第2話 Date:3月27日(1)

穏やかな春の日差しが窓から差し込んでくる。梅の花が終わり、薄紅色の花が咲く季節。世間は桜の開花宣言を待ち望み、陽気な春の太陽が顔を覗かせていた。こんな日は、決まって外に出て談笑を楽しみたくなる。けれどここに一人、自室にこもったまま窓すら開けようとしない少女がいた。

名前を桐谷紗綾。日焼けの知らない白い肌は簡素な服の間から細い二本の足を放り投げ、転がるベットの上に滑らかな黒髪を優雅に垂らしていた。


「あー、もう。忘れ物するとか最低」


バンッと前振りなく空いたドアに紗綾の肩がびくりと揺れる。小さな揺れは確かにわかりにくいものだったが、初めから紗綾の存在など視界に入っていないように、突如として現れた人物は目当てのものを探るため、部屋の中に侵入していた。


「あったあった」


嬉しそうな声。いや、楽しそうな声と表現した方が正しいだろうか。お気に入りのペンを手にしたその人物は短い髪を揺らして宝物でも見つけたような声を出していた。そして紗綾を視界にとらえるなり、冷たく下がった眼差しを向けてくる。


「あーあ、誰かさんが春休みに寮に居座るせいで、代わりにあたしが家に帰らなきゃいけなくなったとか最低なんですけど」


もう何度も聞いたセリフ。


「大体、あなたと相部屋とか本当最低」


私立箔銘女学院。中高一貫の私立学校は、そこそこのお金とそこそこの知能を持っていれば入れることのできる有名なお嬢様校。由緒正しいわけでもなく、飛びぬけてお金持ちでもない家柄の子が通うこの女子校は、優雅な広い校舎と品のある制服、大学への内定進学があることから女の子を持つ親なら是が非でもと望む人気の学校。


「篠田さん」


まるで鈴がなるように、抑揚のない静かな声で紗綾は相部屋になった少女に声を投げかける。


「なっなによ」


いつもなら無視を決め込む紗綾に、なのか、まともに声すら発したことがなかった紗綾の声に少し狼狽えたのか、引きつった顔でドアのとってを回す手を止めて篠田洋子は振り向いた。

好きで相部屋になったわけではない。

そう言われればお互い様だと叫んでドアを出ていくつもりだった。


「気をつけてね」

「ぶっ不気味なこと言わないでよ」


バタン。結局は荒々しく部屋を出て行った同級生の姿を紗綾は何の感情もうつさない瞳で見送る。ああ見えて、篠田洋子は真面目だから大丈夫だろう。そう思う反面、真面目だから大丈夫とは限らない現実を思い出して気落ちする。

この世はある日突然、悲劇が降り注いでくる地獄も同然。くじ引きに選ばれるように、昨日が大丈夫だからと言って今日も無事である保証はどこにもない。それを紗綾は誰よりも知っていた。


「佳良(から)」


呟いた声は仰向けに転がった少女を見下ろす天井に吸い込まれて消えていく。そのまま視界を覆うように両腕で目を隠した紗綾は、深く長い息をベットの上で吐き出した。白いシーツの中に埋もれていくような感覚。特別なことは何もない。まだ昼前の穏やかな気候が連れてくる眠気が、静かに紗綾を眠りに誘っていた──────



「紗綾、ねぇ、紗綾」


遊歩道に設けられた桜並木。お揃いの制服を着た少女たちは、対照的な雰囲気を携えて一緒に歩いていた。腰までの長い黒髪と線の細い体型の紗綾の隣。肩までのふわふわとした茶髪と少し背の低い巨乳の少女。


「最近、また胸が大きくなっちゃってさ」


お菓子のように甘い声で彼女は自分の胸をもみ上げていた。


「佳良、それは私に喧嘩売ってるの?」


紗綾は自分の視線が見下ろすたび、真っ直ぐにつま先をとらえるほどにはペタッとした胸を想像して横目でにらむ。睨んだ先は、たしかにうらやましいほどたわわに実った佳良の胸が躍っていた。


「お兄ちゃんにもバカにされるし、さすがにここまで育たなくてよくない?」

「十和(とわ)?」

「そうなの。今年から受験生でイライラするのもわかるけどさ、私だって好きで大きくなったんじゃないのに」

「贅沢な悩みにしか聞こえない」

「それはあの空気感を知らないからだよ。もう、腹立つ」


そう言いながら揉んでいた手を放した佳良の動きに合わせてまた胸が揺れる。入れたくはないのに視界に飛び込んでくるその胸の揺れに、紗綾は羨ましいような悲しいような、なんともいえない不公平を飲み込んだのを覚えている。


「胸はいいからさ、私は紗綾みたいに美人がよかった」

「佳良は充分可愛いよ」


少し見上げてくる佳良の大きな瞳に圧倒される。キラキラと星が内蔵されているのではないかと思えるほど、佳良の目はいつも紗綾を色のある世界へと連れて行ってくれるようだった。


「またそうやって私を甘やかす」


足を止めて佳良は紗綾の前に回り込み、その指先をビシッと紗綾に突き付けた。


「他校の男の子にさっきもラブレターもらってたし、今週だけで十二件。告白、手紙、言伝。いったいどこまでモテるつもり?」

「いやいや、大袈裟だって」

「大袈裟なものですか。紗綾は美人で有名なんだから自覚もってよね」

「自覚って言われても」


腰に手を当てて仁王立ちする佳良の胸がまた揺れる。


「私が男だったら佳良を選ぶよ」


流れる風が背中を押すように紗綾の声を佳良に届けていく。さあっと、軽い風の音は紗綾の声に合わせて春の気配を舞わせていた。


「お誕生日おめでとう」


ニコリと笑った紗綾は、口をあけたまま放心する佳良のもとに近づいてその唇に小さな箱を押し当てる。


「惚れた」

「は?」

「紗綾、好きすぎる」


ガバッと音が出るほど抱きついてきた佳良に、紗綾はバランスを崩して少しよろけた。胸の柔らかさは時として凶器になる。自分にはない脂肪という名の厚みの威力に困惑しながら、紗綾は涙を浮かべて喜ぶ佳良のあたまをよしよしと優しく撫でることに成功した。


「モテる紗綾に嫉妬して冷酷とか無慈悲とかいう女たちに教えてあげたい」


頬を上気させた佳良の口数は減らない。


「紗綾と幼馴染で私、すごく幸せだよ」


その笑顔を天使と表現せずに何と表現すればいいのだろう。可愛いと素直に思える存在が常に隣にある感覚がどれほど大きいものなのか、このときの紗綾はあまりよくわかっていなかったに違いない。


「はいはい」


苦笑で抱き着いてくる佳良をひきはがしながら、紗綾は春の風が吹く並木道の途中で早く箱を開けるように促していた。遠慮は知らない。びりびりと包装紙の叫びが桜吹雪に舞い、そして一本の口紅が現れる。


「化粧品会社の娘に贈るものじゃないけど」

「これ、雑誌で見たやつ!」

「佳良に似合うと思って」

「私も私に似合うと思ってたの」


そう言って目を合わせて笑い合う。「なにそれ」と返しながら、込み上げてくる笑いを抑えきれずに紗綾の笑い声は佳良の声と合わさって、春の空を流れていった。


* * * * *


何気ない日々。それは無意識の中で流れる日常。春が過ぎ、夏が過ぎ、幾度となく繰り返してきた日々の連続に、人々は麻痺した感覚で歩いている。明日も明後日も大丈夫だと、同じ日がまた来ると心のどこかで信じ切っている。保証などどこにもないのに、あぐらをかいて怠惰な時間を過ごしている。


「あー、夏休みが恋しい」


いつものように紗綾の隣には佳良の姿。桜の花が散り、緑を濃くする季節が終わり、今は枯れ葉になる準備を始めている。夏の終わり、秋の入口。正確には新学期を迎えたばかりのまだ暑い九月の始まりの頃だった。


「夏休みが楽しすぎてつらい」


窮屈そうな夏の制服を揺らしながら横でうなだれている佳良は、数日前、紗綾の部屋でくつろいでいたときにも同じことを言っていた。灼熱のように揺らぐ外気を無視するように、冷房のかかった室内で二人で過ごす。夏休みの宿題が机の上に積みあがっていたが、二人ともそれには手をつけずに、窓から見える雲をぼんやりと眺めていた。


「紗綾の家はいいな」

「どうして?」

「だって、お兄ちゃんばっかり溺愛するお母さんもいないし、ちょっと顔も頭もいいからってつけあがっているお兄ちゃんもいないし、浮気するお父さんもいないしさ」

「まあ、私のお父さんとお母さんは特殊だから」

「パイロットとキャビンアテンダントだもんね。今頃、どこかの国の空を飛んでいるんだろうな。美人でお嬢様とか、紗綾は恵まれすぎ」

「そういう佳良だって、社長令嬢じゃないの」


特別裕福なわけではないが、不自由もしたことがない。苦労という言葉とは無縁なことさえ、恵まれたものは気が付かない。生まれた時から隣同士。親が不在がちな紗綾の家は、佳良の避難場所でもあったのかもしれない。


「お兄ちゃんが跡を継いだら令嬢でもなんでもなくなるよ」


空を眺めることにあきたのか、佳良は机の上に置いてあった飲み物に手を伸ばす。汗をかいたグラスは佳良の胸にぽたりと水滴を落とし、代わりに佳良の口にはストローから冷えた飲み物が吸い込まれていった。

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