第34話 8月12日AM(3)
「遊んでんと、はよ行くで」
違和感を覚えることしかない現象に戸惑いを感じながら、紗綾たちは岩寿に促されるように建物内へと進んでいく。
社内は驚くほど静かで、そしてとても綺麗だった。窓のない白い壁、等間隔についた照明、人のいない受付、エレベーターよりも階段を使ったのは無言の流れからだが、それで正解だったかもしれない。
「本当に狭いところが好きだよね」
ダリルの声が少し怖い。
緩やかな踊り場で器用に鎌を振り回しながら先頭を切り開いていく背中は、頼もしいようで、人間とは違う存在だと痛感する。彼は死神、それは紛れもない事実。ちん、と軽い音がしてあいたエレベーターに目をやると、白い化け物たちの重みで勢いよくエレベーターが落下していくのが目にうつった。
「こわっ」
どーんっと、地響きにも似た巨大な音がして、紗綾の背中に悪寒が走る。乗るつもりはなかったが、乗っていなくてよかったと心底思った。狭くて暗い場所、彼らはそこを好み、そしてそこで淫靡にふける。だが、一番怖いのは白濁の化け物に恐怖を感じず、そうして日常のものが破壊されることを怖がる感性のほうだった。
壊れているのかもしれない。
佳良と笑っていた昨年、同じような事態になっていればもっと違う反応をしていたかもしれない。当然や通常といった感覚も思考もなにもかも、あの日を境に、紗綾の普通は変わってしまった。
「うわ、なんやここ」
立ち入り禁止の文字を無視した岩寿が、その室内を覗きこんで叫んでいる。彼には怖いものがないのか、白い化け物を軽やかに避けながらどんどん姿を消していった。
「男には襲ってこんのわかってるから」
ひらひらと手を降ってあっけらかんと笑っているが、追い付いた紗綾の顔はふてくされる。
「あ、ええね。そういう顔も可愛いで」
「岩寿さん、ふざけないでください」
「はいはい、ほら。よそ見してたら襲われんで。紗綾ちゃん人気もんやねんから」
パシャッと軽いカメラの音とグシャッと鈍い音が交差する。
「ナイス、瀧世」
親指をたてて笑っているが、危機感というものが岩寿からは感じられない。それが少し意外で、この異世界のような現実世界で、何の違和感もなく適応している彼もまた不思議な存在だった。
どんな世界でも自分らしくあり続ける。簡単なようでいて難しい。じっと岩寿の顔を見つめていた紗綾は、ふと自分の入った室内に気が付いて息を呑んだ。
「ん、ああ。圧巻よな」
落ち着いた岩寿の声が示す通り、紗綾の視界には現実離れした世界が広がっている。
一言で言えば美しい。コポコポと可愛らしい空気の音の中に浮んでいるのは、真っ白の花園。見る者の心を一目で奪う、禁断の花畑が水槽一面に埋まっている。
「この花ってもしかして」
「キミも見たことがあるはずだよ」
鎌を煙に溶かしたダリルの声が真後ろか響いてくる。
「魔種から咲く花、ヴァージンローズ」
その瞬間に全身に走った悪寒をどう表現すればいいだろう。美しい姿のまま液体の中に浸かる花が無数の少女に見えたなど、恐怖以外の何物でもない。無人の棺桶に飾られる死者の花のように、誰かの命を糧にして咲き誇った魔界の植物が揺れている。その姿にゴクリとのどを鳴らしたのは、紗綾だけではなかった。それだけ異質な空間が、触れられるほど目の前に、さも当然のように鎮座している。
「こんなにいっぱい」
「ここでシュガープラムが作られていたことは間違いないようだね」
まるで数秒前まで人がいたような錯覚がより不気味さを引き立てていた。テーブルの上に無造作に置かれた白い粉、精製する機械なのか、映画館でみるようなポップコーンが入った機械のようなものの中に取り残された結晶たち。金平糖に似た星の形をして、天秤にかけられたそれらは、透明の袋に詰められて、どこかへ運ばれる予定だったのだろう。
「こんなに近くで作られていたんだな」
水槽に手を触れて花を覗き込む十和の横顔が妙に切ない。
「佳良」
あの日、佳良の身体で育った花は紗綾の目の前で枯れた。ヴァージンローズをみてあの日の光景がよみがえらないわけではない、それは十和も同じ。ここに来るまでの月日がどれほど巡ろうと、見知らぬ少女たちの遺骸を目にしてこようと、あの日の記憶は消えない。
「紗綾、生きような」
「十和」
「俺は、絶対負けたくない」
その決意を秘めた横顔に胸が鳴る。真っ直ぐな十和の視線に射抜かれた花たちもきっとそう思ったに違いない。コポコポと空気の泡に揺れるその音が、一瞬だけドクンと違う音を混ぜた気がした。
「にしても、変だな」
「え?」
突然、顔の向きを変えるように室内に視線を走らせた十和の動きにつられて、紗綾も室内を見渡す。関係者以外立ち入り禁止の文字がかけられていた研究室。たしかによく考えてみれば、肝心の研究員はおろか厳重な警備もされていない。
「逃げたか?」
「それはないと思うぞ。これだけのシュガープラム、大金置いて逃げるバカがいるかよ」
一粒何円の値が付いているのかは、正直予想できない。初めは安価もしくはタダ同然で手に入るように仕組まれているだろうが、長い目でみれば強大な資産になる。
「魔界の植物ってのは、それこそ金のなる木だろうに」
シュガープラムの入った透明のガラスケースをぽんぽんと叩きながら瀧世がつぶやく。それこそ生まれた時から周囲とは違う世界をみてきた瀧世にとって、いま、この状況はどう感じているのだろうか。翼心会の一員として、そこは紗綾にもわからない違った感情が渦を巻いているのかもしれない。
「ちっ」
聞こえてきたのは舌打ちだった。
「こんなに近くにあったのに、全然気づけなかった自分のバカさ加減に腹が立つ。紗綾、俺たちがこんな汚ねぇことばっかやってるなんて思うなよ」
そう言って瀧世は水槽を殴り付けてから部屋をあとにしていった。
「なんで紗綾ちゃんだけ名指しやねん」
あきれたように呟く岩寿も瀧世に続くように出ていく。ポンポンと頭の上にのった十和も無言で立ち去っていってしまった。
「ボクたちも行こうか」
「うん」
紗綾は差し伸べてくれたダリルの手をとって部屋を抜ける。何かを発散したあとのように、抜け出した先の廊下には、白い水溜まりが点々と残っていた。
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