牛鍋親子の帰り道

「おや、八徳さんじゃないか」


 顎に手をあて、ふらりと帰路に就く。それから間もなく声をかけてきた者がいた。

 庄助。八徳が厄介になっている牛鍋宿六庵の若旦那だった。


 衣装の中に入り込み、肌を撫ぜて抜け往くヒンヤリとした風が、酒に火照った体を沈める。頭も冷やされたようで、少し惚けていた意識もシャッキリした心地だったから、庄助の声はスッと八徳の耳に入った。


「なんだ、お前さんも一杯引っ掛けて来ていたのかい」


 庄助を認め、言を返そうとして、それを防いだのは親っさんだった。

 どうやら親子二人で、この時間まで出ていたらしかった。


「『俺も』‥‥‥てなぁ、親っさんと若たちも、コレで?」


 クイッと盃を空ける手真似を見せ、伺うような目で問いかける八徳に、親っさんは楽しそうに笑って頷いた。


「なかなかに遅い夜分。夜の街に繰り出すたぁ珍しい」


(珍しいっていうのは、若がな)


「今日は牛鍋屋同士で寄り合いがあってねぇ」

「あぁ、牛鍋‥‥‥ですか」


 顔も赤くご機嫌な親っさんの言葉を受けて、八徳は庄助に目配せした。 

 どことなく恥ずかしげな表情を見せているのは、「牛鍋」という単語が出てきたからだというのが分かった。


「俺は牛鍋、良いと思いやすよ」

「八徳さん」


 牛鍋、牛の肉を調味料をもって炊いた料理。流れの侠客として、外の世界に生まれ変わった八徳が、初めて知った料理。

 そもそもそれ自体、最近になって開発されたものだと聞いた。


「特に若の牛鍋。あれは旨い。初めて食った時にゃ驚いたものでしたがね。一度でも食ってもらえれば、誰にだって受け入れてもらえやす」

「そりゃ、味そのものに自信はあるのだけれど、なかなか試してみようなんて命知らずはいないよ」

「そいつぁ‥‥‥」


 食肉なんて忌避するものだというのが、日本人としての常識。特筆、田や畑を耕す百姓動物、畜生の肉を喰らうなど。

 それについては遊郭でも同様だったから、庄助が吐いた弱音の理由もわからないではなかった。


 食ってみればわかるかもしれないが、常識外の料理は、初めから受け付けない。日本人の食わず嫌いに端を発し、牛鍋は不人気。

 その圧倒的に不利な土俵で商いをしているのが、庄助の一家だった。


 そんな苦しい立場の牛鍋屋同士で、寄り合いがあったというなら、ほとんどそれは愚痴の垂れ流しあいに違いなかった。


「異国の者たちは毎日と言っていいほど肉を喰らってやす。異国との交易を始め、日々異邦人や異文化が浸透しているこの日本なら、いつか受け入れられやす」


(まぁ、ヴァルピリーナについちゃ、頭がおかしいのか、焼かず煮ず。血が滴った生肉を刺身にして喰っているんだけどな)


「そうだといいんだけどねぇ‥‥‥はて? 八徳さん。異国の食肉文化について随分お詳しいんだね。まるで実際に見ているかのように」

「き、聞きかじりでやす! よく瓦版なんかでありやしょうや! 肉を喰らう異国人を、アヤカシの絵に書き換えて、野蛮さを面白おかしく揶揄している!」

「あぁ、確かにいつだったか。私もそれを見たことがあったかもしれない」


 居候をさせてもらっている身。

 いわば庄助は八徳にとっての恩人ゆえ、取りなしてみたが、却って問われた異国人への詳しさを聞かれたことで、逆に焦ることになった。

 異国と日本の交流に、大多数の世論は懐疑的で敏感。ヴァルピリーナの所で仕事していることを伝えるわけには行かなかった。


「フム! 八徳の居候を許したアタシの目に狂いはなかったねぇ! 八徳には先見の明があるよ庄助。なんてったって今の言こそ、アタシが牛鍋屋を開く理由そのものだからねぇ!」


 ここに、親っさんが口を挟んだことに助けられた。

 話は進む。なら、話が戻って異国人についての知識を蒸し返されることはない。


「庄助や、もっと自信をお持ち! お前さんの牛鍋は人を動かすよ。そうして綾乃を繋ぎ止め、八徳にも今のように言わせたんだ」


 というか、蒸し返す余裕もないのかもしれない。気合いを入れるように、親っさんに背中をバシバシと叩かれた庄助は、少し痛そうだった。


「お前は引っ込み思案なところがあるからいけないよ。もっとおおらかに、自身をもって、楽観的に」

「……おとっつぁんが楽観的過ぎたからおっかさんが苦労してるんだけど」

「え?」


 またもや、自分の発言によって己の世界に旅立ってしまった親っさんには、聞こえているかどうか。


「おとっつぁんが若いころはねぇ! もっと挑戦的で果敢に日々過ごしていたものさ!」

「賭け事に身をやつしてすっからかん。お江戸に出稼ぎに出た時には、吉原でみぐるみ剥がされフンドシ一丁」

「はぁっ?」


 ボソリと庄助がさした皮肉は、しかし八徳には伝わった。


「あぁ‥‥‥あの時は大変だったなぁ。吉原から始末屋が横浜くんだりやってきて、おとっつぁんが払えなかったお遊び代の担保に、家財のほとんどが抵当にかけられて」

「し、始末屋……でやすか……」

「それで、おとっつぁんの吉原遊女遊びがおっかさんにバレて、『実家に帰らせていただきます』って、私の手ぇ引っ張るところまで‥‥‥」

「ま、誠に……申し訳ありやせん」

「いいんだよ。というより、どうして八徳さんが謝るんだい?」

「そいつぁ‥‥‥」


 どうやらこの一家にも、相当な歴史があるらしい。

 自嘲的に笑う庄助の顏に、影が降りているのは、お天道様が隠れ、どこぞの提灯が漏らす明かりによるものだけではないはず。

 

「全く! 子は親に似るはずなんだが。どうしてなかなか、お前はおっかさん似だよ。おとッつぁんとしちゃ、女々しい息子が悲しいよ! もっとこう、おとっつぁんの様に、日々を明るく、楽しく‥‥‥」

「どうしてだろうね。ハハ‥‥‥なんでおっかさん似なんだろうね」


(‥‥‥なんというか、若の注意深すぎるきらいの理由、分かったような気がする)


 ガッハハと笑う自分の世界に入った親っさんの傍で、ハハハと乾いた笑い声を漏らす庄助。


(例の《三甲堂》なんて、羽振りのいい店だから、息子はボンボンドラ息子って感じなんだろうが。同じ商いを開いた家でも、苦労した息子の方は‥‥‥)


 そりゃ、親子の話で厄介者でしかない八徳。

 関係のないことではあるが、とにもかくにも庄助への不憫を感じてならず、この話を聞いたときにはもう、白目をむいて、茫然と立ち尽くすしかなかった。

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