第26話 ようこそ技術部へ
「くそう! これじゃダメだっ……!」
及川家のマンションに、またフェルミの悔しげな声が響く。すでに実験は5回目を迎えていた。フェルミは再び、たくさんの数式が書かれた床へと、手をかざす。そこには、チョークでたくさんの熱力学方程式が、ありったけ書き連ねてあった。その上には熱力学(サーモ)の本が置いてある。
「もっと、ネゲントロピー込めて! 波美くん!」
「はっ……、ハイ!」
及川は言われた通りに、手に統計力学(スタティスティクス)の書を持って、計算資源をフェルミへと送る。すると、熱力学の本からは、青白い放電がほと走る。
「くっ……」
閃光は途中で弾けて、辺りには白い蒸気が舞う。それは、さっきから幾度となく繰り返されてきた光景だった。
「また、失敗か……。一体何がいけないんだ……っ!? 何故、妻のローラを呼び出せないっ……!」
フェルミは、何も変化していない熱力学書を見て、忌々しげな顔をする。実験の失敗なんざ、生前にもよくある事だったが、理論的には完璧に思われた実験がこうも徒労に終わると、やはり堪えるものがあった。
「くそ……、理論的には可能なハズなんだっ……。私だって、熱力学の本は著した事があるし、妻のローラは歴史家で、私の伝記を書いた事もある……。つまり、私経由でなら、その情報を元に二人目の物理学者(フィジシャン)の物理演算(シミュレート)も可能なハズなんだよ!」
フェルミは苦虫を噛み潰したような表情で俯いて、床を見つめる。地団駄を踏んでみても、熱力学書はピクリともしない。
「うう……、会いたいよ……。愛しのローラに、早くっ……。せっかく現世に甦っても、君がいないなんて、意味が無いっ……! 私には、支えてくれた君の存在が必要なんだっ……!」
「……ごめんなさい、エンリコ……。私の力が、足りないせいで……」
そんなフェルミの様子を見た及川は、どこか胸の奥がツンと痛くなる。深い心の底から溢れ出してくるのは、悲痛な感情のせめぎ合いと、どうしようもない罪悪感だった。
「君の力不足のせいじゃないさ……。そもそも、二人分の計算資源を負担するのは、かなり無茶だからね……」
原因として考えられるのは、単純に力の出力が足りないという可能性だった。ただでさえ、物理学者(フィジシャン)一人の維持には、ネゲントロピー消費がかかる。その上で、二人目の物理演算(シミュレート)を行おうとするのは、及川の生命力(ネゲントロピー)量だと、かなり無茶な話だった。
それでも、一番負担が大きいのは、呼び出す最初の時の物理演算(シミュレート)だけなんだっ……。そこさえ乗り越えられれば、後は私が疑似的に演算者(オペレーター)になる事で維持できる……。
とはいえ、元々、物理学者(フィジシャン)では無い波美くんでは、計算資源(リソース)に限界がある……。やはり、絶対的なネゲントロピー量が足りない……。
「くそっ、また私は負けるのか……? このままでは、あの忌々しい我妻岩平にでさえ……」
追いつめられ、絶望に悲観するフェルミだったが、あの憎たらしい岩平の顔を思い浮かべた瞬間、ある一つの妙案が浮かぶ。
「……っ!? そうか! あの我妻……。我妻岩平ならっ……!」
何故かは知らんが、奴だけ演算者(オペレーター)としては、ネゲントロピーの所有量が別格だった。正直、あの計算資源(リソース)の量は異常だ……。
もし、奴を捕える事ができれば、あるいは……。
そこにまで考えが至った時、フェルミの頭の中には、とある高揚感が拡がっていくのを感じた。
※※※
「ふおおおっ! こっ、これは……!?」
水曜日の放課後、飾りつけられた技術室を訪れたリーゼルは、感嘆の声を上げる。その顔は、今まで見た事が無いくらいに期待で満ちていて、眼は水を湛えたように輝いていた。
「ケェーキだっ! ごちそうがいっぱい……」
技術室のテーブルに陳列してあったのは、たくさんの豪華絢爛な料理や惣菜たちだった。からあげやチキン、ギョーザや寿司まで盛りだくさんの内容である。中でも一番目立つのは、中央にデンと置かれている大きなケーキ箱だった。中身はまだ見えないが、その箱の巨大さからして、明らかに通常のホールケーキの三倍の大きさがある事がうかがえる。
「ごめんねぇ、本当はディナーもみんな、ワタシの手料理にしてあげたかったんだけど……。さすがのワタシでも、一日じゃあ、ケーキ一つ作るのがせいいっぱいだったの……。でも、料理は食堂のおばちゃん達に頼んで、特別にパーティ用に作ってもらったから、味は保証するわ」
その真理華の言葉を聞いて、岩平はホッと胸をなでおろす。もし、真理華が作っていたのならば、全ての料理に山盛りの砂糖を入れかねないからだ。どうやって食べずに逃げようかと考えあぐねていた岩平だったが、よくよく考えれば、平日に一人で料理して揃えられる筈はないのである。そのへんは、真理華が昨日のうちに、食堂へ注文しておいたいち早い行動の勝利だ。肝心のケーキは、おそらく駄目だろうが、まぁ料理さえ大丈夫なら腹は膨れる。
ちなみに、費用は全て辺理爺さんが負担してくれたそうである。普段はめちゃちゃ節約思考でケチなクセに、こういうところでは爺バカ炸裂もいいところだ。おそらく爺さんには、リーゼルが可愛い孫娘のようにも見えているのだろう。おかげで昨日の寝る前は、何を勘違いしたのか、赤飯を炊こうとする爺さんを止めるのが大変だった。
「ふっふっふ、技術室の飾りつけの方は、あっしが裏で学校サボって、仕上げたでやんすよ」
そう誇らしげに語るのは、設営を担当した数吉だった。いくら留年のない小学校だからって、何かにつけて学校をサボるのはどうかと思うが、勉強の方は爺さんに教えてもらっているので、大丈夫らしい。そこらの小学生よりは学力あるとの話だ。
意外と手先も器用で、今回の部屋のデコレーションも、折り紙や100均のグッズを駆使した、小学生らしくもいい雰囲気を醸し出した造りになっている。黒板には『リーゼル16歳の誕生日おめでとう』と書かれていた。あくまでリーゼルは、ここでも高校生設定を押し通し続けるつもりらしい。
「あ、そうだったの? なんか悪いな、急にこんな事になっちまって……」
「いいや、礼は不要でござんす! 真理華どのから、今回の事情を聞いて、あっしも男として骨を折ったまででやんす!」
そう言ってカッコつけて見せた後、何を思ったのか、リーゼルの手を取って、大げさに泣きはじめる。
「うおおお~ん! 聞いたでやんすよ、リーゼルどの! 聞くも涙、語るも涙の壮絶な物語を……っ!」
「へ……?」
リーゼルはその様を見て、ドン引きしているが、数吉は鼻水を垂らしながら構わず続ける。
「幼い頃に父の会社が倒産して、一家離散……! その後は、遠い親戚の家で虐待を受け続ける毎日……。ついに耐え切れなくなって家出したところを、兄貴に助けられた……。そういう出会いだったんでやんすね!? 早いとこあっしにも、教えてくれれば良かったでやんすのに……。辛い時は、あっしのことを兄弟子として、何でも頼ってくれていいでやんすからね!」
「は……、はぁ……」
リーゼルの顔には、困惑の表情しかなかった。もう弁明するのも、ややこしい物理学者(フィジシャン)の事情を説明するのも面倒なのだろう。既に、リーゼルの視線と思考は料理の方へと移り、数吉の言葉はほとんど聞き流されていた。
その訳分からん過去話は、おそらく真理華の曖昧な記憶が、数吉に伝える内に勝手に補完してしまったものだろう。
―しっかし、よくコイツら想像だけでそこまで話を盛れるな……。
まぁ、おかげで数吉もリーゼルに突っかからなくなったので、これはこれで良いのかもしれない。アインシュタイン家に複雑な家庭事情があるのも確かなんだし。
どうしたもんかと思っていたその時、ちょうど玄関の方で、辺理爺さんが帰ってきたらしき声がする。
「フォッフォッフォッ♪ そろそろ、良い子たちは集まってるかいの?」
だが、岩平は爺さんのその恰好を見て、びっくら仰天した。
全身を赤に包んだその衣装は、どっからどう見ても、サンタクロースのそれなのである。
「待たせたの、サンタさんじゃよ」
「季節違いすぎるわ! ボケジジイッ!」
爺さんの行動は、季節を5ヶ月ほど先取りしすぎていて、もはやツッコミが追い付かない。
―ああ……、この部屋にはもう、まともな人間は一人もおらんのか……。
「いいじゃろが! この方が、《盆と正月が一緒に来た》感があって、お得だとは思わんのか!?」
「むしろ、《誕生日とクリスマスを一緒にされた子供》感があって、なんか悲しいからヤメテっ!」
岩平は既に呆れ返っていたが、ここまで無茶苦茶だと、なんかもう可笑しく思えてくるから怖い。気付けば、真理華も数吉もリーゼルも、みんながクスクスと笑い始めていた。
―……まぁ、いっか……。みんなで笑えるなら、何でも……。
「そうそう、ともかくバースデープレゼントじゃ」
そうして、爺さんは岩平とのコントをひとしきり終えた後、ようやくリーゼルへ、目的の誕生日プレゼントを手渡す。
「ようこそ、儂らの技術部へ――――――」
それは、入学祝いの品であり、また同時に、技術部のみんなが、リーゼルの正式な仲間入りを認める贈答の品でもあった。
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