乙女の視点で。虫唾の走る八徳

 ヴァルピリーナの元を飛び出して一週間。


「ありがとうやんした~」


 爪楊枝をくわえ、歯の隙間に詰まったものをこそげ落としながら帰っていく複数人一組の客の背中に、八徳は深々と頭を下げ、上げ、ため息をついた。


「八徳さん、お疲れ様」

「あ、若っ! スイヤセン。せっかく無理言って働かせてもらった癖して、気合いが足りやせんでした」

「いいんだよそんなの。そもそもがお手伝いじゃないか。『賃金はいらないから働かせてくれ』って。むしろ付き合わせている私たちの方が、心苦しい」

「何を言ってやすか。当然でやす。居候のこの身、本来なら一日たりとも上納金アガリの納めを滞らせちゃいけねぇ。だが、今は振る袖もねぇ体たらく。これくらいしか出来ねぇ自分が、恥ずかしくてなりやせん」

「貴方は、本当に律儀なお人だねぇ」


 やる気がいまいち出ていない彼に話しかけたのは庄助。

 ここは牛鍋宿六庵。八徳がたった今、店から出た客に頭を下げたのは、配膳の仕事を手伝っていたからだった。


「休憩してはどうだい? お茶でも飲んで、少しはゆっくりおしよ」

「いえ、何を言ってやすか若。これくらいのこと、屁でもねぇ」

「かもしれないけれどね。休んでほしい。手伝いの八徳さんが休まないと、その指示をさせてもらっている私たちも休めないじゃないか」


 手伝いをしているのは、ヴァルピリーナからの仕事を捨ててしまったからで、稼ぎもないための穴埋めのため。

 それゆえ、気にかけられると八徳は恐縮してしまった。が、クツクツと庄助が笑うと、思わず苦笑いが沸き起こった。


「綾乃」

「ハイ、お義母上様」

「お前も休憩にお入り。私が代わるから、八徳に茶でも出しておやり」

「わかりました」

「チョッ! 女将さん。姉さんも」


 とはいえ、居候させてもらっていることへの義理を果たせているとは思えなかったから、幾ら庄助の薦めとはいえ、なかなか踏ん切りの付かなかった八徳。

 ここで、庄助と同じく店に出ていた綾乃に対し、庄助のおっかさんが声をかけてきたから、状況は動いた。


「いけねぇ。義理も果たせねぇ俺に甘いとあっちゃあ‥‥‥」

「ただの優しさだとか、お思いかえ?」


 改めて断ろうとしたところで、ビシッとしたおっかさんの声が差し込んできた。


「この店は、庄助が出来る前までは、ウチの宿六と私の二人だけでやってきた。二人で回せる店に、庄助がいて、綾乃がいる。これでずいぶん楽になったものだよ」

「でやすが……」

「逆に、二人出れば問題なく回る店に、三人が出る。これまでの効率的かつ迅速な運営の流れが乱されること。理解していないのかい?」

「うぐっ!」

「その好意だけ、ありがたく受けとっておくけどね。有難迷惑というやつさ。宿六庵は客商売。それを、そんないかめしいゴロツキ顔で努められてもねぇ。お客さんを、怖がらせるおつもりかい」

「……や、休ませていただきやす」

「では、八徳さん。こちらに」


 そこまで強く言われてしまって、八徳も従わざるを得なかった。

 強い口調に対し、へなへなと力が抜けたように返した八徳は、笑う綾乃に連れられて、店から母屋の方へと移った。


「もう少し、優しく言ってくださればいいんですけれど。お義母上様は不器用ですから」

「あ、いえ。別に俺は。」


 母屋に入り、さっそくお茶は出された。それと同時、クスクスと笑った綾乃から、少しだけ、先ほど自分が考えていたことを言い当てられた気がした八徳は、慌てふためいた。


「もう一週間になりますか。八徳さんが、こちらの店で働くようになったのは」

「へい。不慣れなもんで、姉さんたちには迷惑をおかけしやして」

「良いんです。それで、少しでも気がまぎれるなら」


 慌てる以外、変な感覚だった。

 庄助や庄助のおとッつぁんと二人になることはこれまでもあった。だが、綾乃と二人きりになるとは。


「随分気落ちしていたようでしたから」

「気落ちですか?」

「えぇ。毎日瓦版を握りしめ、せわしなく駆けていく八徳さんの姿を見てきた私たち一家からすれば、嘘みたいに、静かになってしまった」

「そうでやしょうか?」


 どうやらそのようなことを気にしていたのは八徳だけの様だった。

 庄助がいるときも、いないときとも変わらない雰囲気の、綾乃が漏らした感想を耳にし、八徳はすこしだけ黙り込んだ。


「結構、あの瓦版も私たち一家では重宝したんです。普段、瓦版は買いませんから。貴方は、朝方買った瓦版を、仕事明けでこの家に帰ってくるとき、持ち帰ってくる。貴方が仕事に出ている時、前日分を皆で読みまわしたものでした」

「さようで。いや、結構なことでやす。少しでもそれで、楽しく思ってくれりゃ、幸いでやす」


 八徳が黙り込む間、言葉を連ねる綾乃。

 もっと彼女と二人きりになったら気まずくなるとも思っていたが、意外とそうでもなかった。


「私たちが、いの一番に気にするべきは宿六庵の景気ですから。社会の情勢については、すこしだけ遠くなっていた。だから知るのは、とても面白かった」

「さようで。でも、俺が働きに出ていた時期の瓦版なんて、怖い話ばかりでしたでやしょう?」

「確かに。怖い話ばかりでした。怖くて、とても悲しいお話しばかり」

「悲しい‥‥‥でやすか?」

「遊郭で、昨今立て続けに起きている事件について」


 まさかといってもいい。瓦版のことで、綾乃とここまで話すことなろうとは思ってもみなかった。


「特に目を引いたのは、《始末屋八徳横恋慕》と、《港崎心中》でしょうか?」

「う‥‥‥ぐ」

「どうかしましたか? あ、いえ、『奇遇なこともあるんだ』って思う位です。下手人の名前が、八徳さんと同じであることは」

「そ、そうでやすか」


 更に、あまり他者には知られたくないことを、それもそれを綾乃の口から聞いたことは、あまりに予想外だったから、八徳は、ビクリと反応した。


「ただあの瓦版のおかげで、記事を読んで、私は、自分がどれだけ恵まれているのかに、改めて気づかせてもらいました。あ、『何が』って顔をしていますね」


 そこで、綾乃は八徳の湯飲みに急須の注ぎ口を傾けた。

 話に集中していたから、湯飲みの残りはあまり気にしていなかったが、既に、最初注がれた半分以上を、八徳が飲んでいた故だった。


「始末屋八徳と謎に包まれた花魁。そして殺された侍。殺された、仕立て屋三甲堂の若主人と死を選んだ妻。そして港崎花魁格子格の鈴蘭」

「ん、そりゃ全員、事件の関係者でやすね」

「全員が……愛情の為に生き、結果不幸に落ちてしまったんだなぁって‥‥‥」

「ブフフゥォ!」

「は、八徳さん」

「ゲホォッ! ゴホッ! だ、大丈夫でやす。お続けになって!」


 せっかく新たにお茶を入れてもらったのに、噴き出してしまった。

 「愛の為に」のくだりに、どうにも体が痒くなって仕方がなかったからで。しかも綾乃がそのように表現した関係者の中に、自分も含まれていたから。あまりのむずがゆさと心理的衝撃で、一瞬意識を落としそうになった。

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