二章
外へ
白み始めた空の中を飛びながら、彼女は下方に広がる景色を眺めていた。
川のせせらぎの音が届く。
深い谷底を細く流れる水の様子も、早春ならではの彩り豊かな花々に囲まれているところなども、降り立って観光するにはうってつけだろう。
出来れば温かいお茶を飲みながら眺めていたいものだ。
……なぜこんなことをつらつらと考えていられるのかというと、一晩中空を移動し、片側の空が明るくなるまでの間、特にすることがなかったからだ。
屋敷の窓から放たれ、時折不規則に曲がりながら延々暗闇の中を移動していたのだ。数時間もしないうちに飽きた。
身体を拘束していた魔法は一時的だったようで、今残っているのは隠蔽と、移送、風の盾の三種。
身体は動かせるようになったが、かなり複雑に組み込まれた魔法を内側から下手に触ることは出来ない。
そんな訳で、手を出すことも出来ず、暇つぶしに景色を堪能して暇を潰していた。
彼女の施した魔法も、馬鹿のように魔力を込められているだけあり、衰える気配が一向に訪れない。最後にとんでもない仕事をしでかしてくれたものだ。
これが自分を逃すためだとは、今でもあまり信じられないが。
そんな事を考える余裕が生まれ、長いこと飛ばされているうちに景色に変化が訪れる。
緑の海のような森林が覆っていた地表が露わになり、ごつごつとした岩肌を晒す渓谷のような場所に来たらしい。
……否、待て。
「………ッ」
ドゴォン!
進行方向に細長い岩山が聳え、その先端数メートル部分に減速もせず突っ込む。
接触前に目を閉じたが、派手な音と、乱気流に進入した機内に似た揺れを感じるのみで痛みはなかった。
「…………」
そっと目を開ければ同じ速度を保つ自分と、振り向けば背が縮んだ岩山から落下する岩石たちが映る。
この調子で他の障害物も破壊して進み続けるのかと戦慄する。何に慄くかって、いかに彼女が全霊をかけてこの魔法を練り上げたのかが伝わってくるからだ。
多少の障害物で止まらぬよう威力も兼ね添えた魔法の長時間の維持。
距離が離れ、途中で供給もできないと分かっている故に高密度に積み込まれた魔力の塊。
それが無駄なく消費されるようかなり細部まで値を設定されたあの魔法式。
どれを取っても、完璧と言っていいほど完成された魔法である。
しかしあることに気付く。
障害物に当たる前と後で蓄積されていた魔力量が目に見えて小さくなったのだ。今までは一定量で減り続けていたのだが、衝撃を相殺するのに余分に魔力が必要らしい。
辺りを見渡す。この一帯が続く限り、岩山は数え切れないほど乱立している。あと何度か突撃をすると、もしかしたら魔力が尽きてこの辺りで落下するかもしれない。
森ならまだしもこんな何も無いところに落ちればたまったものではない。せめて人気があればいいが……そう考えて魔力探知を行うも、生体反応は数キロ先まで探しても見当たらない。
代わりに空を飛行する生体反応と、岩山などから散見される特有の魔力を有した生体反応なら引っかかった。人はいないが魔物はいる。最悪の状況だ。
「……っ」
最初の突撃から同じことを三度繰り返す。怪我はないと分かっていても風の盾が弱まる事を想定して腕を顔の前で交差してしまう。焼け石に水のような動作だが気持ちとしては大事だった。
通過するたびに大幅に減る魔力を見守りながら、自分の魔力を注ぎ込めないもどかしさを覚える。こういった緻密な魔法式に質の異なる魔力を注げば破裂しかねない。地上ではなく空中で試すには自殺行為が過ぎるだろう。
せめてこのエリアが終わってくれればまだ希望があるのではと見守っていると、ふと、先ほど伸ばしていた探知に大きく引っかかる存在が進行方向に現れた。
「……魂の大きさ?」
思わず口から漏れたのは存在値への推測。
その圧倒的な魔力量、威圧感、邪悪なようで清貧な気配を纏うそれは樹齢数百年を超えた大樹を彷彿とさせる雄大さを思わせた。
相反する気配を纏うなど、単純な器だけで主張できるものではない。長き時を生きた高位の魔物でもいるのだろうか。
ややもして、案の定、岩山の天辺にだらりとくつろぐ何かが見えてきた。
朝の日差しを浴び、近づく度に黒々とした輪郭がはっきりしてくる。
艶めく鱗、岩肌を沿う長い尾、鋭利な鉤爪。
背中にたたまれた一対の翼。
「あれは……」
目を眇める。
まさに、伝記で綴られていた竜そのものではないか。
その雄大な出で立ちをした竜は、こちらに気付いているのだろうか。首だけ持ち上げて顔を向けてくる。
確か竜は口からブレスを吐き出すはすだ。このまま敵と認識されればどうなるだろうか。
流石に本物の竜などと正面衝突してこの魔法が無事であるわけがない。
悩む暇がない。
一か八か、自身の魔力を叩きつけて魔法式を敢えて破裂させ、即座に魔法を上乗せして飛行を継続、方向を転換することを決める。
集中、集中、集中……。
どれだけ破壊の反動が来るか分からないのでできるだけ緻密に防御式を脳内に構築してから行動に移そうと姿勢を整える。
すう、と息を吸い込んだ時、それは直接脳に響いた。
《自滅する気か?》
戸惑っているようにも感じる深い声音。
突然響いた言葉に息を止めた。誰が、と素早く辺りを探るも新たな気配はない。見逃したのでなければ、近距離内には「ひとり」しか存在しない。
まさかと思い正面を凝視する。あの竜の頭は依然、こちらに向けられていた。
再度同じ声が響く。
《己で動けぬか》
同時に身体中を検分されているような嫌な気分が纏わり付いた。
これは思念波を直接対象にぶつける技だろうか。まさか人語を解するとは思わなかったが、言葉が通じるなら話は早い。
《自動的に飛ばされています》
いくら思念がほぼ一瞬で相手に伝わるとはいえ、高速でその相手に突っ込んでいるいま、悠長に状況を説明している暇はない。
おおよその現状を把握していそうな竜に端的に答えると、言葉にはならないが、呆れたような意識が飛んできた。
そして大きく翼を広げ、前足を立てて起き上がった。朝日が反射して鱗が煌めく。
《厄介な。失せよ》
漏れ出る覇気が遠くを飛ぶ魔物を怯えさせ近寄らせないのだろう。風の盾がなければ自分もただでは済まないかもしれない。それほどに強大な気配だった。
《いったいな、にを》
ぐん、と身体が別方向に引っ張られる。
竜の体を淡い光が覆う。あれは、魔法行使に伴う魔力漏れだ。その目の前に円状の魔法式が浮かび上がる。
突然、風に異質な魔力が注ぎ込まれ、破綻すると同時に新たな魔法が包み込む。それはあの竜から感じ取れるものと同じ気配を放っていた。
破裂もせず頑丈に造り直された魔法式が別方向に身体を吹っ飛ばした。一気に加速し、すぐに竜の姿は見えなくなっていく。
乱数値による方角変更など一切しない、ただ真っ直ぐ飛ばすだけの魔法。
単純な分、さらに余計な魔力を浪費せずに済む上、誤爆も少なく、他の魔法との同時展開が容易。単純で賢い魔法式だ。ノルンも凄いが、あの竜は実戦慣れしていそうである。
《助かります》
《……珍しい人間だの》
まだ届くかな、と思い発した言葉は無事通じたようだ。返事はまごついていたが。
それからどれくらい経過したか。ついに失速を始めた。
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