目覚める

「起きられましたか、お嬢様」

 そっと話しかけられ瞬きをすることで肯定する。

 天蓋が見え、額に乗せられた布に触れる。同じように小さな手が映っても今度は動揺しなかった。

 カーテンを分けて顔を覗かせた声の主はノルンだった。私付きの侍女で、日頃の世話を一手に引き受ける専属側仕えである。

 いまも水を張った盆を椅子に置き、濡れた布で顔や首周りを拭ってくれる。自分でできると言ったが、数瞬動きを止めただけでやらせてはくれなかった。

 仕方なく顔に出ないよう注意しながら身を預けた。魔法でさっさと済ませればいいのだが、形式もまた学びのうちに含まれるとのことらしい。

「ァ、けほっ」

 声を出そうとして喉が支えた。

 同時に差し出されたグラスが口元でゆっくり傾けられ、水が流れ込んでくる。苦しくないよう注意しつつ何度か飲まされ、ようやく生きた心地がした。寝すぎて喉が乾燥していたようだ。

「ありがとうございます」

「いえ」

 す、と一礼する仕草は無駄がなく洗練されていた。

 今まで見てきたどの使用人よりもレベルが高い。

「湯浴みをしたいです、ノルン」

「畏まりました」

 手早く世話を済ませて命令のために準備に向かった彼女の背中をじっと見つめた。記憶は正常だ。彼女を通して芋づる式に思い出すことができた。

 しかしその反動だろうか。部屋に戻り、言われるがまま休息しているうちに頭がぼんやりしてきたのだ。頭痛がし、顔も火照る。知恵熱のようなものを起こしてしまったらしい。

 結局、次の日も丸々休みを貰ってしまった。

 茹だるような熱が引き、頭痛が小さくなる毎に思考が落ち着いてくるような気がした。 

 まるで一人の肉体に二人の人間が住んでいるかのようだ。思考の擦り合わせは出来ても感情の整理はなかなか難しい。





 ひゃっ。

 小さな叫びと共に弾け飛んだ小柄な身体を確かめてよし、と思った瞬間に身体が衝撃を受ける。

 上下左右も分からなくなり、身体の感覚や頭が麻痺したように動かない状況から、クラクションが鳴り響く音だけがよく聞こえた。

 真っ暗闇の中、右頬に当たるかたい感触に瞼を持ち上げれば、灰黒色のアスファルトに自分の身体が転がっているようだった。

 雪は降っていないが真冬の路上だ、身体の熱がどんどん奪われていっている。

 自分の名前を呼ばれた気がした。首が動かず、きょろきょろと視線を彷徨わせると、数メートル先の歩道に寝転がった少女が大きく目を開けてこちらを凝視していた。前後の記憶が蘇る。

 外傷はなさそうだ。直ぐにでも予備の護衛が来るだろう。任務は恙無く遂行できた。

 心持ち満足気に状況を把握しながら、呆然とした顔のままの少女が手をついてぺたぺたとこちらに向かおうとするのを眺める。

 慌てなくて済んだのは、その後ろに立ちすくんでいた通行人が代わりに彼女を掴んで引き戻そうとするのが見えていたからだ。

 どちらにせよ、もうこの身体では何もできまい。





「お湯加減は如何ですか」

 パシャパシャとかけられながら身体を清められ、温いと思いつつも良いですよと頷いておいた。

 掌を開いて両手を見下ろす。

 まろやかな肌質と無駄な肉のない健康的な足腰。いつ見ても事実は変わらない。

 盥に張られた水面には、黒く長い髪を提げた、年端のいかない少女の姿がゆらゆらと映り込んでいた。

 二つの真っ黒な双眸がこちらを見返してくる。

「どうかなさいましたか」

「いえ、何でもありません」

 下手な笑みを作るとかえって不審に思わせるようなので淡々と返す。どうも、昨日からの不調続きで彼女の方も過敏になっているらしかった。

 肩に張り付く髪の毛をひと房つまみ上げて観察する。黒々と艶めいている。この髪と瞳の色が前と似ていたのがせめてもの救いだろうか。

「ともあれ無事に回復なされて安心致しました」

 そうは言うが、まるで心が篭っているようには聞こえない。口調が単一なのだ。

 まあ彼女はこういう役目を果たす存在なのを理解しているため気にはならない。

 しかし「私」は、随分と異質な環境に置かれていることを改めて実感せざるを得ない。

 それも何の因果か、お嬢様と呼ばれる立場にあるとは。

「お嬢様?」

「いえ、何でもございません」

 人から言われるこの呼び方にも今までになかった違和感が生まれたが、私の事を指しているのだと慣れるしかない。きっと蘇る記憶が鮮明過ぎて、混乱しているだけだろう。

 なぜ記憶が戻ったのかは分からないが、獣に襲われ、死の淵に立たされた事が影響したのかもしれない。

 何の疑問もなくすんなりと記憶を受け入れている状態を考えても、自身のものであったからと考えた方が妥当だ。それほど当時の感じたことまでリアルに思い出せたのだ。言うなれば「前世」というやつだろうか。

 そういえば使用人仲間の嘉島かしまがその手の書物を好んでいたなと思い出す。

 とくにSF小説が好きで平行世界がうんたら、時空跳躍がかんたら、と話をしていた気がする。どうでもよかったので適当な相槌しか返さなかったが、この生まれ変わりというのも嘉島が飛びつきそうな話だ。

 四十代のおっさんが突然のうら若き令嬢へ転生である。受け入れるまで精神的苦痛は続くに違いない。……突然、毛足の長い絨毯の上を転げ回りたい衝動が襲うのも表面上は抑えているのだから。

 そうして戸惑いはあるが疑問もなく「転生説」に納得しているのは、決定的な差異が、この世界に存在するためだった。

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