第8話 Date:4月10日(1)
新しい学年にあがっても、変化のない顔ぶれにどこかホッとしたのは秘密。あの事件以降、夜に出歩いている禁忌を侵しているからか、紗綾は学校生活の大半を保健室で過ごしている。誰も何も言わないのは、誰も何も言えないのと同義。世間は思うよりも狭いと感じるのは、事件の詳細を誰にも語っていないのに、すでに周知の事実になっていることでも知ることが出来た。
「桐谷さん、先生少し会議に言ってくるわね」
「はい」
すっかり保健室の常連になった紗綾は、新学年早々、馴染みの保険医が出ていくのを見送りながら白いシーツの上で寝返りを打つ。そして悲鳴を上げそうになったところをなんとか寸で抑えることに成功した。
「ちょっと、驚かさないでよ」
「驚いているのはこっちだよ、アリア・ルージュ」
超絶至近距離でふてくされた顔をした男は自称死神。本名をダリフォングラットといういうらしいが、長いので「ダリル」と呼称してくれと笑みを浮かべながら強要してきた。あの奇妙な出会いから三日。紗綾は人知れず「憑かれた」らしいこの死神との共同生活を否応なく余儀なくされていた。
「本当に今日も保健室で過ごすの?」
「私の勝手でしょう」
「せっかく限りある学生生活なんだから、教室で過ごしなよ」
「死神に言われたくない」
男に飢えた女子高生の輪の中に、いくら身なりが奇怪でも、整った顔立ちの男を放り込めばそれなりに波紋が広がる。加えて人当りのよさそうな笑みと声色を浮かべるダリルであれば、その波紋は一日にして学校中の格好のエサになるだろうことは容易に想像がついた。
しかし、残念ながらその現象は今のところ起こっていない。
「私にしか見えていないとかいまだに信じられない」
「正確にはボクが見せようとしているのがキミだけだって話だよ」
「その言葉はもっと信じられない」
どんなトリックを使えば人間離れした超常現象を引き起こせるのかは理解できない。むしろ、あまりのショックに人格分裂がおこったと思う方が紗綾には納得ができた。自分の中に胡散臭い笑顔で柔らかな声をもつ人格がいることは認めたくないが、それがもし本当にそうなのだとすれば、またひとつの人格に戻す方法を考えなくてはいけないことになる。
「十和になんて言おう」
はぁっと紗綾は保健室のベッドの上でうつぶせになりながら、その白い枕を抱きしめるようにして顔をうずめると、気の重たい溜息を深く吐き出した。
「十和ってアリア・ルージュの幼馴染の?」
「そう。っていうか、そのアリア・ルージュっていうのやめてくれない?」
「じゃあ、紗綾」
「死神に名前呼ばれるのは不吉すぎるからいや」
「キミはワガママだなあ」
どうも調子が狂う。どこがどうワガママに聞こえるのかと、紗綾はうずめていた枕から顔をあげてダリルを盗み見た。
保健室の窓際から差し込む春の陽光は、透けた光をあてるようにダリルを照らしている。死神は夜の印象が強かったのに、こうしてダリルを見ていると死神という名前の何か別の生物なのではないかと思えてくる。尊い、この世とあの世の境界線を生きる夢想の生物のような。
「痛い」
突然、紗綾に右頬をつままれたことに驚いたのか、ダリルは涙目を浮かべて疑問を口にする。
「ひどいなあ、キミはボクに何をするんだい?」
紗綾はそれには答えず、たしかに感触のあった自分の指先をまじまじと見つめていた。
この三日間。出逢ったあの夜から、紗綾の一歩後ろ、ほぼ隣にダリルはいる。ただ不思議なことにダリルの存在は他人の視界には写らないらしい。本当にどこでもついてくるダリルの存在は、その外見で色んな声が聞こえてきそうなのに、相部屋の口うるさい少女も担任の教師も先ほどの保険医も、紗綾以外にそこに誰も存在しないと信じているのか、ダリルのことを無視し続けている。
果たしてそれを無視と呼んでいいのか。
紗綾がダリルを死神ではなく、自分の幻覚がみせる障害ではないかと思う点が二つある。ひとつは、ダリルが何も飲まず、何も食べず、そして眠らないこと。
「死神には死神の食糧事情があるんだよ」
なんて朗らかに答えてくれたが、この三日、紗綾が監視しているうちは飲食の気配がない。
眠っているときはわからないが、寮や学校で不審な食糧泥棒の話も今のところ耳には入ってこない。
そしてふたつめ。
先ほどから陽光をあびているダリルに影が存在しない。そこだけが切り取られてしまったように、透明の板に描かれた立体とも表現できるダリルの存在を言葉に出来るだけの知識を紗綾はもっていない。影がないのだからもちろん、鏡にもうつらなかった。
それだけの要素を兼ね備えているのだから、死神などという曖昧な存在よりも自分だけに見える幻覚だと思ったほうが話は早い。佳良がいなくなって半年、まともに会話できるのは十和だけだった紗綾にとって、久しぶりに会話が出来る他人。死神だと本人は言いきっているが、紗綾はまだ完全には信じていなかった。
「そろそろボクが死神だって信じてくれた?」
「え?」
頬の痛みはもういいのか、ダリルはベッドにうつぶせになりながら自分の指を見つめていた紗綾に問いかける。
「すぐに信じられる方がどうかしているわよ」
紗綾は胡散臭い笑みを一括するようにふんっと枕にあごをのせた。同時に、ギシッと保健室のベッドがもう一人分の重量を伝えてくる。
「だから隣で寝ないでって言って・・・・」
「ほら、ボクはここに存在しているよ」
「・・・っ」
顔ですべてが許されるなら、この男は絶対に得をしているだろう。紗綾の手を勝手に奪って、つねられたばかりの右頬に添えながら、紗綾の隣でさも当然のように添い寝をする。
ぱあん。
軽い音が二人きりの保健室に響いた。
「本当ね」
怒りに身を任せた紗綾の手は、じんじんと鈍い痛みを放っていたが、はたかれた赤い頬を押さえてうずくまる死神の比ではないだろう。すっかりベッドを占拠してしまった死神に場所を譲るように、紗綾はベッドからおりて近くの椅子に腰かけた。
「私はダリルに触れられるし、ダリルも私に触れられる。感触はたしかに夢ではないってところは認めるわよ」
「だからってぶたなくてもよくない?」
「ぶたれるだけで済んだことに感謝してほしいわ」
「まあ、キミは催涙スプレーもスタンガンも常備しているからね」
「どちらも効かないくせに」
紗綾の白く長い脚が、椅子の上でするりと組み替えられるのに合わせて、長い黒髪がゆらりと流れる。
「黙って座っていれば、絵本の中から出てきた女王様みたいなのに、キミは性格で随分と損をしているね」
どの口がモノを言うのか。紗綾は占領したベッドの上で片肘をつき、どこぞの王子様のように優雅な雰囲気をまとって寝転ぶ男に冷めた視線を送るしかなかった。
「私の攻撃は効くのに、催涙スプレーもスタンガンも効かないっておかしいわよ」
「そういうものだよ」
「まあ、もうそんなことどうでもいいわ。で、あなたいつになったら消えてくれるの?」
足を組むだけでは飽き足らず、腕を組んで冷めた目でベッドの男を見下す。冷酷な瞳、落ち着いた声、鈴のように響かせながら拒否を許さない孤高の女。ダリルの表現ではないが、本当に女王様みたいだと、その場に第三者がいれば思ったかもしれない。昔から男にモテることで周囲の女子に嫉妬されてはきたが、誰も面と向かって紗綾に何も言えなかったのは、この態度がおそらく原因のひとつにあるのかもしれない。
ゾクリと嫌な冷気を放った紗綾の態度に、ダリルはごくりとのどを鳴らすかと思いきや、なんとキラキラと対抗するほどの笑顔で紗綾に言い放った。
「キミがこの件から手を引くと約束をしたらね」
見えない火花が見えるようだった。二人とも何も発さない時間がわずかに続いたのち、紗綾はその響く声で「いやよ」と繰り返した。
「いやよ、私は佳良を殺した犯人を見つけて復讐をするの」
「復讐なんて意味がないよ」
「あなたに何がわかるのよ」
「何も語らないキミのことをボクは何も知らない。だけどボクは死神であり、この件は非力な人間が首を突っ込んでいい問題じゃないということは知っている」
「非力じゃな、キャッ」
椅子から立ち上がった紗綾の身体が再びベッドに舞い戻る。何かに引き寄せられるように体の重力が勝手にそちらに向かったのだが、犯人は紗綾をベッドへと招き入れ、押し倒すように真上を陣取った死神に他ならない。
「非力だよ、こうしてただの男にだってキミはかなわない」
その状態が、あの日の記憶を連れてくる。
夏の終わり、秋の始まり、あの事件に遭遇する前に起こったもう一つの事件。
「い・・・や・・・」
見開いた瞳からボロボロと涙をこぼした紗綾の声が、かすれた空気を震わせる。その次に何が起こるのか、最悪にも瞬時に察したらしい死神が紗綾の両手を素早く頭上でたばねて抑え込み、片手を紗綾の口に押し当てた。
「んんーーーーー」
じたばたと叫ぶ紗綾の声は誰にもどこにも聞こえない。
いつも笑顔でとらえどころがないくせに、泣き叫ぶ姿を強制的に封じられた紗綾を見つめるダリルの瞳は、冷酷なまでに冷静だった。
「なるほど、キミ。男に襲われたのか」
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