第30話 俗に言う不倫関係とかいうヤツ

「本を渡して降参せい、フェルミ」


 フェルミは息も絶え絶えに砲丸の雨あられを素手で弾き続けてていた。そうせざるを得ないのは、辺理爺さんがフェルミの演算子を出現させる暇も与えずに連射している為である。既に腕の骨のあちこちは折れ、激痛に顔を歪ませながら必死で弾を弾き続けている。フェルミの演算速度が遅れていたのは、さっきの岩平の顔面パンチのせいで脳にダメージが残っていた為でもあった。


「こちとら、砲丸ならまだまだあるぞい。補充ならさっき、体育館倉庫でくすね……借りてきたからな」


 辺理爺さんは悪魔のような笑みを浮かべながら、砲丸の連射を続ける。その発言には、岩平にとっても衝撃的な内容が含まれていた。


「って、その弾、そうやって補充してたんかいィィィィッ!!」


 弾の補充方法を知ってしまった岩平は、教師が学校の備品を私的利用してる事に騒然とするが、今は緊急事態だからと言ってなんとか自分をなだめる。 


「もうこの辺で良いじゃろう? もうその腕では、演算子も持てまい。これ以上続けると言うならば、今度こそ本当に殺すしかなくなるが?」


 ようやく連射を止めた爺さんはフェルミに最後の通告をする。もう既にフェルミの腕は完全に折れてしまっていて、誰の目にも勝敗は明らかだった。


「私は……、私は……私が愛する者の為にも、負けるワケにはいかないんだぁぁあああぁぁっ!!!」


「そうか、なら仕方あるまい……」


 捨て身の覚悟で突撃してくるフェルミに、爺さんは最後の審判を下そうとする。


 あわや、フェルミの脳天に向けて砲丸が放射されようとしていたちょうどその時、ある女性の声が響き渡った。


「もうやめて! どうかこの人は殺さないで!」


「なっ、波美くん!? 何故出て来た!? あれほど出てくるなと言っただろう!?」


 駆けて来た及川は両者の間へと踊り出て、互いの攻撃をストップさせる。その眼には涙が滲んでいて、化粧は崩れていた。


「先の襲撃は謝るわ。本だって全て差し出す。だからどうか、エンリコだけは殺さないで……。わたしはただ、エンリコと二人で静かに暮らしたいだけなの。それさえ叶えば、わたしは何もいらない。もう万物理論だっていらないわ」


 及川の突然の告白に、一瞬顔が引きつる岩平たち。及川のフェルミを見る目は、前から怪しいと感じていたが、ここまでデキていると思わなかった一同は、驚愕の表情を隠せない。中でも一番ドギマギしているのがリーゼルで、「え? え? 不倫!? これが俗に言う不倫関係ってやつなの!?」激しく呟いている。恋愛経験の無い天才少女とはいえ、やはり女の子はこの手のスキャンダルに弱いのだろう。むしろ、耐性が無いとも言える。


「やはり、及川くんじゃったか……。普段はいがみ合ってた仲とはいえ、同じ高校の教員や生徒同士で、こんな事態になってしまった事は、儂も残念に思っとるよ……」


 動揺する岩平やリーゼルをよそに、そのゴシップネタを全スルーした爺さんが続ける。


「儂だって、無闇に殺したくはない。お主が本当に二冊の本の所有権を譲渡し、フェルミも今後一切、真理論争には関わらずに無力化される事を誓うのなら、存命できるようにしようじゃないか。フェルミもこれらを了承できるかね?」


 爺さんがフェルミへと返事を促す。フェルミはしばらく悔しげに逡巡していたが、この圧倒的に不利な状況の上に及川が現れてしまったとあれば、諦めるしか他に道はなかった。ついに、野望を断念する事を決意したフェルミはゆっくりと頷く。


「ウ……、わかった、いいだろう……。やはり、私の勝手な戦いで波美くんの命を危険にさらす訳にはいかない……。要求通り、私はこの真理論争を降りる事にするよ……」


「ふえーん! エンリコーっ❤」


 フェルミの言葉を聞くなり泣き出した及川は、自身のポーチから二冊の物理学書を投げ出してフェルミへと抱き着く。投げ出された本は宙を舞い、岩平は慌ててそれらを受け止めた。


「フム、確かに二冊受け取った。じきにフェルミも、物理演算(シミュレート)を使えなくなる事じゃろう……」


 体育館の屋根から岩平の傍に、飛び降りて来た爺さんは、二冊の物理学書を確認する。岩平の手の中には、確かに赤と緑の熱力学書と統計力学書が握られていた。


「な、何よコレ? 平和的解決ってヤツ? アリなの? こんな方法ってアリなのぉっ!? てゆーか、今回のアタシの出番って……」


「さ、さぁ……? 俺に聞かれても……」


 一方で、一番落ち着きがないのが、蚊帳の外で置いてかれたリーゼルだった。さっきからチュッチュチュッチュしている及川たちに視線は釘づけになって、頬を赤らめながら憤慨している。


「でも、まぁ……、いいんじゃないか? 誰も悲しまずに済むのなら、これで……。それに、こうして無事に物理学書は手に入ったワケだし……」


 そう納得した岩平は、手にした物理学書をパラパラとめくって中身を眺めてみる。相変わらず岩平には意味不明だったが、これがリーゼルのとって大事なものだという事はもう分かっていた。


「……これでやっと、俺も言えるな……」


 ボソッと呟いたと思うと岩平は突然、リーゼルの方へと真剣な眼(まなこ)で向き合った。


「少し遅れたがリーゼル、誕生日おめでとう。プレゼントと言うには少し変だが、俺にはリーゼルが、本当に欲しいものっつったら、こんなものくらいしか思いつかなかった」


 そのプレゼントとは、今回の戦いで新たに手に入れた三冊目の『統計力学』の書だった。岩平には、リーゼルが本当に必要としてる物といったら物理学書くらいしか考えられなかったのである。だから今回岩平は爺さんに口止めしておいて、リーゼルにあまり頼らず、自分の成果で物理学書を手に入れたかったのだ。その考えには前回、熱力学書を盗られてしまったのは、罠にかかった自分のせいだと感じていた引け目も影響していた。その為に昨晩の岩平は一晩中、磁気感知法の修行に明け暮れていたのである。


「……フフッ、やっぱりがんぺーはおバカね。結局は、手に入れた物理学書を持ってなきゃいけないのは、物理学者(フィジシャン)じゃなくて演算者(オペレーター)だというのに……」


 リーゼルに優しい笑みでそう言われた岩平は、今さらハッと気付く。確かにリーゼルが持っていても戦闘の邪魔になるだけである。それに結局は、七冊の本を揃えなければ、リーゼルの宿願である万物理論は手に入らない。


「……でも、アタシの為に頑張ってくれてたのは嬉しかったわ……。ありがとう、がんぺー――――」


 岩平にもハッキリと聞こえたその言葉は、リーゼルが頬を火照らせながらも、今度こそ言えたありがとうの言葉だった―――――。

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