黒石の魔女

ku

一章

プロローグ


 暗い微睡みの中で、ふと異変を感じた。


 痛いという感覚が意識に浮上する。だが死ぬほどの苦痛ではない。ぴりぴりと全身に刺激がある程度だ。

 心拍数が高い。

 目前に大きな危機を察知。

 無意識に目を見開く。

 黒く濡れる両目と黒い毛並み、鼻先に血の匂いを纏わせたソレが視認できた時には目の前で開いた口から牙が見えたところだった。

 反射で身体が動いた。

「…………」

 違う。

 自分は既に死んだはずだ。

 なぜ自由に手足を動かせる。

 意識する前から握り込んでいたものにべっとりと血が滴る。片膝立ちのまま振りかぶっていた右手を下げると、絶命した塊から暗い赤が広がるのを確認し避けるように立ち上がった。

 この状況は何だ。

 静か過ぎる。音がない。風が当たらない。湿った空気が四角い空間を満たすだけだ。ごつごつした岩がむき出しになっているような色合いの壁が、正確に正方形を型どっているように見える。六台分の駐車場くらいの広さだった。

 順番に見渡すと、狭い室内に一枚だけ扉が付いていた。

 その脇に呼吸を殺して立つ、知らない男がいる。

 ナイフを携えたまま呆然としていると、彼はぱちぱちと手を叩きだした。

「素晴らしい。眠っていた才能に目覚めたようですね」

 ……何を言い出すのだろうか。

 どうやらこの獣との死闘を観察していたらしい男は見た目だけなら自分と同じ背格好で使用人に見える。

 だがそれにしては、視線の位置に違和感を覚えた。彼が変なのか。それとも。

「汚れを落とさないのですか」

 ずっと黙っていたのを奇妙に思ったのか、男が問いかける。落とすも何も、水場の位置も分からないのだ。いやそれ以前に自分の現状把握に忙しい。

 それでも言われた通り酷い状態の気はしたので下を向く。本来白いはずの布地が赤黒く濁っていた。

「………」

 腕が、短い。

 呆然とそれを眺め、そして腹部の布を引っ張り上げる。所謂ワンピース型をしていた。

 揺れた裾から覗く靴先が幼児のように小さい。

 衝撃は言葉として出なかった。

「お疲れのようですね。では私が代わりに。失礼致します」

 そう横から聞こえてきた。そのすぐ後、ばしゃんと顔に水がかかった。

 思わずくぐもった声を発し目を閉じる。息をすると水が入ってしまう。

 どういうわけか。

 その水は、顔にかかった後、頭皮を濡らし、首を辿り、肩を撫でて身体を辿っていった。

 訳が分からず目を開く。すでに顔周りは乾いていた。

 腰の位置で濁った水が漂い、ゆっくりと下に進んでいく。通過した部分は汚れひとつ付いていなかった。

 夢を見ているのか。

 奇妙な水が床に落ち、地面に吸い込まれていく。じっと最後の一滴まで眺めていたが、声がかかって顔を上げた。

「綺麗になりましたね。ではこの時間は終了です」

 それを聞いてもぼうっとしている自分に流石に顔を真顔にさせた男が背中を押して扉の方へ促した。彼は、自分の目線より大分高い位置に顔がある。

 やけに大きな掌が背中を支えたまま扉を出る。薄暗い廊下が左右に伸びる中、正面に女性が一礼していた。

「お疲れ様です、お嬢様」

 その言葉にすぐには反応出来なかった。

 ただ突っ立っているだけの自分を不審に思ったのか、顔を上げ、こちらを覗き込んでくる。

「どこか、お怪我でも?」

 その言い方が、なぜか馴染み良い。

 妙だ。夢でも見ているのだろうか。夢? ああ、そうに違いない。

 何せ本当にお嬢様と呼ぶべき相手とは、つい先ほど別れを済ませたばかりだし……。

 何も言わない私の背後で、淡々とした低い声が彼女に向かう。

「どうやら精神的疲労のようです。部屋で休息を、ノルン」

 ……ノルン。

「かしこまりました」

 折り目正しく控えめに敬礼する彼女の名前が頭の中をぐるぐると回って再生される。

 ノルン、ノルン。何か、凄く聞き覚えのあるような。

 それに、何故だろう。この控えめな態度。声。

 どこか、馴染みが良いというか。

「では、参りましょう。お嬢様」

 違う、私ではないと伝えようとして、その差し出された掌に既視感が強まった。

「っあ?」

 ドクンと体の内側が跳ねたような感覚。

 それと同時に、息継ぐ間もない膨大な情景が、まるで走馬灯のように一瞬で脳裏に過ぎる。

「あ、くう」

「お嬢様!」

 こめかみをおさえてよろめいた自分を支える腕に掴まり転倒を防いだ。背後では男が肩を掴んで支えてくれている。

 鈍痛に視界がぐらついたが、それも一瞬だ。

 こちらの目線に合わせて膝を付いた彼女が、いつになく不安そうな気配を纏って様子を窺ってくる。

「セレナディアお嬢様……」

「っ、大丈夫です、ノルン」

 何でもないと、彼女の肩を押して姿勢を正す。

 さらに安心させるように小さく笑みを象ると、全身を満遍なく確かめた後ようやく解放してくれた。ただし、部屋に着いたら一刻は休むように指示を受ける。それに頷き、私は右手のものを差し出した。

「これを」

 最初から握っていたナイフだ。やや反りがあり、薄くとも丈夫な造りをした刃物に、ほとんど装飾のない木の柄がついている。鞘も何もないが、彼女は両手で受け止めた。

「お返しします、ノルン」

「かしこまりました、お嬢様」

 私は、その言葉にゆっくりと頷いた。

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