第35話 8月12日AM(4)
* * * * *
つらつらと、何も変わらない時間を過ごす。襲われては反撃し、無人の扉の中を覗いては、また次へと望みを託すだけ。そのうち十和と瀧世の顔に疲弊がにじみ始めたころ、最上階の奥に位置するその場所に紗綾たちはたどり着いた。
「ここで最後だな」
十和の声が全力疾走したあとのように息づいている。
「ああ、ここで何もないとかなしだぜ」
そう言って扉の前にたった瀧世の息もあがっていた。
扉の前に並ぶ二人の背中が、一拍の目配せをしてから同時に足でその扉を蹴破った。
「随分と乱暴なお客様だ」
後ろ手で腕をくみ、窓の外をぼんやりと眺めていた男がやんわりと振り返る。滑らかなスーツに穏やかな顔。少しシワが刻まれた中年の男性。
「吟条徳人社長」
岩寿の言葉通り、数日前にみたホームページの人物その人。「僕も随分と有名になったな」と笑う柔らかな印象は、ここに至るまでの過程を無視するように、普通にみえた。それが一番怖いと思う感情はどうかしているのだろうか。
十和と瀧世だけではなく岩寿からも漂う緊迫の気配が紗綾の心をざわつかせる。
「色んな客人がここに来たが、誰も変わらない顔をして来る。ああ、きみがアリア・ルージュだね。噂には聞いているよ」
視線を感じて思わず一歩たじろぐ。何か特別なものを持っている人には到底思えないほど、どこにでもいる普通の人にしか見えない。それなのに、何かがおかしい。
「あんた、自分のしてきたことわかってんか?」
目の前にたつ静寂は、岩寿の怒りを受けてくすりと笑う。
「してきたこと、か」
それは肯定なのか、否定なのか。うつむく顔だけでは判断できない空気が満ちていた。
「自分が受けた傷の痛みを緩和させるために、同じ痛みを他人に負わせることは罪になるのか」
「何が言いたい?」
「負の連鎖は誰が始めたのか。なぜ人は裏切り、他人の不幸の上に自分の幸福を築こうとするのだろう」
両手を広げて演説するように語る吟条徳人の瞳は、紗綾たちを見ているようで、どこか違う場所を見ているようにも見えた。何もない夢中の空間。理想郷を夢見る独断と偏見の世界。
「自分がしてきたことが悪いことやと思てへん言い方やな」
岩寿の声は、ますます低く怒りを滲ませていく。しかし、それさえも夢の中で聞こえる幻聴か何かを追い払うような仕草で、吟条はふっと肩をすかせて笑った。
「求める者に与えることが罪だとでも。需要と供給が成り立ち、そこにビジネスが生まれただけのこと」
「犠牲になったんは、関係ない一般人やぞ」
「その写真でいくら儲けた?」
突然、吟条の瞳が現実世界に帰ってくる。岩寿の持つカメラを指さし、それらが映し、金を生み出してきた世界は何を犠牲にして成り立っているのかと吟条は岩寿の顔を挑戦的にねめつける。
「俺はそんな気持ちでカメラは握ってへん。お前と一緒にすんな」
「同じ事さ、佐伯岩寿くん。切り取られた世界に、どの物語を当てはめようとそれが読み手の自由である以上、そこに込められた気持ちはただの飾りでしかない。こう見てほしかった、ああ感じてほしかったなどというワガママは売買が発生した時点で譲渡されるもの。きみが撮った白濁の少女は一部マニアの間で出回り、高額で取引され、コレクションされている。シュガープラムは確かにここで作られていた。バラまいたのは別の人間だが、麻薬に溺れる人間の甘い蜜を吸ってきたのはどちらかというと彼らの方だ。白濁の少女という副産物を産み出すということをわかっていながら彼らは自分達の欲には勝てなかった。皮肉だろう。世界は欲望によって壊されていく」
「元凶を作ったのはお前だろう?」
「元凶?」
割って入った瀧世の発言に、ゆらりと吟条の口角があがった。
「元凶というのであれば、それはもっと別のものが当てはまる。裏切りと嘲りの混沌に、誰が僕をを責められようか」
そうして両手をゆっくりとあげて下げた吟条は、社長机に腰を落ち着けて、その両手でバランスを保っていた。悪びれる様子は微塵もない。こうなるのは必然だとでもいうように、落ち着いた雰囲気を崩さないままそこにいた。
こんな奇妙な話があるだろうか。
白く溶けた化け物よりも、普通の人間の方が怖いと感じた瞬間から、その顔が人間ではない別の生き物の顔に見えていくような錯覚。
「あんたのこと調べたんや吟条社長。三年前、あんたはある会社の将来を約束された有能な人物やった。それが同期と妻の浮気で十八年も連れ添った妻がまさかの妊娠、あんたと離婚。同期の男も家庭崩壊で離婚して、今はかつてのあんたの嫁さんと一緒に暮らしてる」
ゴクリと、喉が渇いていくような感覚を岩寿も感じているのか、紗綾は視界を吟条に集中させたまま岩寿の声を聴いていた。それは、ここに来るまでの間、あの夜、この会社に活路を見出したときから調査した内容は、ここにいる全員が知っている。
「あんたはその男と前の奥さんとの間におった一人娘を金で買って妊娠させた」
答え合わせになっているのかどうか、そもそも言葉が通じるのかどうかも疑わしい。しかし幸いにも吟条は、人間らしい笑みを浮かべてニコリとただ微笑んだ。
「よく調べたものだ。その情報に間違いはひとつもない」
「女に裏切られて、女はどうなってもええて思ったんか?」
「表面だけをなぞった情報が、真実を教えてくれていると思うのかい。あの日の僕の感情を衝動を知るものは誰もいない。きみたちもそうだろう。もっともらしい理由をつけて僕を糾弾しているが、どこにもぶつけられない怒りや悲しみを僕の影に見出して、ていよく矛先を向けているだけではないか。僕のしてきたことと、今、きみたちがしていることに何の違いがある。僕を責める前に、自分たちの非力を呪いたまへ」
「瀧世っ!?」
あまりに一瞬の出来事。何が起こったのか理解をする前に全身が硬直する。焦げた硝煙の匂い、肩を押さえて跪いた瀧世、不意に叫んだ耳鳴りが現実を否定している。
「正当防衛とでも言っておこうか。先に僕を殴りかかろうとしたのは彼のほうだ」
「暴力は暴力しか生まない」
「ん?」と首を傾げた銃口が紗綾を見つめる。
「紗綾、やめろ」
静かな十和の静止が聞こえてきたが、紗綾は黙っていられずに大声で訴えていた。
「悲しみは悲しみしか生まない、苦しみは苦しみしか生まない。だったらどうして、幸せで幸せを生もうと思わないんですか。私は佳良を殺された憎しみや悲しみでどうにかなってしまいそうよ、だけどそれだと佳良が喜ばない。私は私が佳良を愛しているから、佳良の分まで笑って生きたい。その気持ちさえ、無くなってしまいそうな雨の夜の恐怖をあなたは知らない。私以外の誰もわからない。それでも無理なの。じっとしていられないの。あなたは卑怯よ、ただ現実に言い訳をして自分の気持ちから目をそらしているだけじゃない」
「紗綾」
人生を狂わせる引き金なんて簡単にひける。寿命だとか理想だとか願望だとか、誰かが名付けた感情や思想に従って、死は自ずとやってくる。
言いたいことを言った。悔いはない。
十和、瀧世、岩寿が名前を叫んでいる姿をどこか風景の一部のようにとらえながら、紗綾はそっと瞳を閉じた。
「キミは本当に世話がやけるね」
「ダリル」
「まだこの子の死がくるときじゃない」
巨大な鎌をもった黒い服の麗人が、紗綾に放たれた弾丸をパクリと吸収する。まるで漆黒の闇のように揺らめく死神の背中は、無色の瞳をもつ人間に向かって、炎のように揺らめく青紫の熱を向けていた。
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