第36話 Date:8月12日PM(1)

うだるような暑さは日が傾くにつれて熱を増し、都会に蜃気楼を引き起こす。現実と幻の境界線はいつも曖昧で、そこにあるものはなく、そこにないものがある。手を伸ばして触れようとしても、霞んだ虚像だけが指の間を音もなくすり抜けていく。

吟条徳人もどこかそんな雰囲気を纏っていた。

目の前にいるのに、どこにもいない。白い化け物が欲望の塊として具現化した人間なのであれば、吟条徳人は人間の入れ物にはいった化け物のよう。


「困るんだよね、人間風情が生者と死者の数を故意に狂わせてくれたりすると」


巨大な鎌を構えたダリルの声が一音下がる。


「キミの魂はボクが狩るよ」


そうして攻撃態勢に入ったダリルの代わりに十和が紗綾を抱きしめたその時、状況が一変する。豪快な地鳴りと振動。思わず十和と共に地面にしゃがみこんだ紗綾は、パラパラと天上から降ってくる細かい破片に困惑していた。


「じ、地震?」


心臓がいくらあっても足りない。ドキドキと早鐘を撃つ心拍を身体中に感じながら、紗綾は十和の温もりを感じていた。生きている。それが一番最初の認識。建物の倒壊はなく、窓ガラスも割れていない。巨大な揺れの正体を確認しようと誰もが停止した時間を過ごす中、その男だけが狂ったように踊り始めていた。


「この建物はじきに倒壊する。シュガープラムもヴァージンローズも何もかもが燃え尽きる。美しい葬送曲を奏でるこの音と共に、赤い炎が見せる優艶な世界を楽しもうではないか。なあ、きれいごとの中に守られた小娘」


吟条徳人。彼の右手は血で服が染まる瀧世の肩をうった拳銃が今も握りしめられているが、その逆、左手には何かのボタンのようなものが掴まれている。


「僕を狩ると言ったな。残念だが、魂を渡す死神は決まっている。渡す数はひとつではなっ、なにをする?」

「岩寿!?」

「死なせへん」


仕掛けていたのか、階下からの地響きと聞こえてくる爆発音。平行を保つのさえも難しい崩壊の中で、自らの人生に幕を閉じようとした吟条へ岩寿が飛び付いた。拳銃を奪おうと奮闘し、取っ組み合いのまま地面を転がるが、パラパラと細かい破片から、大きな破片へと落ちてくる大きさが変わっていく室内に、その姿はところどころしか見えない。

それでも、その緊迫した様子は手に取るように伝わっていた。


「ええか、人間誰かて罪の一つや二つ背負ってるんや。誰にも言われへん過去持ってるやつもおる。理不尽な環境でも負けたりせんと気張ってるやつもおる。誰かてな、自分が許せんくて、自分の存在価値を疑って、それでも必死に探して、信じて、歩いてるんや。死なせへんで。あんたには生きて償わなんとアカンもんがたくさん残ってるんや」


ズガァンと響く銃声。落ちる天井の音、外の暑さに相まってオーブンの中にいるような灼熱にもかかわらず、頬を冷たい汗が流れていく。


「ダリル、紗綾連れて早よ行け。こいつがここ破壊するっちゅーことは、本命は別におるってことやろ」


どうやら無事に拳銃をとりあげ、殴ることで気絶させることに成功したらしい岩寿の声が聞こえてくる。紗綾の肩がホッと緊張の息を吐くと同時に、視界の端で瀧世が笑った気がした。


「まったく、一人で無茶やってんじゃねぇよ」


肩を押さえながら瀧世が立ち上がる。また、どこかで不規則な爆発の音がして、建物がぐらりと揺らいだ。


「すぐに追いかける」

「十和?」

「ダリル、紗綾を頼む」


言うが早いか、十和が瀧世と示し会わせたように岩寿の方へと駆け出していた。追いかけている余裕はない。

爆発、火災、振動。何をとっても無事だという保証がない。三人の安否を確認したくても、もうもうと立ち込め始めた黒煙の熱に紗綾は口を押さえて地面に咳き込んでいた。


「行くよ」


ダリルの声が聞こえてくる。うなずくとか、反論するとか、追いかけるとか。色んな思考が渦巻いていたはずなのに、紗綾の記憶はそこでぷっつりと途切れていた。


* * * * *


遠くの方でサイレンの鳴り響く音が聞こえる。かすれたような不協和音が赤い光を空に照らして、微睡む意識の波をゆらゆらと揺り動かしている。


「紗綾、みて。すごくキレイ」


夏の夜空。

明滅する光の花が星と混ざり、パラパラと散ってはまた腹に響く低音が打ち上がる。


「来年もこの場所で一緒に見ようね」

「うん」

「お兄ちゃんと三人でも許す」

「え、どうしてそこで十和が出てくるのよ」

「来年は付き合ってる予定だから」

「十和、人混み苦手だから無理じゃない?」


光の共演が隣にいる懐かしい面影を照らしている。見慣れた横顔。柔らかな曲線を描くその唇は、春に贈った口紅の色が可愛らしく膨れていた。


「じゃ、まんざらでもないんだ」


ふいに振り返った真剣な表情にドキリと心音が花火に混ざる。下駄の音がカラリと響いて、大きな瞳が紗綾を覗きこむ。青や赤、紫に緑、様々な色がうつりこんだ瞳に、戸惑いながら目をそらした紗綾の顔がうつっていた。


「そういう佳良はどうなのよ」

「えへへ」

「なに、その意味深な笑い。ずるい」

「ずるくないし。ほらこの前、紗綾に告った人、覚えてる?」


覚えているかと聞かれても正直、誰を差しているのかわからない。


「紗綾を待っている間に、その男の子の友達と仲良くなったの」

「また仲良くなったの?」

「モテる幼馴染を持つとこっちとしても色々あるのだよ」


佳良の交友範囲の広さに脱帽する。初対面でも打ち解けて仲良くなれるのが佳良のいいところだが、一体この話を聞くのは何人目だろうか。登下校はもちろん、休み時間も、休みの日もほぼ一緒に行動しているはずなのに、紗綾と違って佳良の周囲にはいつも人がたくさん寄ってくる。それは佳良の才能であり魅力な部分。いくら紗綾でも佳良のすべてを把握しているわけではない。


「付き合うの?」

「別に好きとかそういうのじゃないけど、明日のことなんて誰にもわかんないじゃん」


そういって佳良は笑う。不規則な花火の音が数発響いて、また束の間の静寂が続いてから佳良の声が隣から聞こえてきた。


「紗綾は私が私じゃなくなっても、ずっと私を好きでいてくれる?」

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