第3話 物理演算<シュミレート>術式
「――――あだぁッ!?」
気が付けば、岩平は本の散乱する技術準備室の狭い床に倒れていた。急いで上体を起こして周りを確認する。
「俺は戻って来れたのか!? あの野郎は一体どこに…」
手には先ほどの黒い本があったが、何を問い詰めてみても返事は来なかった。喋りだす気配も無い。
「夢だったのか……? いやそんな筈は……」
だが、岩平はここで異変に気付く。何やら焦げ臭いにおいがするのである。慌てて窓の外を見ると、煌々とゆらめく紅い光が見えた。
火事である。
慌てて岩平は黒い本を抱えながら、備え付けの消火器を探し掴んで、火元へと向かう。燃えていたのは技術室の裏の室外機だった。そこから大分既に建物にも火は燃え移りだしており、一刻も早く消し止めねば危ない状態だった。
急いで消火しようと消火器に手をかけた刹那、岩平は真っ赤な殺気を背後に感じて振り返る。
「ぐ……なッ!?」
岩平は咄嗟の判断で身体を捻り、消火器を盾にして叩きつけられようとした武器を防いだ。傘のような形状をしているその得物は、映画とかでしか見た事の無い西洋風の‘ふいご‘だった。暖炉に風を送り込むアレである。
「ほう、吾輩の演算子(えんざんし)『F』(ヘルムホルツ)の一撃を防ぐとは……、なかなか筋がいいな小僧」
その人物は砕十郎と同じくらいの歳の爺さんだった。彫りの深いその顔はどう見ても日本人ではなく、いかにも英国紳士といわんばかりのシルクハットを被り、立派な髭をたくわえたその顔はどこかヨーロッパ人のようだった。さらに、服はイギリスの近衛兵のような赤い隊服を着ている。
爺さんであるにもかかわらず、その人物の力は恐ろしい程の強さだった。老齢からは想像出来ない程の筋力が手にした消火器から伝わってきている。徐々に消火器は嫌な音を上げて凹み始め、白い煙が漏れだして暴発し始める。岩平はその一瞬の隙をついて、消火器をその英国紳士に投げつけるが、英国紳士は後方へと跳躍をしてバック転をし、いとも容易くかわされてしまった。
「おやおやぁ岩平くん、学校の備品は大切にしなきゃダメなんだよ?」
それは聞いたことのある下卑びた声だった。英国紳士が着地した隣に不敵な笑みを浮かべて立っていたのは、夕刻に会ったばかりの島本水無瀬だった。
「テメェ……誰だそいつは? 火をつけたのもテメェか?」
「どうだい? 素晴らしいだろこの力。『神』がおれっちの前に降臨してくれたんだよ、まぁ神に選ばれし男の天啓ってヤツ? そして、この赤い本をおれっちにくれたのさ。科学史に名を残した偉大な顕学の素晴らしい力とともにね」
島本水無瀬は自慢げにその本を見せびらかす。その表紙には銀の文字で『熱力学(サーモ)』と書かれていた。
「まさかその本は……」
「フハハハどうだ、ビビったか岩平! このおれっちに神が用心棒につけてくれたのは、かの有名なケルヴィン卿なんだぜ! ホラホラ、命乞いでもしてみろよ岩平ぁ!」
「いや、だから誰なんだよそのジジイは!? エルヴィンだかケルヴィンだか知らねーわそんなん!」
「は? 知らないのかケルヴィン卿を? 絶対温度やエネルギー保存則を導き出し、古典熱力学をまとめ上げた大家だぞ? 教科書にだって載ってる」
「なんだよ古典って、古くさー。物理学者っつうくらいなら、ニュートンとかアインシュタインくらいしか分からんわ。つーか、いつから物理学者の先生方っつうのはこんな武闘派になったんだい?」
「くっ、これだから教養の無い奴は……、説明より身体で痛い目に遭ってみないと分からんらしいな。やれケルヴィン卿、『物理演算(シミュレート)』だ」
「御意に、我が演算者(オペレーター)よ」
ケルヴィン卿が武器の『ふいご』を構えると一瞬、銃口から紅い光が見えた。
「熱変換―『エントロピー増大』!!!」
dS=dU/T
強大な炎が岩平めがけて放たれる。岩平はどうにか横へと飛びのいてかわすが、輻射熱まではかわせない。あちこちの皮膚が酷い日焼け後のように火傷してしまう。
「アッツゥッ!? なんつートンでも爺さんだコイツ!?」
間髪入れずに、次々と火炎弾が襲いかかるが、岩平は持ち前の身のこなしでスレスレにかわしてゆく。
「おやおや、逃げちゃっていーのかなぁ岩平くん? 君の大切な恩師の工房が燃えちゃうよー?」
「くッ!!」
避けた炎は後方の技術室校舎へと当たり、熱で窓ガラスが割れ、外壁が燃え出しているのが見えた。
「燃やし尽くしてやれ! ケルヴィン卿!」
しかし、何かに気付いたケルヴィン卿は一旦手を止めて島本水無瀬を制止する。
「待て、演算者(オペレーター)よ。全て燃やしてしまうのはまずい。貴奴の手に持つあの黒い本を見よ、どうやら貴奴も演算者(オペレーター)の一人のようだ」
ケルヴィン卿は岩平の持つ黒い本を指さす。彼にとってはこれが目的らしく、燃えてしまうのはまずいらしい。
だがそれでも、島本水無瀬は赤い本を構え、不敵な笑みを崩そうとはしなかった。
「これはこれは偶然にも都合がいい……。最初はおれっちの仕返しの為にお前を痛めつけて、大切な物を壊してやろうと思ったのだが……。これで本人をぶち殺せる理由ができた。おまけに相手は物理学の基礎も知らないド素人ときている。どうやら、物理学者(フィジシャン)もいなければ、物理演算(シミュレート)も使えないようだ」
圧倒的不利な状況で追い詰められた岩平。しかし、ここで岩平は起死回生の策を思いつく。
「ヘッ、なんだか事情はよくわからんが……。つまり――この本が欲しいってこったろ?」
そう言って岩平は左手に巻いてある鎖をほどき、黒い本を盾のように左手に備え付けて巻き付ける。
「なっ、しまった! こちらの炎を使えなくするつもりか……! 思ったより阿呆では無いらしいのう……」
「おいおい、おとなしくその黒い本を渡せばいいものを……。どうせ、劣等生のお前なんかにゃ到底使いこなせやしないのに……。岩平も余計に苦しんで死にたくはないだろう?」
そうして島本水無瀬はケルヴィン卿に突撃の指示を出して本を奪わせようとする。
「アイツの手足をバキ折ってやれ、ケルヴィン卿」
「御意に」
だが、それが岩平の思惑だった。相手に火炎放射器をぶっ放されては岩平も打つ手がないが、接近戦ならばまだ、自分の得意とするところではある。岩平は次々と振り降ろされるケルヴィン卿の武器の重い一撃を、本の盾で防いでは打撃を逸らしてゆく。
「ほほう、まさか物理学者(フィジシャン)の動きについて来れる生身の人間がいたとは驚きですなぁ。しかし、これでは埒があきませぬ……」
そう言うとケルヴィン卿は突如として動きを変えて、地面に手をつく。すると地面には謎の数式が浮かび上がるのが見えた。
「物理・数学演算(マス・シミュレート)――『方形波(ほうけいは)』!!!」
1/2∫sint/tdt
すると、何やらグラフ状の線が恐ろしい勢いで隆起して岩平へと襲い掛かる。それは四角いカクカク状の形をした波だった。突然の光景に岩平は反応できず、その波状攻撃の打撃を腹にまともに喰らってしまい、呼吸が出来なくなる。
「オブぅッ!?」
「終局だ」
その上から岩平はケルヴィン卿の武器のフルスイングを腹にぶち当てられてしまう。そのまま校舎裏へと吹っ飛んだ岩平は、塀に激突して倒れ伏してしまった。
「が……あッ……」
「おっと、まだトドメは刺すなよケルヴィン卿。十分痛ぶってからだ」
島本水無瀬は岩平へとゆっくりと近づく。岩平は必死に起き上がろうとして、傍に外れて落ちた鎖と本に手を伸ばすが、その手は島本水無瀬へと踏みつけられた。
「ぐあっ!」
「よう、無様だな岩平。」
島本水無瀬は容赦なく、倒れた岩平の腹や顔面を蹴りつける。おびただしい量の鼻血が出るがそれでも彼は蹴るのをやめない。
「ずっと憎かったよ。中学の頃からな……。上級生にお前さえいなければ! 勉強もスポーツも出来るおれっちは中学でも天下を獲れるハズだったんだ! なのに、お前はまた、バカのくせに浪人してまで同じ安高に入って邪魔しに来た! お前さえ、お前さえいなければっ……!」
「ぐッ……うッ……」
「そういやお前って、十年前に隕石で滅んだ町から来たんだってな。天罰だったんじゃねーの? どうせお前みたいなバカがはびこる町だったんだろ? なぁ、どうしてその時によりによってお前だけ生き残ってしまったんだ? あそこで死んでりゃ良かったものを……」
ひとしきり蹴り終わって、少しは満足した島本水無瀬は後ろのケルヴィン卿へと指示を出す。
「始めろ、ケルヴィン卿」
するとケルヴィン卿は大きな炎を放って、技術室校舎を徹底的に燃やし始める。
「アハハハハ! どうだい? 自分の大切な居場所が壊される気分は!」
「や……、やめろ……」
―嫌だ……。
―俺は約束したんだよ……、あの時……、アイツと……!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます