第11話 捨て猫リーゼル
アタシはずっと一人で待ち続けていた。
生きる為なら何でもした。
盗みも詐欺でも強盗でも……。
何故かアタシは物心つく頃から読み書きも出来たし、ナブラの槍斧だって出現させる事が出来た。わずか二歳という年齢でミュンヘンの街に放り出されても生き残る事が出来たのは、その天性の能力のおかげでもあったのだろう。何だって欲しいものは力で手に入れたし、それが発覚しないように、お得意の悪知恵だって働かせた。アタシには生きる為にそうする以外に方法が無かったのだ。
そうして、どうにかして17まで生き抜いた1919年の春だった。いつものように、日課のゴミ箱漁りをしてると、捨てられた一枚の新聞の見出しが目に入った。
『アインシュタイン博士の快挙! エディントン日食観測隊が新理論の重力効果を実証!』
そこにある、アインシュタイン博士の写真を見た時、リーゼルには一目で分かった。この写真の主が自分のお父さんである事を。たとえ月日が経っていようとも、最後に見た父親の顔の面影は、彼女にとっては見紛う筈のないものだった。
「父さん……!? 物理学って一体……?」
それからアタシは足しげく、似合わない図書館に通いつめた。
こっそり、男装してミュンヘン大学にも忍び込んで、聴講生のフリをして物理学も学んだ。
父の業績が理解できれば、少しでも彼に近付ける気がしたのだ。
不思議な事に、アタシはそれらの難解な学問を難なく理解していった。複雑な数式でもスルスルと頭の中に入ってきたし、図書館の専門書はあっという間に読破して、微分演算子ナブラの扱い方や、物理演算(シミュレート)の事だって理解してしまった。それでも満足出来ずに、アタシは自分で論文までも書き始め、それを手紙にして教授のポストに投函し続けるようになった。その論文が認められたアタシは、学生でもない女子の身でありながら、教授たちに一目置かれる存在となる。そうしてやがて、教授の研究室に呼び出されたアタシは、彼と直接話をする事になった。
「この手紙を書いたのは本当に君かね? リーゼル君、私にはとても18歳の論文には見えんが……」
「ハイ! その通りです! ずっと教授の講義に憧れて書きました!」
「素晴らしい論文だ。着眼点もいい」
その教授はアルノルト・ゾンマーフェルトと呼ばれる老教授だった。当時としては珍しい、女子差別もしない人で、アタシが優秀と分かると、すぐさま自分の講義への出席も認めてくれた。彼は親切で面倒見のいい好々爺だった。
「いいだろう、これからは私の研究室の助手として働いてくれ。まぁ、学位は追い追い取ればいいさ」
「ありがとうございます!!!!」
そうして、このゾンマーフェルト教授はアタシの恩師となった。無職だったアタシに仕事を与えてくれ、周囲の反対を押し切って奨学金にも推薦してくれて、大学へ入学させてくれた。
それはアタシにとって、生まれて初めての充実した毎日だった。助手の仕事は少し大変だけど、好きな事を好きなだけ勉強出来る毎日。ほんの少し前まで、路上生活をしていたアタシがこんな暮らしを出来るようになるとは、夢にも思わなかった事である。
そんな慌ただしい暮らしも少し落ち着いてきた頃、アタシはそれとなく教授からアインシュタイン博士の住所を聞き出し、ようやく念願の父親へ会いに行ける事になったのだった。
「あった……、あの家だ……」
旅費をためて汽車に乗ったアタシはやっとスイスのベルンへと到着し、メモ先の住所へとたどり着く。
心臓は爆発しそうだった。
だって、もうすぐそこに夢に見続けた父親がいるのだから……。
我慢のできなくなったアタシは窓によじ登って、こっそりと中を覗く。
「いた……! あの人がアタシのお母さん……!?」
そこに見えたのは一人の女性だった。結婚して十八年は経っているだろうにもかかわらず、その美貌と知性を感じさせる瞳は失われていなかった。しかし、アタシは次の瞬間、アタシにとって衝撃の光景を目の当たりにしてしまう。
「え……、子供……?」
その女性の傍に寄って来たのは、二人の男の子だった。一人は長男のようで、歳は中学生くらい。もう一人の弟は小学生くらいに見える。
そりゃ、18年も経てば新しい子供だって出来るだろう。頭ではそれを理解していても、感情がその事実を受け入れられなかった。
母はアタシの事なんてとっくに忘れて、新しい子供を作っていたのである。
アタシが一人、寒空の下で飢えに苦しみ、日々の糧を得るのに精一杯だったのに、あそこにいる二人の子供は、親の愛情を受けてぬくぬくと育っている。
その事実を考えるだけで、アタシの中に声にならない感情が湧き上がってくるのだった。
「う……、あ……」
アタシが動揺して動けずにいたその時、向こうの玄関の方の扉が開く音がした。
「あれは……!? 父さん!?」
出て来た人物の姿を見ると、それは一度たりとも忘れた事の無い、父さん本人そのものだった。顔は新聞の写真そのままである。
「どこへ行くんだろう……」
幸か不幸か、窓の傍にいるアタシには気付かずに出掛けていくので、アタシは尾行して様子を見る事にした。さっきのショックもあって、まだ直接話す心の準備が出来ていない。
しばらく尾けると、父さんが喫茶店へと入っていくのが見えた。テラスのテーブルの席へと座り、コーヒーを注文している。
「え……、女の人?」
そこに突然、謎の若い女性が現れて、父さんの向かいの席に座るのが見えた。その若い女性は綺麗なレースの帽子をかぶった可愛らしい人で、どうやら元から父さんと待ち合わせしていた人らしかった。親しげに父さんと話し込んでいる。
やがて、二人はコーヒーを飲み終えると、一緒に店を出てまたどこかへ向かうのが見えたので、アタシは慌てて後を追う。
しかし、そこで目撃したのは、さらにもっとひどい衝撃的な光景だった。
「あれは……、ホテル……!?」
そこで見たのは、父さんと若い女性が一緒にホテルへ入ってゆく場面だった。いくら世間知らずとはいえ、もう18にもなれば、男女が昼間からホテルへ入っていく行為の意味くらいは分かる。
そう――――、父さんはもう妻や子にも興味を失くしていたのだ。
「う……あ……、あああああああああああッ!!!!!!」
現実を突き付けられたアタシは耐え切れなくなって、訳もわからず、声にならない泣き声をあげながら、その場から駆け出す。
ようやく落ち着きを取り戻しだしたのは、路地裏で吐いた後だった。
「うっ、ううっ……」
泣くのにも疲れてきたアタシの中に、何かフツフツと決意と野望らしきものが沸き上がってくるのを感じたアタシは、口を拭いながら、顔を上げて立ち上がる。
「こんなんじゃ全然ダメだ……。助手職になったくらいじゃ、きっと父さんは振り向かない……。もっともっと、どでかい業績を上げて……、それこそ、『万物理論』に迫るような新理論を作って……、必ずアタシは父さんを振り返らせてみせるっ……!!!!」
その日から、アタシの猛研究は始まった。
昼は教授の手伝い。夜は自分の研究。
寝る間も惜しんで計算を続けた。
やがて教授を通じて、ボーア、ラザフォード、ボルン、ヨルダン、ハイゼンベルグ、パウリ、シュレーディンガー等の錚々たる物理学者たちとも『論争』を交わし、アタシの存在は業界の一部にも知られるようになっていくのだった……。
※※※
アルベルトが彼女の存在に気付いたのは、いつもの通り研究室でモーニングコーヒーを嗜みながら、新聞を読んでいた時だった。
『ミュンヘン大学が、初の女性学位取得を認める!』
そういう見出しで書かれた小さな記事だったが、アルベルトは見逃さなかった。
「ま、まさか……、この娘は……!?」
そこに載っていた顔写真は紛れもなく、自分が16年前にミュンヘンで置き去りにしてきた娘リーゼルだった。年月を経て大きく成長していても、その顔の面影はハッキリと残っている。
「……やはり、君は……」
ようやく、ある決意をしたアルベルトは仕事を一旦中断して、自分の研究室を後にする。彼が向かったのは、ミュンヘン大学の方だった。
※※※
その頃、リーゼルは居候している教授夫婦家の自室で、提出する論文の最後の詰めを行っていた。
「やっと出来た……、学位論文『重力場の量子論と流体力学の関連性』。きっと、この論文を見れば、みんな統一場理論の重要性に気が付くハズ……」
リーゼルが満足してペンを置くと、ちょうどその時、家の玄関扉がノックされる音が聴こえた。
「っと、あれ……? こんな時間に誰かしら……?」
今日は朝から教授夫婦たちは旅行で出かけているので、彼女はずっと一人で留守番をしていたのである。たまの夫婦水いらずの旅行を邪魔しちゃ悪いと思ってのことだった。
「ハイハイ、ただ今……」
リーゼルはスタスタと歩いて扉を開けに行く。だが、その来訪人物の顔を見た途端に、驚きの表情へと変わった。
「えっ……。とう……さん!?」
そこに立っていたのは、どこか悲しげな顔をしたアルベルトだった。背後からは月明りがまるで後光のように射し込んで、暗い室内を照らしている。
「……どうして君は辿り着いてしまうんだい? リーゼル……」
その言葉を聞いた時、リーゼルは徐々に歓喜で満たされていくのを感じた。やっと、父親がリーゼルの存在を認知して迎えに来てくれたのだと思ったからだ。
やった……ッ!
ついに父さんがアタシのことを……
だが、その期待は次の瞬間には裏切られる事となった。
何故なら、リーゼルが下を向いた時にはもう、アルベルトの光線弓が彼女の脇腹を貫いていたからである。
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