《港崎心中顛末譚》

(なぁんか俺、人として少しずつ駄目になっている気がする)


 クイッと、御猪口を持ち上げ、チビリっと、酒で口を湿らせる。

 お銚子二、三本と肴が盛られた小鉢ニつ、三つが乗る机で頬杖を突きながら、八徳は生まれ変わった己について物思いにふけていた。


 新生活は順調だ。というか、順調すぎた。

 悪たれヴァルピリーナが八徳に寄こす報酬が、周囲一般と比べて常識外れ過ぎた。


 彼女のもとでやっていることと言うのは、言葉の橋渡しがほとんどだ。

 そのほか頭巾をかぶらされたかと思うと、横浜の名だたる商人との商談に駆り出された。

 

 それだけで彼女は良いと言っていた。「お前もいつか気づくことになる。情報は金じゃぞ?」と。


(『そしてそれが分かったとき、更なる益を掴むことになるじゃろう』とか言ってたが、なんというか、このくらいで万々歳なんだが) 


 最近気づいた。普通の町人なら、例えば元手に700文をかけて商品を仕入し、それを1000文で売り、300文を一日に稼ぐらしい。

 八徳の一日の稼ぎは5、600文を超えていた。

 しかも何か調達したとして、街中で瓦版を毎日購入する位で大きな支出はない。

 だいたい450文くらいは毎日手元に残った。それを毎日続けていた。


 なら、約半年仕事をするだけで、普通の町人の一年分を稼ぐことになる。


(金持ちに憧れなかったわけじゃないが、あったらあったで手に余る。保管する蔵だって、俺には無いぜ?)


 さすがにそんな大金、ほぼ毎日アガリとして親っさん達に渡し続ければ、いつしか変に警戒されるかもしれない。


「大将、もう一本頼まぁ」

「あいよ。そうだお客さん。羽田から海苔が入ってね。良い佃煮。できてるよぉ?」

「んじゃ、ソイツももらおうか」

「毎度ありぃ」


(うん。だから、新しいもの見つけちゃ浪費して、酒に費やしているわけなんだが)

 

 そんなこんなで、外国人居留地での仕事以外は酒浸りである。

 ただ酒ばかり煽っていると、いつの間にか、どうしても少し前まで住んでいた、遊郭のことを思いだしてしまった。


「俺も大して、アイツらと違い無いはずなんだけれどね」


 ヴァルピリーナに評価された、エゲレス語を話せる点。数多くはないとして、八徳とおなじレベルで扱える者は何人か知っていた。

 珍しいことだが、遊郭に遊びに来る異国の男もいる。

 かつて、幼き頃の自分を弟分として可愛がってくれた、とある女郎が、そのうちの一人の懇意にされた関係で、エゲレス単語や会話の知識について、八徳のもとにも降りてきたのが、彼が話せる理由だった。


(ヴァルピリーナが紅蝶を知ったらどう思うかな。アイツは、俺なんかより全然エゲレス語も上手かった。当然か。あのあねさんの禿。姉さんの許しを得て、振袖新造(禿から次、正式な女郎になる一つ前の段)になったんだ)


 少し前まで、人ではなく畜生として見られた自分。いつの間にか「遊郭の外」という異世界で、普通の町民以上の稼ぎを手にし、消費を楽しんでいた。

 ‥‥‥未だ、あの生き地獄に沈む紅蝶より、エゲレス語の水準が劣るはずの自分が。


(紅蝶か。遊女として、姉さんの流儀を受け継いだ。受け継いで今度はお円に、姉さんと紅蝶の流儀が合わさったものが受け継がれるはずだった。それなのに……)


 人の世が不条理なものだというのは八徳もわかっている。

 わかっているが、それでも紅蝶のことを思うとやりきれなかった。 


「オイ、聞いたかぃ。仕立て屋、《三甲堂》の……」

「あぁ、不良息子が嫁に脇腹刺されたって、アレだろう?」


 考え込んで黙ってしまったから、他の席での会話も良く届いた。

 酒を出す店だ。飲んで酔いが回った結果、加減が利かないのか、男たちの声も大きかった。


(どこに行っても人死にか。異世界も遊郭も、案外変わらないのかもしれないな。も少し安全なものだと思っていたんだけどな)


 聞こえてきてしまったものを、耳塞いでまで忌避しようとも思わない。


「阿呆な話だ。少し前に祝言(結婚)をあげたばかりだっていうのに」

「刺した女房が浮かばれねぇやな。縁談自体も親同士が決めたって言うじゃねぇか。だってのに夫婦になって早々の浮気たぁ」


(ハッ! そして想い想われの関係すら、当人たちの自由にはならないかよ。コイツはますます遊郭に‥‥‥)


 八徳は、その話すら肴にと、御猪口の残りをキュッと口に含む。


「まぁ、相手が港崎みよさき花魁ってならしょうがねぇか」

「ブゥゥッ!?」


 そして、次に届いた内容に衝撃を覚え、思わず吹き出してしまった。


「しかも昨年、《水揚げ》されたばかりの花魁。大見世でもずっと期待されていた留袖新造だったって話じゃねぇか」

「猶更女房が不憫だねぇ。そりゃその殺された不良が例えアタシであっても、花魁と女房じゃ月とスッポンって思ってしまうもの。にしても、うらやましい話だねぇ」

「『月光の下に咲く華のように』だそうだ。豪華絢爛にゃ違いない。が、いやらしさがない。どこか控えめで涼やか。その開き幅が、男どもの注意を引くそうだ」

「溜まらないねぇ。一度でいいから、そんな別嬪にお願いしたいものだが」

「起きやがれ! 一回そのドブのような顔、鏡で見てから言えってんだい!? 三甲堂の不良息子も、最近ちょっとばかり羽振りがいいから相手してもらってるだけにすぎらぁな」


 最終的には冗談に落ち着き、闊達に笑う男たちを余所に。酒を噴いた八徳は強く咳込んだ。自らの衣装の袖で口元を拭って、何十文か、酒代を机において、席を立ちあがった。


「大将、勘定だ」

「あれまお客さん。まだ海苔佃煮も、新しいお銚子も、お付けできてないよ?」

「やっぱりやめておく。頼んだのに待てずに席を立った。迷惑料だ。その分も置いておくから、受け取ってくんな。釣りもそのままもらっておくれ」

「おっ! お客さんお大臣さまだねぇ! また来ておくんなさい! 次来た時には、佃煮とお銚子一本つけとくから。お代は、今日貰ったからねぇ」

「ハッ! 人情にアツいじゃねぇか。じゃあな」


 いろいろと考え込んでいたのは事実ではあるが、酒自体は楽しく飲めた。

 それを押してでも店を出たのは、先ほどの男たちの話が、遊女遊郭への八徳の思い出を深めたことと、新たな人死に事件が花魁絡みであることに、引っかかったからだった。

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