新たな生と、生きる世界にしがみつく
決別。一つの世界を失う八徳
【ならお前は、懲りもせずに遊郭に脚を運んでいると? 私がせっかく救ってやった命、殺しかけた場所に晒すようなことをしている……じゃと? なんの冗談じゃそれは】
ギュウッと、拳を握った彼女が醸し出す空気。八徳は、ピクリとも体が動かさせなかった。
【いつから気付いていた】
【たわけ。お前のような恥知らずで、恩知らず。紳士の風上にも置けぬ愚物の企み、この私に隠せると思うたか?】
侮蔑と嫌悪に満ちた声色を叩きつけられ、体内から全身に、汗がぶわぁっと噴き出る様な感覚を得た。
【毎日、お前に読み聞かせてもらっていた瓦版。初めは、特に問題なく翻訳していたお前だったが、いつの日からや、途中で、歯切れの悪い読み聞かせとなる場面があった】
【ちょっと待て、それだけで……】
【日によっては問題なく読み聞かせが終わる日もあり、忘れた頃に、また心苦しそうに翻訳する日がやってくる。気になるじゃろうが? だから覚えている限り、お前が読みづらそうにしていた瓦版がどれだったのかを引っ張り出し、振り返ってみた】
普段は口が悪くも、全て冗談で終わるヴァルピリーナ。今日はまったく違った。
【全てだ。お前が翻訳に手間取っていた、瓦版全ての共通点にカオナシがいた】
年齢にそぐわぬ、色気たっぷりの流し目や、艶やかに朱の入った唇を薄く引く、いつものような雰囲気ではなかった。
ギラギラと血走った見開いた目を、口角をひきつらせ、歯、いや、牙にも見えるそれらをあらわにした状態で、凝視してきた。
【その中でも気になったのは三点じゃ。カオナシが有名になったキッカケ。日本の侍、攘夷志士に喧嘩を売った、遊郭に思い入れが強すぎる夜の侠客の立ち回りの話。その正体を知っているであろう、私の商談相手である呉服屋の証言の話】
【そ、そこまで‥‥‥】
【そのカオナシとやらが立ち回ったあの日、呉服屋と行動を共にしていたらしいな。瓦版には接待だったと書いてあるぞ? 接待とは、付き合いを強く深くするためで、となれば当日の両者の関係はまだ浅かった。さて、呉服屋が最近知り合ったのは、一体どういった存在なのであろうか? そして……】
冷静さを振りきっていった。
今回は、完全に怒りに押し流されていた感じだった。
【カオナシは殺された。昨日今日の瓦版だ。お前は、穴が開くほどそれを読み込んでいた】
さすがにまずいとも思った八徳。
収支を計算するためヴァルピリーナが数えていた、貨幣が山を成している机まで赴き、机に手をつき、向こう正面のヴァルピリーナの前に立った。事の次第を説明しようとした。
【さて、貴様を、どこから怒ってやればいい】
【寧ろどこから怒ってる?】
言い切ったヴァルピリーナは、それと共に少しは興奮が納まったのか、声量も少し収まった。
問いかけられたこともある、話すなら今だとして、八徳は口を開いた。
【カオナシであることを黙っていたことか? それとも呉服屋との繋がりか?】
【隠しているのはそれだけではないだろうが。馴染の女、鈴蘭じゃったか?】
【ハッ! まさか大英帝国誇り高き淑女が、下にすら見る日本人の男に嫉妬しているわけじゃあるめぇ!?】
【自惚れるなよ貴様。私が、己が下郎に嫉妬するわけがなかろう。《高値の華》か何かは知らぬが驕りも甚だしい。まさか金銭をもって体を売る、薄汚い花魁如きとこの私を、比べようなどとでも思っているわけじゃなかろうなぁ?】
【薄汚ぇだと? テメェ、言いやがった!】
だが、結局八徳の歩み寄りは、いがみ合いの展開へと至りそうだった。
互いに声を張り上げ怒鳴りあう。最後、あわやヴァルピリーナに掴みかかりそうなところまで、八徳は昂ってしまった。
双方途轍もない剣幕を戦わせ、鋭い瞳で、二人きりの部屋で斬りつけ合った。
【勘違いするなよ八徳。お前は人ではない。物じゃ。私の物。お白州裁きの日、お前が選んだ】
無言の空気を断ち斬った先手、ヴァルピリーナ。その物言いに、八徳は不快気な顔を隠さなかった。
【物にすぎんお前が、主に隠れてコソコソしとる。カオナシであることも呉服屋との繋がりも、鈴蘭となじみになったことも、そして……カオナシが殺害された事件について気にしていることも。全て貴様はこの私に秘匿とした】
【よぉ、プライベートって言葉を知ってるか? 日本人より、異国の奴らのほうが良く知っているはずの単語だが?】
【愚物めが。それは己が振舞いに責負えるものが口にする言葉じゃよ】
【なんだ。俺がテメェのケツも拭けねぇ根性なしだってのか?】
【そもそも、その根性なしにすら値せんのぅ。貴様は公的には死んでいる身。言ったじゃろう? すでに公的には人として数えられない存在。その責任の、負いどころとなる身分さえ持っておらぬお前には‥‥‥のぅ?】
互いが互いに我が強すぎるから。
二人ともここまで来てしまうと一歩も引けなかった。
【ここまで言ってまだ分からぬか? お前は私が救ってやった命を、私に黙って危険に……】
【そこまでだ】
それが、
「それは、主人への裏切り行……」
【そこまでだよ。ヴァルピリーナ】
二人の関係を、決定づけてしまった。
嫌悪と、対立の関係。
【こんな俺でも、お前には感謝していた。だから、どれだけ腹立たしいことがあろうが、耐え忍び、協力だってしてきたつもりだ。だが……】
確かにヴァルピリーナは命の恩人で、仕事も、先立つものも与えてくれた雇用主。
だが、その立場に胡坐をかき、勢いからかもしれないが、それで八徳の人格を無視した発言が、八徳にはどうしても許せなかった。
【お前が俺を、物として見る限り……人種が違ってもお前を人とし、その文化や背景の違いをも尊重しようとしてきた俺の価値観と、合うことはない】
あきらめてしまった。新たな異世界で、何とか、ヴァルピリーナの元で生きることに。
それが疲れた声で、うらぶれたように八徳が放った理由だった。
【『人種が違っても私を人とし‥‥‥』か。何を言うかと思えばな。私は、人ではないというに】
【だろうな。血も涙もないお前は、さしずめ化物だ】
【ほぅ? 鋭いことを言ってくれる】
八徳は、皮肉たっぷりに言ってのけたヴァルピリーナをジッと睨みつけた。じっと見定められるも、彼女は、八徳が放った圧に押されることはなかった。
八徳はやがて、黙って踵を返した。そのまま、彼女の部屋から立ち去ろうと、彼女に背を向けたまま歩みを進めた。
【残念だよ。お前には期待もしていた。が……どうやら私がお前に投資した分は、無駄に終わったらしい】
(投資ね。あくまで商品かよ。畜生)
その、部屋を出るために扉の取っ手に手を掛けたところで、背中にヴァルピリーナの嘆きがぶつけられた。
【八徳、なんだ帰るのか? ん……お嬢様、これはいったい】
【あぁ、オスカー】
と、その時だった。出ようとして手をかけたドアノブが動き、まだ八徳が扉を開いていないにもかかわらず、開いた。反対側から、彼女の従者、オスカーが入室してきた。
扉を開けたとき、第一に目に入った八徳を認め、しかし空気の悪さに不穏を感じたのか、彼はヴァルピリーナに呼びかけた。
【
【客人で……ございますか?】
【眷属という立場。私が主人であるということが気に入らぬらしいでな】
ただでさえヴァルピリーナに愛想をつかしているというのに、変わらず物言いがひどい。
翻訳についての仕事ぶりは認めてもらっていたはずなのに、やはり、本質的に、ともに仕事をした人間として見られてこなかったということ。
【とりあえず、せっかく拾った命、無駄にはせぬことだ。もう、庇護はできぬでな】
【うるせぇ!】
【お、おい、八徳?】
【死ぬなよ、客人殿?】
「クソッ! Get off(そこをどけや!)!」
得も言われぬ怒りが、八徳の足を突き動かす。扉が開いて鉢合わせしたオスカーに体をぶつけ、半ば強引に道を開けさせた。
彼女の傍から離れ、部屋から立ち去る最後の最後まで、八徳の心の中には惨めさが渦巻いて。
しばらくその思いは、宿六庵への家路についても変わらなかった。
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