第18話 及川波美の際どい課外授業❤
「いててて、あんのクソジジイめ……。おかげですっかり日が暮れちまったじゃねーか……」
どうにか辺理爺さんから逃れて、及川との約束の場所である数学準備室に向かう岩平だったが、既に約束の7時を30分も過ぎてしまっていた。
結局、あんだけ腹パンを喰らったのに、熱力学の本を圧縮刻印する事は叶わず、岩平は押し付けられた物理学書を今も小脇に抱える羽目になってしまった。いずれ辺理爺さんが、持ち運びやすいポーチを作ってくれるとか言っていたが、いつになることやら……。
「及川のやつ、怒り狂ってなきゃいいけどな……」
一抹の不安を抱えながらも、ようやく4階南校舎奥の数学準備室を見つけて、戸に手をかける。
「おじゃましまーす……。って暗いし……、もうとっくに帰っちまったかなぁ……?」
戸を開けて中に入ってみるが、明かり一つついていない部屋は真っ暗だった。どこにも及川の姿は見当たらない。諦めて帰ろうとしたその時、背後のドアが突然バタンと閉まった。
「我妻くぅ~ん……」
「うわぁぁああああああぁぁあッ!?」
暗がりから突然現れてきたのは、あの及川だった。ドアの後ろに隠れていたのである。不覚にも悲鳴を上げてしまったのは、髪の長い女が一瞬、幽霊に見えてしまったとかそういう事ではない。断じて無い。
「先生何をっ? あだだ……っ!?」
何を思ったのか、及川はいきなり抱き付いてきて、岩平を押し倒す。
「もぉ~っ、遅いよ我妻くん……❤ 先生待ちくたびれちゃったんだからぁ~っ❤」
「え? え?」
「もぉ私、我慢できない……❤」
床の上で揉みくちゃになりながら、及川は興奮した息遣いになって、岩平の服の中へと手を這わせて胸板を触りだす。唐突すぎる展開に理解が追い付かず、岩平は上手く抵抗できない。相手は学内でもけっこうな評判を誇る、容姿端麗な美人教師なだけに、心のどこかで少し満更でもないと思ってしまったのだろう。
「実はずっと前から狙ってたのよね……、岩平くんのこと……❤」
「先生、ちょっ……待っ、ダメだって……」
「ああ、出来の悪い生徒が愛しくてたまらないわ……❤」
あわや、生徒と教師の一線を越えてしまうかと思われた直前、岩平の右手の方からガシャンという金属音が聴こえる。よく見ると、いつの間にか右手は重い机の脚へと手錠に繋がれていてしまっていた。とてもふりほどけそうにない。
「へ……!? こ、これはどういう!?」
一瞬、これはそういうプレイなのかという期待が頭をよぎるが、次の瞬間には、一気に現実に引き戻されることとなってしまった。
「あった! あなたの所有する『熱力学(サーモ)』の本!」
岩平が拘束されたのを確認した及川は突然スックと立ち上がり、部屋の電気を付けて、岩平がさっき落とした物理学書を冷静に拾い上げる。
「やったーっ! ついに奪ってやったわよエンリコ! もっと褒めて褒めて❤」
「ああ、よくやった波美くん」
よく見ると、及川は耳に無線機を付けていて、なにやら誰かと話しているようだ。いずれにしても、どう考えてもこの状況は、岩平がいっぱい喰わされたのは一目瞭然だった。
「ま、まさか……。及川先生って、演算者(オペレーター)の一人……?」
「うふふ、気付くの遅すぎぃ……❤」
驚愕の事実に開いた口が塞がらない。まさかこんな身近な所に敵がいたなんて……。迂闊だった。敵は学校の外から来るものと思いこんでいた。その思い込みは、既に学校近辺で二回も大暴れしたのに、誰も新たな敵が出て来なかったせいでもある。しかし結局、きっと一番迂闊だったのは、ノコノコと教室についてきたリーゼルだろう。判別方法はよく分からないが、きっとその時に正体が物理学者(フィジシャン)である事に気付いたに違いない。後でリーゼルには一言文句を言ってやりたいところだ。
「くっ……、どうして俺が演算者(オペレーター)だとわかった……?」
岩平がそう質問すると、及川は既に勝ちを確信した余裕からか、いつもの数学の授業みたいに長い説明をペラペラと喋りだす。
「ねぇ我妻くん、あなたは『エントロピー』って言葉を知ってる? この世のどんな物質も時の流れとともに、始まりから終わりへと崩壊してゆく。万物を混沌へと誘う力、それが『エントロピー』よ。けど、生命は一時的にでもその混沌に抗う事のできる唯一の存在なの。食物から小さなエントロピーを摂取し、より大きなエントロピーにして便として排出する事で、差額の『負のエントロピー』を生み出し、自己を保つ事が出来る」
岩平にはその話がどう関係あるのか、まだいまいち先が見えなかったが、黙って聞いていた。岩平にとってはここでなるべく時間を稼ぐのが重要だったからだ。
「そう、すなわち『負のエントロピー』とは私たちを駆動する生命力そのもの! それが演算者(オペレーター)の力の源である計算資源(リソース)の正体、『ネゲントロピー』よ。冥土の土産に、岩平くんでも分かるように見せてあげるわ」
そう言って及川は鞄から緑の本を取り出し、実演してみせる。すると緑の本が青色に輝きだすのがわかった。
「そ、その本はッ!? 『統計力学(スタティスティクス)』の書ッ!?」
「我妻くんってば、所有するネゲントロピーが大きいのはわかるけど……、だだ漏れなおかげで、簡単に演算者(オペレーター)だって事が判ったわよ❤」
及川波美は最後に小悪魔的な笑みを見せると、物理学書から方程式を展開させる。
「やってしまいなさい、エンリコ。式展開―――――――――フェルミ分布関数(ファンクション)!」
※※※
この数学準備室の窓から50メートル程先にあるマンションの屋上、そこでは一人の白衣の男がゴツい狙撃銃を携えて、構えていた。
「よく捕らえてくれた波美(なみ)くん。これで奴を確実に葬れる」
その巨大なコンパスのような、マゼンタ色の狙撃銃の名は、プルトニウム原子炉、『シカゴ・パイル13号』といい。中性子の中性子吸収材として巨大鉛筆芯の炭化ホウ素を、針部分である燃料棒の隣に配置した、紛れもない超小型『原子炉』である。
さらには、このコンパスは燃料棒の針を、釘打ち銃のように打ち出すという、凄まじい貫通力を持った恐ろしい演算子なのだ。誰かさんによってこの学校には静電ポテンシャルの結界が張られているみたいだが、そんなものこの銃の前には、薄膜一枚にい過ぎない。
流石に今は周りの学校を大破させる訳にはいかない為、未臨界で熱せられてないプルトニウム製燃料棒を針として打ち出すだけだが、これだけでも人間相手なら十分殺す威力がある。
「風向、北東より風速0.3M、目標までの距離52M。弾道計算計算完了! 方角、射出角ともに良し! 着弾点の誤差は0.5センチ以内。『フェルミ推定』、完了! ―――――――――シュート!!!」
※※※
「え……?」
ガラスの割れるような音を、校舎横の丘の上で散歩中に聞いてしまったリーゼルは、慌てて敷地内へと駆け戻り、音のした方へと向かう。
―音がしたのはしたのは南校舎の方だが、何か嫌な予感がする。
―まさか、がんぺー…………。
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