第7話 Date:4月5日(3)
「さむっ」
ひんやりとした空気が、先ほどまでの道と世界が変わったことを教えてくれる。点在する住宅からはテレビの音声が漏れ、人混みに疲れた人たちが癒しを求めてやってくるだろうスナックやカラオケ喫茶からは笑い声がこぼれている。幼いころから知っている町。特にいつもと変わらない。
光が徐々に薄くなるように、繁華街から離れるほど闇は黒く濃さを増す。
「キャッ」
前方不注意だったと認めざるを得ない。歩きなれない夜道をきょろきょろと視線を彷徨わせながら歩いていた紗綾は、突然わき道から飛び出してきた人影に盛大にぶつかってしりもちをついた。
「いたた、すみません」
お尻をさすりながら立ち上がった紗綾は、ぶつかった相手をみて思わず顔をしかめた。ひどい臭いを放っている。まるで生ごみの詰まったバケツから出て来たばかりのような腐敗臭が、人間らしき形をした生物から放たれていた。
「うっ」
失礼だと知りながら、紗綾は手の甲で鼻と唇を押さえる。先ほど十和に無理矢理食べさせられたパフェが、ここにきて全部出てきそうなほど紗綾の胃袋がぐにぐにと動いている。
「あ、ちょっと」
気持ち悪さに紗綾が眩暈を起こしかけたとき、その謎な物体は紗綾を押しのけて走り去っていった。再度転倒した紗綾は、腐敗臭をまとうその人物が走り去っていった道路の痕跡をみて目を見開く。
「あ・・・」
白い斑点が点々と連なる光景は見覚えがある。記憶の中にこびりついた最悪への目印。
「まさか」
全身が震える。本当は走って腐敗臭の人影を追いかけていきたいのに、身体がそれを許さない。許さない代わりに、紗綾の目は暗がりの奥に隠された最悪を確認しようと早くなる鼓動をつれて意識を誘っていた。
「佳良」
無意識に死んだ幼馴染の名前が口をつく。
今日までに佳良以外の死体を目にしたことがないといえば嘘になる。つい先月も路地裏から飛び出してきた男が車にはねられるところを見たし、赤いハイヒールをはいた女が路地裏で強姦されて殺害されているのをみた。どれも決まって同じ。元は恋人か恋仲かわからないが、求めあうように人目を忍んで楽しんでいた成れの果てのようだった。けれど、これは違う。似ているようで非なるものだと、紗綾の本能が叫んでいる。
「っ」
バクバクと暴れる心臓に重なるように、口で呼吸をすることを忘れた鼻が何度も深い息を繰り返している。それでも紗綾は好奇心に駆られるように、その暗がりへと震える足を進ませることにした。
よろける。うまく真っ直ぐ歩けない。それでも何かを求めるようにその暗闇を進む紗綾は、か細く点灯する壊れた街灯の下にその異物を見つけた。
「佳良…っ…佳良っ!!」
ようやくひねり出した声と共に駆寄って初めて、紗綾はそれが佳良ではないことに気が付いた。自分と年が近いように見える若い少女。近くの公立高校の制服だと思われる服を着たその少女は塾の帰りだったのか、勉強道具が周囲に散らばっている。
そして紗綾が佳良と見間違えたもうひとつの要因。
「花が、咲いてる」
少女の身体から巨大な白い花が咲いていた。
それを手に触れようとした瞬間、花は急速に枯れはじめ、やがてすべてが枯れてしまう頃、ゴポリと嫌な音をたてて白濁にまみれた少女の膣から黒い種が生まれた。
「やっぱり夢じゃなかった」
その仕組みはいまいちよくわからない。若い少女の死体は彼女を含めて数件目だが、花を咲かせる死体を見たのは、佳良を含めて彼女だけだった。
「いったい、何がどうなって──」
理解が追い付かない超常現象に、紗綾の声が宙を舞う。
「うわ、なんだこれ」
「──ッ!?」
遊びの時間が終わったのか、紗綾が男とぶつかった路地の入口で複数の声が聞こえてくる。紗綾は急いでポケットから口紅を取り出すと、少女に誓いを立てるように肌の一部に赤い十字架を刻んだ。
* * * * *
人通りの多い繁華街を避け、学校近くの公園まで走ってきて初めて紗綾は自分が無心で走り続けていたことに気が付いた。足がもつれて転倒し、盛大に膝を擦りむいたところがたまたま公園だっただけの話だが、紗綾は襲ってきた吐き気に我慢できずに盛大に汚物を目の前の溝の中へとぶちまけた。
甘い胃液はパフェの残骸。
はぁ、はぁと唾液さえ飲み込むのを苦労するようにすべてを出し切った紗綾は、ふらふらと公園に設けられた水道で顔と口を洗う。冷たい水は気分を落ち着けてくれる。手を洗い、顔を洗い、口をゆすいで再度手を洗って顔をあげたところで、紗綾は声にならない悲鳴を叫んでいた。
「やっと会えたね」
ニコリとほほ笑む優男と面識はない。
大体、夜の公園で偶然会えたことを喜べるほどの人脈は紗綾には持ち合わせていなかった。年齢はそう離れていないように見えるが、まず格好からして普通とは程遠い。黒を基調とした衣装は銀色で模様が描かれ、鎖のようなものをジャラジャラと付けた重量のある格好は漫画の中でしか見たことがない。顔は俳優をやっているといわれてもうなずけるかもしれないが、どこからどうみても怪しさが拍車をかけて、紗綾の脳みそは彼を恐怖の対象物としてしか認識しようとしなかった。
「うわぁ」
かばんから取り出した催涙スプレーを紗綾は男に向かって容赦なく吹きかける。こういう時のために自己防衛グッズは常に持ち歩いているのだと、紗綾は胡散臭い目の前の男を撃退した手ごたえを感じていた。
「なっ」
驚いたのも無理はない。至近距離で何の前触れもなく男に向かって催涙スプレーを噴射したはずなのに、紗綾の目の前にいた男は、少し咳き込んだだけで何事もなかったように微笑みを携えている。
「ひどいなぁ、もう」
くすくすと笑う姿は異常を通り越して正常。
これが夜でなければ周囲の反応で何が正しいかの判断が付きそうなものだが、残念なことに桜のない夜の公園には誰もいない。皆、桜並木か繁華街に足を運び誰も寄り付かないからこそ、保たれている静寂がここにはある。
「キミがアリア・ルージュだね。初めまして、ボクは死神のダリフォングラット」
静寂がなんであれ、今は警察の力を借りたいと願わざるを得ない。
「死神?」
「そう、死神」
ショックの影響で変な幻影を見ているのかもしれない。そうでければこの現状を一体どう表現すればいいのだろうか。目の前に忽然と現れた変な美男子は催涙スプレーが噴射されたにも関わらず、けろっとした笑みを崩さず、変な衣装を肯定するかのようにさらりと死神を自称している。
「それ、信じる人いるんですか?」
紗綾は自称死神と名乗る男から距離をとるように体の重心を後ろにずらし、いつでも駆けだせるように体制を整える。
「警戒心むき出しだね」
可愛いなあと笑う平和そうな声に騙されたくはない。
「色んな告白をしてくる人には会ってきましたが、あなたのような変人は初めてです」と、紗綾は口から出そうになる言葉をあと一歩のところで食い留める。得体のしれない人物である以上、何が相手の逆鱗に触れるかはわからない。
「まあ、長い名前だからボクのことはダリルとでも呼んでよ」
ねっと、笑いかけられても答える言葉が見つからない。
さらりと質問を流されたことはこの際置いておくとしよう。今夜は色々ありすぎる。一度にこういうことが起こる日は、大体よくない結果になることは他でもない、紗綾が一番よく知っていた。
「警察呼びますよ」
日常の壊れる音が聞こえてくる気がする。昨日までとは違う、明らかな変革。今までの普通や当然が書き換えられてしまうほどの出来事。その境界線に立っているような不思議な錯覚に紗綾は戸惑いと恐怖を滲ませていく。
「警察は、困るかな」
ニコリと笑う笑顔もここまでくると恐怖をあおるだけの要素でしかない。
紗綾の指は携帯を握りしめていたが、その画面には「十和」の名前が浮かんでいた。警察を信じていない。でも、それは目の前で笑う男には知られていないこと。
「アリア・ルージュ、キミはこれが何か知りたくない?」
「それは」
男が指先でつまんで持ち上げるのは黒い種。一見するとアーモンドチョコレートのようだが、ここでそれを取り出すほど男はふざけていないだろう。実際、その黒い種は先ほど白濁の海で溺死した少女が生んだ現場で紗綾の目の前に転がったものと遜色ない。ぬめりを帯びた黒い種。紗綾は佳良の殺害現場である自室からこっそり隠し持ってきたその黒い種も、今、目の前で自称死神のダリルが持っているものとまったく同じものであることを確信していた。
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