第10話 箱の中のリーゼル
冬の凍てつくようなミュンヘンの夜空の下、気付けばアタシはゴミ溜めの中にいた。
自分の本当の家も帰り方も忘れて……、アタシはただ毎日、野良猫のようにゴミ箱を漁っては糧を得る日々だった。
憶えているのは、最後のあの箱の中で、アタシに上着をかけてくれた父さんの顔だけだった。
いつかきっと迎えに来てくれるのだと信じていた。
ずっと信じて待っていた――――――――。
「ずっとずっと信じてたのに……。なんでよ……! どうしてなのよぉーッ!!!!」
夜の鷹月の街にリーゼルの悲痛な声が響く。それは生前、話す事すら叶わなかった嘆きだった。
「……未練がましい娘だな。死んで万物理論の一部となった後もまだその服を着ているというのか……。もう僕は妻や子には何ら興味が無いというのに……」
アルベルトは面白くもなさそうに吐き捨てる。彼の言う通り、リーゼルがいつも羽織っているブカブカの上着は、彼がいつも愛用しているトレンチコートと同じものだった。彼女は今だに、最後に彼がくれたこの服を着続けているのである。
「君が何を言おうと、僕は何度だって君を殺してあげる。永久に眠りな……」
アルベルトは容赦なく、リーゼルへと光線弓の剣を振り降ろす。斬られると思ったリーゼルだったが、その軌跡は何者かによって間一髪のところで止められた。
「お前それでも父親か……!? 父親が自分の娘に対して、この世にいちゃいけない存在だなんて言っていいと思ってンのか……?」
「が、岩平(がんぺー)っ!?」
光の弓を止めたのは岩平だった。両手にグルグルと鎖を巻き、左手首の鎖で剣を受け止めている。相手は光線弓なのに、その鎖は斬れてはいなかった。それは、怒りの岩平が無意識に発動させた、電磁気学の物理演算(シミュレート)のおかげであった。
「オメ―みてぇなクズ野郎はよォ……。一発ブン殴ってやんなきゃ、気が済まねェ!!!!」
刃を弾いた岩平は、アルベルトとの距離を一気に詰めて、右手の拳で殴りかかる。
「なるほどね、筋はいい。鎖を使った電磁シールドか……」
次々と繰り出される岩平の拳の鎖を、アルベルトは眉一つ動かさずに剣で弾いていく。
「だが……これで、『詰み』だな……」
次の拳を彼は右手の剣で受け止める姿勢に入る。その隙に彼は左手のボーガンの照準を岩平の額に合わせた。
しかし、岩平が撃ち抜かれるかと思われた瞬間、岩平の拳からは不可解な現象が巻き起こった。
「うおおおおおおおッ!!!!!」
「がっ……!?」
完全に受け止めて防御した筈の、岩平の右の拳から謎の衝撃波が伝わってきたのである。不意を突かれたアルベルトはそれをまともに顔面へ喰らってしまい、後方へと吹っ飛んで学校の塀へと激突した。
―何だ!?
―何が起きた!?
―拳はおろか、電磁気力でさえも打ち消すように、完璧にガードしたハズなのにっ……!!!!!!
―いや……、あれはただの電磁気力じゃない……!? もっと上位概念の何か……。
「ならば―――――」
土煙を払い、再び立ち上がったアルベルトは、右手の光線弓を掲げる。その剣の光は増大し、七色に輝きだすのが見えた。再びあの『放・射・光』(シンクロトロン・ラジエーション)を放とうとしていたのだ。
「物理・数学演算(マス・シミュレート)!!!―――『斜方投射の式』!!!!!」
y=tanθx‐(g/2v^2cos^2θ)x^2
「なっ!?」
しかし、次に声がしたのはアルベルトではなく、思いもよらぬ方向だった。いきなり一つの砲丸が飛んできて彼の剣へと当たり、弾き飛ばす。突然の加勢攻撃に、アルベルトは面食らってしまう。
「よぉく見とけよ岩平……」
「なっ……ジジイ!?」
それは辺理爺さんの声だった。後方のリーゼルを見ると、彼女の隣に爺さんが立ち、周囲には無数の数式とともに数十個の砲丸が浮遊している。
「この宇宙は、数式で出来ておる。それら計算式をハッキングし、コードの一部を書き換えて物理現象を再現する―――――――それが、『物理演算(シミュレート)』だ!!!!」
爺さんがそう言い終えた時、爺さんの周りの砲丸が一斉にアルベルトめがけて発射される。砲丸は次々に大地や塀に着弾して大きな土煙を上げた。
「ほうほうコイツぁ……。まさか、これでも無傷とはのぅ……。儂の心の方が傷つくわい」
やがて、土煙の中から現れたのは、平気な顔をしたアルベルトだった。あれだけの集中砲火にもかかわらず、彼はその弾丸の全てを捌ききったのである。
「ワラワラと味方が増えて来ちゃって……。おまけに野次馬も集まってきたようだ……」
彼の言う通り、だんだんとサイレンの音が近づいてきているのが聞こえた。この戦闘の音に気付いた近隣住民の誰かが通報でもしたのだろう。このままでは一般人が集まってくるのも時間の問題だった。
「仕方ない、今夜はここらで退散しといてあげよう。僕も騒がしいのは嫌いだしね」
さっきまで好戦的だったアルベルトとはうって変わり、急に興味を失くしたかのように、彼は背を向ける。
「どうせもう、その娘は翔べやしないだろうしな。君たちも早くそのリーゼルからは離れた方がいい」
アルベルトは視線をチラッとリーゼルへと向ける。彼女は既に憔悴して意識を失っていた。呼吸も苦しそうである。
「でなければ、その娘は必ず災厄と破滅をもたらす。いずれ、後悔する事になるよ……」
捨て台詞だけを残して、アルベルトはまた光速でどこかへ旅立っていった。
「ふう……、ひとまず脅威は去ったか……」
辺理爺さんが安堵の息を吐く。もう襲ってくる気配が無いのを確認した岩平は、急いで倒れたリーゼルの傍へと駆け寄る。
「おい、ヤベぇぞジジイ! 血が止まらねぇ!」
血だまりの中に沈む彼女を見て、岩平はどうすればいいか分からず慌てふためく。
「いいから、お主は切断された左手を持って来い」
それを制して、爺さんは冷静に動き、自分の袖を引き裂いて止血帯にし、リーゼルの治療へとあたる。
岩平は慌てながらも、彼女の左手を探して持ってくる。なかなかグロテスクな光景だが、緊急時なのでそうも言ってられなかった。
「おかしい……、物理学者(フィジシャン)はそう簡単に死ぬハズないのに……。やはり、精神的ショックの方がでかいのか……?」
辺理爺さんは何やら複雑な数式を多重展開し、持ってきた左手と彼女を繋げようとしてるみたいだったが、けっこう難航している様子だった。
「クソ……、血が足りない……。何より、自らの血を媒介とするこの娘の術式は、力を使い過ぎた……」
爺さんは苦虫を噛み潰したような顔で歯噛みをする。
「ならジジイ、俺の血を使え!」
「な!? いいのか!? 確かにお主はO型じゃから問題は無いかもしれんが……」
「この娘は俺の脳の計算資源(リソース)とやらで存在しているんだろう?
だったら、俺の血が一番合うハズだ!」
「分かった……。じゃあそれで、儂は彼女の中の方程式の修復を開始する! お主は傷口にお主の血を垂らせ!」
岩平は爺さんからナイフを受け取り、自分の左手首へと押し当てて、リーゼルの傷口へと血液を垂らす。
「死ぬんじゃねぇぞ……。リーゼル……」
そこへ爺さんは難解な数式を展開して、彼女の傷口へと血液へと吸収させていった。
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