流れの侠客、顔無き通訳
牛鍋《宿六庵》
日に焼けた畳と木骨の匂い。その中にかすかに漂う味噌の香ばしさ。
思いっきり鼻に吸い込み、肺に溜め、一気に吐き出す。
「お! 起きたのかい! 今日も晴れやかな顔しやがって。起き抜けのお前さんはまるで、黄泉の国から息を吹き返し、命の素晴らしさ思い知った人間のソレを、いつもアタシに思わせるよ」
「あ、アッハハ‥‥‥えぇっと」
吐き出すとともに、戻り香とでもいえばよいか。口から息を吹き出す際に、舌にのった香りを味わっていたところ、闊達で気のよさそうな初老の男がヒョコっと顔を出した。
言われたことが的を射ていたから、どんな顔をしていいのか分からず、笑みは苦いものとなった。
「
返す言葉が見つからない。
そこに新たな声と影が現れた。意志の強そうなパッチリと大きな目をした娘が、ハキハキとした声で初老の男を牽制した。
「うんうん、いいねぇ。だいぶお前も我が家に馴染んできたねぇ。あぁ、願わくばこの幸せよ永遠に」
「朝っぱらから、何を飛ばしているんだいおとっつぁん!」
その牽制をものともしない、初老の男の口上は終わらない。それどころか、言を垂れ流すほどに、自分の世界に入って行った。
「全てはお前の頑張りにかかっているからね庄助や。この幸せも。綾乃のことも」
「もう、その話は良しとくれって言ったろう!?」
その牽制に援護を追加したのは、もう一人別の若者。
残念ながらその若者は、援護をのらりくらりと躱した初老の男の言によってやり返され、慌てて口を噤んでしまった。
それでも、状況を動かしたのはその若者だった。
「
「ありがとうございやす。あがらせていただきやす」
申し出を受けて、返す。
その時だ、若者に若い娘、初老の男と、奥の方にいる少しだけ神経そうな初老の女が笑ったのは。
「おはようございます。八徳さん」
「若、それに親っさん、女将さん、姐さんも。おはようございやす」
それを目にして、図らずも八徳の声は少し柔らかくなった。
永真遊郭に、”八徳”という名の始末屋若衆の屍が磔られて一月が経つ。
そして、八徳には、また新しい朝が来た。
しっかりと挨拶を交わし、長屋の居間に並んだ5組のお膳にそれぞれが着いた。手を合わせることもほどほどに、朝餉は始まった。
「親っさん。これは昨日分の
「おっ、起きて早々スマナイね」
八徳は、八徳が「親っさん」と呼ぶ男が、料理に箸をつけ、皆が食事を開始したところで切り出した。
巾着袋を逆さに、手で、出てきた数百文を受け止め、差し出した。
「アイテッ!」
嬉々として、それを受け取ろうとする男は、しかし隣で食事をしていた男の嫁にピシャリと伸ばした腕を叩かれ、表情もクシャっと、目をつぶった。
「お前さん、人情ってもんがないのかい。それは八徳が額に汗して稼いだものだろうに」
「いえ、女将さん。良いですから」
「良いことがありますか」
「居候までさせてもらって、ただ飯喰らいは俺も顔が経ちやせん」
それが、お円の首代として奉行所に出頭し、エゲレス人と邂逅してから一月が経った八徳の状況だった。
八徳は生きていた。死刑とまではいかなかった。
正しくは、首代として身代わりになった八徳だが、別件で死罪が決まった他の罪人が、罪人八徳として刑を処され、磔にされたのだった。
とはいえもう遊郭には帰れない。しかし生きるためには住まいが必要。
どのような采配をお天道様が下したのか知らないが、縁があって、八徳はとある一家の長屋に居候させて貰う身となっていた。
日々のアガリは、その宿代と食事代を賄うため。
しかし、八徳が食客として身を置く一家は、少々個性的だった。
「そこは、義に熱い八徳からの申し出を受けない方が、却って人情に反さないかい?」
「流れをするなら銭がいる。しっかりと貯めた方が現実的ってもんですよ」
「そうはいってもだねお前。正直、八徳からのアガリで家は大助かりだよ。今や我が家、牛鍋宿六庵の大黒柱として、八徳は頼りに‥‥‥」
「ウチの商いの大黒柱に、居候になってもらってどうするというんだい?」
行き当たりばったりで元気のよい家長の親っさんと、その親っさんを諫める、現実的な妻の女将さん。
「義父上様、大丈夫です。庄助様はきっと成し遂げて見せます。そうですね。庄助様」
「え?」
「庄助様の牛鍋は、きっと成功します」
「あぁ、うん……ソウデスネ」
その息子である庄助という若者と、縁談が組まれ、庄助の許嫁となって同居を始めた綾乃という娘。
どことなく庄助はナヨったらしくて、少なくとも八徳が生まれてこのかた生きてきた中で、出会ったことのない種類の若者。
そんな庄助を慕うのが綾乃。礼儀こそ正しいが、なかなかにキップが強く。グイグイと、年上だが奥手の庄助を引っ張る場面も良く見せた。
「もっと元気をお出しよ庄助。そんなことじゃ約束も果たせず、綾乃をどこかの店の若旦那に取られても良いっていうのかい?」
「おとっつぁんが勝手に決めたくせに」
「私たちで決めたはずですが。庄助様」
「はい、僕たちで決めましたね綾乃さん」
親夫婦も、子の許嫁間柄同士も、
どちらかというと男の側に問題があるから、女の側がしっかりしているというのが、牛鍋屋宿六庵を開くこの一家の特徴だった。
「うぅ‥‥‥お腹が痛くなってきた」
(若は、も少し自信を持てればいいんだがなぁ)
一月も厄介になれば、ある程度の一家の力関係は推し量れた。
一日の始まりも早々に、肩を落としため息をつく庄助の様に、溜まらず八徳はクスリと笑ってしまった。
「時に八徳。今日も仕事で出るのですか? 予定は?
「へい。いえ、今日の所は少しばかり遅くなる可能性がありやして。帰り際にソバの一杯でも引っかけようかと」
「ではいつものようにえ。遅くなった際には店の方から帰ってらっしゃいな」
「もちろんでさ」
反対に、女将さんから声をかけられると、背筋はピシリとなおった。
「あと確認です。どのような仕事をしているかは聞きませんが、お上の世話になるようなことはしてませんね?」
「お前、それについてはいいじゃないか」
「ただの一町民の一日の稼ぎとしちゃ、そのアガリは多すぎます。それに八徳は流れの侠客(ヤクザ者)。そのシノギに、気を付ける必要はあるじゃありませんかお前さん」
「……女将さん、その問いはもう、百遍を超えてまさぁ」
この一家において、間違いなく一の力がある者は女将だ。
そしてそれは、この家に厄介になっている八徳に対しても適用された。
「気を悪くするでないよ八徳。これは心配性なんだ」
「さて、誰のせいで心配性になったとお思いかい?」
「ど、道中お気をつけ! あと、決して永真にお近よりでないよ!? お前と同じ名の罪人が、最近磔にされたばかりなんだ!?」
「へい」
庄助の父親を「親っさん」と呼ぶ八徳ではあるが、この家の親分は、その妻である女将。
‥‥‥思ってしまう。
今は自信に乏しく、少し弱弱し過ぎる庄助が、将来は親っさんのようになって、このよく気が利き、庄助を励まし、支えようとする甲斐甲斐しく可愛らしい綾乃が、いつかは女将のようになってしまうのではないかと。
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