第19話 エンリコ・フェルミ

リーゼルがガラスの割れる音を聞きつける10分前、彼女は前にアルベルトと戦った丘の上にまた来ていた。


「微分演算子『∇』(ナブラ)!! おああああぁああっ!」


 幾度となく、助走をつけて飛行訓練を繰り返すリーゼル。だがやはり、左半身側のナブラだけは出現せず、リーゼルは草むらの斜面を滑り落ちるだけだった。


「くっ……、やっぱり左手がダメか……。くそっ、震えが止まらない。傷はもう完治しているハズなのに……」


 演算子とは物理演算(シミュレート)を行う為に必要な情報体の端末だ。全身が方程式で出来た物理学者(フィジシャン)は、その身体の一部から情報を射影して、演算子と呼ばれる固有の武器を出現させる。


 通常、演算子自体には重さは無く、使い手の計算力次第だが、一度に出す演算子の数に制限は無い。 


「……あとはアタシの精神の問題のハズなんだっ……」


 リーゼルは悔しげに左手の拳を握りしめると、再び立ち上がって服に付いた草の葉を払う。


 その時だった。彼女が南校舎のガラスが割れる音を聞いたのは――――




 ※※※




 数学準備室の中はガラスが飛散していた。何者かによって外から杭のような弾丸が岩平にめがけて撃ち込まれたからである。


 しかし、その弾は岩平には当たってはいなかった。何故ならば、岩平はとっくに手錠から逃れていたからである。


「そんなっ!? どうやって手錠から……!?」


「なめんなよ! こちとら、警察には散々お世話になった事があるんでね。手錠の開け方くらい熟知しているぜ!」


 そう言って、岩平はピッキングに使った針金を投げ捨てる。それは腕に巻いた鎖の一部を繋ぎ止める為に巻いていた針金だった。こういうところに針金を仕込んでおくと、いざという時に役に立つという事は、不良時代だった中学生の頃に学んでいたのである。


「うおおおおおおッ!!」


「キャッ!?」


 直観的に、すぐに二発目の危険性があると判断した岩平は、素早く及川へと襲いかかり、押し倒す。


「スマンが、及川先生には人質になってもらうぜ……。俺もまだ死ぬ訳にはいかないんでね……」


「い、いたい……。もっと優しく……!」


 一見すると、誤解されそうな声を出す及川を無視して、岩平は及川を持ち上げて背後へと回る。そのまま岩平は首を羽交い絞めにしながら、ジリジリと扉の方へと後退してドアノブへと手をかけた。


「くっ、早いとこ窓辺から離れねぇと……」


 一方で、岩平は少し妙にも感じていた。それは、この及川自体には殺気をあまり感じない点だった。さっき撃ち込まれた弾丸には殺気マンマンだったのに、彼女からは、いまいち本気の殺意を感じない。その気配は、今まで人と争った事の無いような素人同然の気配しか感じなかったのである。そもそも、最初からそうだ。本気で彼女自身が岩平を殺したいのならば、手錠で捕えた時に、喉でも掻き切ればいい話であって、わざわざ狙撃する必要は無い。だが、それをしないのは、彼女がどこか手を汚したがっていないのではないかという気がしていた。


 もし本当に、俺と同じ素人同然の彼女がこの戦いに巻き込まれただけというならば、まだ話し合う余地は残っているかもしれない。


「波美(なみ)くんから、その汚い手をどけたまえ。我妻岩平くん」


 突然、窓の方から男の声がした。振り返るとそこには、白衣の男が4階もある窓辺に足をかけて、侵入してきているのが見える。


「いいッ!?」


 次の瞬間には、岩平はタックルを喰らっていた。男が猛ダッシュで岩平に体当たりをして、扉ごと廊下へ吹っ飛ばし、及川を強引に奪い返そうとしてきたのだ。


「くっ、やべぇ、人質が……」


 それどころか、早くどこかに一旦隠れなければまた二発目の弾丸を撃たれてしまう。岩平はなんとか立ち上がって廊下を駆けようとするが、先程のタックルの衝撃でうまく走れない。


「逃げ回るが良い、小鹿(バンピ)ちゃんよ―――」


 岩平がようやく廊下の階段手前まで行ったところで、男は岩平へと照準を定め、無慈悲にも引き金を引いた。




「微分演算子『∇』(ナブラ)!!!」


「リーゼル!?」


 危うく弾丸が撃ち込まれる寸前に、階段から現れたリーゼルが右手の槍斧で杭を弾き飛ばす。 


「まさか、昼間の無礼女教師が演算者(オペレーター)だったなんてね……。怪しい白衣男と一緒に、学校施設で堂々と襲撃するなんていい度胸じゃない」


「すまないリーゼル……、本を一冊向こうに盗られた……。コイツの銃には気を付けてくれ」


 リーゼルは岩平の方をちらと見て無事を確かめると、槍斧を構えて白衣の男と及川に対峙する。


「……そのコンパス型の超小型原子炉……。ソイツを扱えた人間は世界で一人しか存在しないわ。そうでしょう? 原子核物理の第一人者、『エンリコ・フェルミ』よ――――」


「左様、ご覧の通り、私は緑の『統計力学(スタティスティクス)』書を所有する物理学者(フィジシャン)だよ。知っていてくれてたとは光栄だね。もっとも、私の方は君が誰なんだかさっぱり見当もつかないが……」


「聞き飽きたわね、そんな台詞―――――」


 そこまで言うと、リーゼルは問答無用でエンリコ・フェルミへと斬りかかる。名乗る気なんてさらさら無い、騎士道も武士道もへったくれもない、合理的な判断だった。敵に正体がバレない方が余計な情報を与える事も無い。そのまま、衝突した二人の剣先は、豪快な金属音を響かせた。


「ほう、型はめちゃくちゃだが、我流の剣筋はしっかりしている……。こんな面白い熱力学(サーモ)の物理学者(フィジシャン)がいたとはな……」


 フェルミはコンパスの長い針の部分を、銃剣のように振ってリーゼルの斬撃を次々にいなしていく。


「……生きる為には、割と何でもしてきたクチなんでね。温室育ちじゃなくて悪かったな……」


 リーゼルは内心、ほくそ笑んでいた。何故なら、さっきのフェルミの発言で、彼には致命的な誤解がある事が分かったからである。


 やはり、アタシを熱力学(サーモ)の者だと思い込んでいる……。


 だとしたら状況的に考えるに、岩平は持っている2冊の内、熱力学本の方を盗られた可能性が高い……。


「止まりなさい! リーゼルとかいう熱力学(サーモ)の物理学者(フィジシャン)よ! この熱力学本を押さえている限り、あなたは物理演算(シミュレート)が使えないハズ―――――」


 二人が激しく剣戟を交わし合う中、及川は出しゃばってリーゼルに揺さぶりをかけようとする。しかし、その行動はリーゼルにとっては待ち構えていたものだった。


 そら来た。予想通りの物理学書を盾にした脅しである。


 だが、アタシを支配する本は熱力学(サーモ)本ではなく、量子力学(クオンタム)本なので、その脅しは無効だ―――。


「シュレーディンガー方程式――――『物質波(マター・ウェーブ)』!!!!」


 及川の勝利宣言に一瞬油断したフェルミを、リーゼルは見逃さなかった。間髪入れずに、すぐさま特大の物質波(マター・ウェーブ)を放つ。


「きゃああああああっ!?」


「むうっ!?」


 しかし、フェルミはとっさに及川を抱きかかえ、廊下の窓ガラスを破って飛び出して、なんとか回避する。


 リーゼルはなるべく校舎を壊さないように指向性を絞ったつもりだったが、それでも物質波(マター・ウェーブ)は、廊下の外装を黒焦げにし、向かいの廊下の壁を突き抜けて上空まで飛翔していくという恐ろしい破壊力を見せる。


「大丈夫!? エンリコ!?」


「案ずるな波美くん、掠っただけだ」


 フェルミはそのまま中庭のテニスコート上へと着地するが、リーゼルもすかさず飛び降りて、斬撃落としの追撃をかます。


「くっ、おのれっ!」


 フェルミもすかさず及川をかばって、コンパス銃でその斬撃を受け止めるが、上空からの重い一撃の衝撃までは受けきれず、膝をついてしまう。衝撃は地面をメリこませて亀裂を走らせ、かなりの砂塵をテニスコートに舞わせた。


「……やるな少女よ……。この私をひざまづかせるとはな……。賢しい娘じゃないか、まさか、量子力学(クオンタム)の物理学者(フィジシャン)だったとはな……」


 リーゼルは一旦、フェルミから距離を取って着地し、槍斧を構えなおす。


「たかが少女だとか、油断するから痛い目に遭うのよ。原子炉大好き男さん」


 リーゼルは少し手応えを感じていた。あのアルベルトと戦った後のせいか、父親に比べると随分フェルミはまだ弱いような気がしたのだ。


「そうだな、謝ろう。もう加減はナシだ。あまり波美くんの職場を壊したくはなかったのだがな……。――――――『中性子吸収材』、解除―――」


 フェルミは立ち上がって銃剣を構えなおすと、コンパスを変形させる。それはちょうど、コンパスが大股を開いて一本の長い槍になったような形状をしていた。針と鉛筆が離れて、鉛筆側の方が持ち手になっている。


「ふんっ!!」


 フェルミは下段からリーゼルの側頭部めがけて、その槍を振るった。


 ―射程が伸びた……?


 ―だが、しょせんはそれだけだ。何も変わりは……。


 リーゼルは容易く受け止められるとみて、槍斧でガードに入る。だが、その判断がいけなかった。


「なあっ……!?」


 なんと、完全に受け止めたはずの槍先がリーゼルの槍斧を貫通して斬り裂いたのである。幸いにも斬撃は軌道がズれ、彼女の髪の毛をかすっただけだったが、斬り裂かれた槍斧は切り口から熱っせられてドロドロに溶けてしまい、もう役に立ちそうにはなかった。


「油断したのは君の方だったね。名も無き少女さん……♪」


 次の瞬間にはもう、避けられない角度で、第二撃がリーゼルに向かって放たれていた――――。






「ハァハァ……、待ってくれよリーゼル……」


 その頃、流石に四階からは飛び降りられない岩平は階段を駆け下りていた。急いで中庭へと出て、テニスコートへと向かう。


「なっ!? リーゼル!?」


 そこで、遠目に岩平が見たのは衝撃的な光景だった。リーゼルは槍の一振りを喰らって吹っ飛び、校舎の壁へと激突して血を吐いている。


「リーゼルぅ!!!」


 気付けば岩平は全速力で駆けだしていた。

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