警告

【若旦那のフィアンセ、綾乃とかいうたあの娘】

【姉さんがなん……】

【二度とこの居留地に連れて来てはならん】


 そして首を傾げた。その物言い、あまりに想定外。


【お前は気付かなんだか? 昨日、この居留地前で立ち往生していた若旦那の隣に立っていた綾乃に、血走った眼を向けていた男たちがいたことに】

【日本の異国嫌いの連中か?】

【話を聞け。私は『綾乃に視線が集中した』と言っている。もしお前の言った通りなら、若旦那にも集中せなんだらおかしい。集中したのはな、綾乃が女だからじゃ。それもなかなか見てくれも良いときておる】

【面白れぇ! 若の隣に立つ姉さん狙ったふてぇ奴がいるってか!? しかも俺がいるところで。舐めてやがんな。とっちめてやる】

【やめておけ。国際問題になるぞ。横浜生麦で起きたことで、ただでさえ我が国は横浜に良い感情を持っとらんのでな。英六戦争でも引き起こすつもりか?】

【英六?】

【英国と六浦藩(横浜も一部となっている藩)との戦争じゃよ。薩摩藩の不届き物が、我らの同胞三人を殺したことに端を発し、決めあぐねているようじゃ。戦争を、英薩戦争とするか、英六戦争とするかでな。まぁ、さすがにそれは、横浜に居留する私たちが阻止するつもりじゃがな】


 驚き、体をヴァルピリーナに向けた。八徳にはわかった。綾乃を血走った目で見ていたのは、日本人ではなく、外国人だ。


【日本は島国。我が国の勢力を伸ばす為に来るとして、どうしても長期の船旅を強いられる。屈強な船乗り連中の3大欲求の内、睡眠と食欲はなんとなるとして、あともう一つはどうにもならんからな。そこは、遊郭にいたお前にもわかるじゃろうか】

【そのための遊郭か】


 ジワリと、背筋に汗が拭きあがる感覚を得た八徳。

 少し考えると、思い当ることはあった。


 元は横浜に遊郭はなかったと聞いていた。しかし外国人居留地が出来て、日本人の女に手を出さないようにと幕府が考案、解決策として実施されたのが、お江戸は吉原遊郭の実力者の協力を仰いで、横浜に遊郭を作ったのがおこり。


【外国人居留地より外にさえ出れば、日本人の目がたくさんあるでな、外洋船の船乗りも滅多なことはせんじゃろうが。心せよ。ここは日本の法や秩序も手が出ぬ地ぞ?】


 核心こそ口にして言わないヴァルピリーナ。だが、暗に物語っていた。日本の正義が伸びぬ場所に、女に飢えた外国人船員がひしめいている。そして、もしそのようなところで綾乃が誘拐なんてされようものなら……


【何をされたものか、分かったもんじゃあるまいな?】


 ヴァルピリーナの発言。考えたくもないことだった。

 特に、もしそんなことが起こってしまったとしたら、庄助は一体どうなるか。


【まぁ、この居留地に入りさえしなければ問題ない。奴らも命は惜しいでな。一歩居留地から外に出てしまえば、あとは大人しく遊郭に向かう。いや、殺到するか】

【ッ!】


 遊郭に殺到する外国人船員。想像は容易。

 現に幾たびも見たことのある光景だ。遊郭の通りをのっしのっしと我が物顔で行く男たち。決まってそういった輩は、大なり小なり問題を遊郭で起こすのだ。 


【奴らに、この居留地内で恋人でもできればよいのじゃろうがな】

【どうにもならないのかよ】

【残念ながら、好き好んで命がけの航海を経てこの国まで来るような女子はおらぬ。それでもここにいる女というのは、領事や一定の力を持つ商人の妻や娘。手を出すことはないじゃろう。仮に問題が起きた場合、さすがにその時は、我らが大英帝国法の範疇内。沙汰が下ることにもなるしの】


 やるせない気持ちが募って、椅子を立ち上がった八徳。頭を抱えて、部屋中を歩き回った。


【身分が違うからと言えばそれまでじゃが、それでも同じ女として、彼らに買われた女たちには同情する】


 そこで出てきたセリフ、声色の硬さ。どことなく言の葉は目に見えない矢じりとなり、八徳の背中を突き足したことが、彼をヴァルピリーナへ振り返らせた。


【『女に優しく、常に紳士たれ』という、我が国の誇りあるご高説も、どうやら本能には勝てぬらしい】


 明らかに嫌悪の混じっているヴァルピリーナ。八徳は何も言えなかった。ここまで、不機嫌な顔した彼女を目にしたのは、初めてだった。

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