という噂は彼らを知る人なら口をそろえて出てくる証言のひとつで、事実、その日も男は娘を自宅に送ったらしい。そんな男の車が発見された場所が、現在紗綾たちが白い化け物と戦っている小さな会社の前。街路樹が脇を固める静かな工業地帯。しかし初めからすぐにここが本拠地だということにはたどり着かなかった。


「へルシード?」


岩寿がその会社名が引っ掛かったのか、うーんと首をひねる中、十和が資料調査に借りていた岩寿のパソコンをかたかたと叩いていく。


「あった」


そういう十和の元に、瀧世とダリルの顔も集まる。紗綾もつられて顔を寄せてはみたもののホームページらしい会社の案内画面を見るまでもなく、その目は十和に塞がれていた。


「いたっ、何するの」


ほぼ手のひらで顔面を覆われたと言っても過言ではない。器用にパソコンに体をむけたまま、腕だけで紗綾の顔を覆った十和の荒業は、紗綾の鼻先を赤く染める。


「へルシード言うたらアレ売っとるとこか」

「え、なに?」

「紗綾ちゃん知らんでも無理ないわ。男なら聞いたことあるというか、まあ知っててもおかしないっていうか、あ、なんでもない」

「なに、余計に気になる」


鼻を擦ってから顔を上げた紗綾の視線は誰とも合わない。代わりにモニターの画面を閲覧している十和の声がそこに書いてあるらしき文字を読んでいた。


「社長の名前は吟条徳人(ぎんじょうのりと)か、まだ創業して三年。比較的新しい会社だな」


男たちの結束力が妙に癇に障る。情報の共有は大事なことなのにと、ごそごそと、先ほどそこに置いた資料の近くに埋もれている自分の携帯を発見した紗綾は、悪戯な顔でそれに指をすべらしていた。


「もういい、教えてくれないなら自分で調べ、あ」

「そういうのはキミが大人になってから」

「ダリル返して、よ」


こういうときばかり抜け目のない長身の男に取り上げられれば奪還は不可避。紗綾は天井付近に持ち上げたダリルの腕の中から携帯を取り返そうと、ひとり孤軍奮闘に徹するほかない。そうこうしているうちに、株式会社へルシードの実態が浮き彫りになってきたのか、紗綾に話す、話さないの二択を迫られた十和と瀧世の声が部屋を交互に行き来する。


「だめだ」


これは一方的な十和の意見。


「十和は紗綾に過保護すぎる」


これは瀧世のもっともな意見。


「黙っていても先に進まないんだから仕方ないだろ。ほら、紗綾こっちこい」

「え、いいの?」


おいでおいでと呼んでくれた手に吸い込まれるように紗綾はダリルから離れて瀧世の元へ向かう。

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