第13話 メアリーの部屋

 リーゼルは朝早く目覚めた後、昨日アルベルトと戦った場所へと来ていた。その丘の上は、正門道の隣にあるちょっとした芝生の空き地だった。昨日の戦いの影響で、所々地面が抉れてしまっていたが、壊れた学校の塀の跡とかは、辺理爺さんの物理演算(シミュレート)によって直されているらしく、それほど大騒ぎにはなっていない様子だった。夜はそれどころではなくて気付かなかったが、ここは麓の山ノ手一番街を見下ろせる見晴らしのいい場所らしい。朝日に照らされた街が、淀んだリーゼルの心とは対照的に、美しく輝いていた。


「……今度こそ……!」


 そう言うとリーゼルは、思いっきり助走をつけて丘から駆け出したと思うと、ありったけの力で眼下の街へとジャンプする。


「微分演算子∇!!!!」


 だが、異変が起きたのはその瞬間だった。


「くっ……ダメだ! やっぱり左手のナブラが出ないっ……!!!!」


 昨日は出せた筈のリーゼルの左手の演算子や左側の翼が出現しないのである。右手側だけは普通に出せるが、片翼しかない彼女の姿はひどく不格好で、案の定、翔べもせずに斜面を転がり落ちていってしまう。


「きゃああああ!」


 そのまま逆さになって、斜面下までズリ落ちるリーゼル。あまりの出来事にショックで言葉を失い、これからどうすればいいかも分からなかった。そのままリーゼルは芝生に寝ころんだまま、仰向けで空を眺める。


「……何やってんだお前?」


 近くで岩平の声がしたと思って横を向くと、そこには一連の出来事を目撃していた岩平が怪訝な顔をして立っていた。そこで目が合ってしまった二人の間に、気まずい沈黙が流れてしまう。


「……斜面から滑り落ちる天才少女なんて初めて見たよ……」


 岩平は何かフォローを入れないとと思って慌てて言葉を探すが、そのせいでちょっとした皮肉にしか聞こえない言葉を口走ってしまう。


「悪かったわね。天才少女じゃなくて……」


 朝から恥ずかしいところを見られた彼女は、少し不機嫌な口調でムクリと上体を起こす。見ると身体にはたくさん擦れた草が付いていて、ちょっと青臭い香りがする。


「く……やはり、左手のナブラの力は父さんに奪われてしまっていたようだわ……」


 悔しげに自分の左手を見つめるリーゼル。左手は問題なく動くようだが、能力面の方では、まだ昨日の後遺症が残っているようだった。


「翔べないアタシなんて、アタシじゃない……」


 やがて、焦燥感に駆られ、不安げに立ち上がった彼女は、今後のことを考えてブツブツと独り言を言い出す。


「……どうすればいい? 機動力の大半を失った……。早くなんとかしないと……早く早く―――――」


 その様子を見てしばらく岩平は彼女になんて言葉をかければいいか考えあぐねていたが、やがて意を決して、半ば無理矢理彼女の手を取る。


「どーでもいいッ!」


「へ!?」


 リーゼルは面食らった顔をするが、岩平は構わず続ける。


「そんな事よりさ、遊びにでも行こうぜ! 鷹月の街を案内してやる!」


 そう言って岩平は強引に彼女を肩車させて、街の方へと駆け出した。


「ちょっ待っ、今そんな事してる場合じゃ……。うそぉおおおおおおおおおおおっ!?」






 やがて、街の繁華街へと着いた岩平は、何かリーゼルにちょうどいいものはないかと物色しだす。


「……ちょっと、いい加減子供扱いはやめなさいよねがんぺー……ぶっ殺すわよ……。たとえ今はこんな幼児体型でも、アタシは1902年生まれなんですからね……。一応、生前は20歳までは生きていた訳だし……。まぁ、何でこんな10歳の身体で物理演算(シミュレート)されてしまったのかは、アタシにも分からないけど……」


 意外とおとなしく肩車されてついて来たリーゼルだったが、そろそろ通行人の視線も痛いらしく、降ろす事を要求しだす。


「ハイハイ大先輩さん、じゃあ自分で歩いてついて来てくださいよ?」


 岩平から降りた彼女は、キョロキョロとあたりを見回しだす。岩平の思ったとおり、現代の街並みを探索するのは初めてらしい。


「今なら何でも好きなもん奢ってやるよ。俺のバイト代でな」


 何か適当なものはないかと探した岩平は、そのうち一軒のゲームセンターを見つける。


「お、こういうクレーンゲームはどうだ? 今時の子供はこういうゲーセンで遊ぶもんだぜ」


「ちょっと! 百年前の人間だからってバカにしないでよね! それぐらい知ってるわよ。クレーンを前後左右に操作して景品を獲得するゲーム機械の事でしょ? ちゃあんとアタシの脳には現代の知識だってインストールされているんだからね!」 


「じゃあ、やってみてくださいよ。大先生さん」


「フン、こんなのアタシの力学計算をもってすれば楽勝よ!」


 いとも簡単に煽られたリーゼルは、岩平から小銭を受け取ってクレーンゲームに挑戦しだす。


「ってアレ……? 何か違う……。もうちょい右よ、右! 何コレ!? 全然掴んでくれないじゃない! バカ!」


 案の定、上手くいかなかったリーゼルは、興奮して子供のようにゲーム機の前で文句を垂れる。


「何よコレ! 詐欺よ、欠陥品よ! 物理法則がおかしいじゃない! 全然思い通りに動いてくれないわ!」


 二回目のチャレンジも失敗し、ゲーム機に掴みかかろうとする彼女を見て、いい加減岩平は助け船を出す事にする。


「……ムキになるなって。こういうのは、理屈こねるより実践あるのみなんだよ」


 岩平はみごとな美しい手捌きでクレーンを動かし、彼女があんなに苦戦していた景品獲得をいとも容易く成し遂げてしまう。


 それは、かつて岩平が学校に行ってなかった時代に、ゲーセン通いで身に付けたスキルだった。呆気にとられているリーゼルに、岩平は獲得した景品を彼女に手渡す。


「ほれ、やるよ」


「え……? あ、ありがとう……」


 その景品はリーゼルが欲しかったインコのぬいぐるみだった。おかしな表情のデザインではあるが、その丸みを帯びたフォルムはとても愛らしく、フカフカで抱き心地も良さそうだった。


「お、あっちにアイスあるじゃん。食おうぜ」


 照れるリーゼルをよそに、次の興味へと移る岩平。彼はさっさとジャージー牛乳のソフトクリームを二つ買ってくると、一つを彼女へ渡す。


「甘い……、おいしい……」


 ソフトクリームというものを初めて食べたリーゼルは、その甘さと冷たさの味に感動する。この甘美な味は、あの頃のミュンヘンでは決して味わえない代物だった。


 二人でベンチに座ってひとしきりその味を堪能していたリーゼルだったが、その時、一瞬でも幸せだと思ってしまったが故に、次第に冷静になって自分の本来の使命を思い出す。


「……アタシら物理学者(フィジシャン)に気遣いは不要だぞ、がんぺー……。しょせん今のアタシは真理を求める為の仮初めの肉体にすぎない」


 どこか悲しげな顔をして言う彼女を横目に、岩平はつまらなさそうに訊き返す。


「リーゼルってさあ……、人生楽しい事あった?」


「……がんぺーには分からないだろうな……。『万物理論』という高みへの憧れに……」


「確かに、人生に目標は大切なものだ。それが無ければ行き先を迷っちまうよ。確かに、俺にだって『十年前の出来事の真相をつきとめる』という使命はある。でもだからって目標を達成するだけの機械になるのは違うだろ? 楽しみながら、うまいもん食って、寝て、遊べばいいのが人生じゃないか?」


 そう言いながら、岩平はなんとなく十年前のあの焦土を思い出していた。あの日、一瞬にして閃光が街を包み、周りの人たちは消し炭に変えられたあの光景を。


「どーせ、元から人間なんて、吹けば飛ぶような命だ。生きてる人間と死ぬ人間の違いなんて、爆発の角度が一度違うだけでしかない。人生なんて生きてる間だけの夢みたいなもんなんだよ」


 岩平には、なんで自分が今だに生きてるのか分からなかった。最初の爆発は両親のおかげで守られたのだと最近知ったが、あの死の惑星のような焦土を三日三晩彷徨い、その後は子供の身でたった一人で生きてきた。生活がマシになったのも、三年前に辺理爺さんに見つけられてからである。それまで、死ぬかと思うような事なんて、何度もあった。


 ―どうして故郷の街の人間は全員死んだのに、俺だけが生き残ったんだろう?


 そう考えた事は幾度となくあったが、その度に岩平は考えないようにした。何故なら、生き残ったおかげで、爺さんやうるさい仲間たちとも出会えて、今の日常を過ごせているからである。 


「だからよ、俺みたいにめいっぱい寄り道したらいい。二度目の人生楽しめばいいじゃないか」


 そう言って、岩平は穏やかな笑みをリーゼルに見せる。まさか岩平に諭されるとは思っていなかった彼女は、俯いてしばらく沈黙してしまう。


「……アタシには分からない……。アタシはこの目的だけを頼りに生きてきたから……」


 数分の沈黙の後に、彼女はゆっくりと口を開く。そこから吐露された本音は、リーゼルがこの世界に蘇ってきてから、なんとなく感じていた悩みだった。


「……『メアリーの部屋』という思考実験を知ってるか? 岩平……」


 リーゼルが例えで話しだしたのは、心に関する哲学の有名な難問だった。


「……『(1)白黒の部屋で生まれ育ったメアリーは、一度も《色》というものを見た事が無い。(2)メアリーは白黒の本やテレビで世界中の出来事を学んでいる。(3)メアリーは視覚の神経生理学者であり、光の波長の特性、脳の視神経系の仕組みや、人がどういう時に《赤い、青い》という言葉を使うのかも知っていて、視覚に関する物理的事実を全て知っている』。そして、これらの条件の上で、これから彼女がこの部屋から解放されたらどうなる? 生まれて初めて色を見たメアリーは何か新しい事を学ぶだろうか? ―――――という思考実験だ」


 岩平にとっては話の意味を半分も理解出来ていなかったが、リーゼルは構わず続ける。


「もちろん、アタシは物理学者だから、『唯物論』の立場を取る。この場合、メアリーが新しく学ぶ事は『何も無い』というのがアタシの答えだ」


 ハッキリとそう言い張るリーゼル。岩平は少し極端だと思ったが、彼女がそう言うんなら仕方ない。


「どうだい? 『万物理論』より、あらゆる現代の知識や歴史情報を新たに脳に与えられたアタシと、この思考実験のメアリーは似てるでしょう? アタシは世の中で起こる大抵の物理現象の仕組みを知ってしまっている。そう、だからアタシにとってこんな日常なんて無意味なのよ。アタシはもっと、宇宙の未解明現象を解き明かさなきゃいけないの。だからこそ、その為に真理論争に勝って、『万物理論』を手に入れる必要があるのよ」


 そこまで聞いて、岩平はやっとこの長い話の彼女の意図が理解できたように思われた。しかし、思考実験の方の問題は岩平には理解出来なかった。


 何故ならば、岩平には、『それのどこが『難問』なのかが《理解出来なかった》』からである。


「んー、そっか……。なら、しょーがねぇな……」


 岩平は確認の為に、立ち上がって空を見上げる。早いもので、こんな長話をしている間に日は傾き始めていた。


 ―よかった。ちょうどいい時間だ。


 ―今から行けば間に合う……。


「見せに行ってやるよ。本当の『色』ってやつを――――――」

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