《港崎カオナシ捕物帖》
生息子(?)通訳。情報屋のカオナシ
(こうして見ると、細かいところや街のつくりに違いはあっても、永真と変わらない)
接待を終え、家路に付こうと、港崎遊郭の四郎兵衛会所方面、すなわち遊郭出入り口に向かうその途中。
八徳、もといカオナシは、空を見上げながら、見世通りを形成する各建物の上階や、軒先に連なる提灯の明かりを目で、喧騒や音楽、笑い声を耳で感じ、嘆息しながらゆっくりと歩みを進めていた。
思い切り鼻で空気を吸い込み、吐き出した。永真とは違う場所だが、それでも覚えのある香りに少しだけホッとしてしまっていた。
(ここで生きてきた頃は、地獄とも思っていたこの匂いが、懐かしいかよ)
そんなことが頭に浮かんだ途端だ。ククっと笑い声がこぼれた。
(本当、転生しちまったんだな。俺)
遊郭の匂いが懐かしいと思った理由。それは既に八徳が、他の場所へ自由に出歩き、そこの匂いをかぐことに慣れていたからだった。
他の土地の、場所の匂いを知っている。それらほかの場所の空気が、永真遊郭の雰囲気しか知らなかった八徳の記憶の棚に、新たに追加されたということ。
それは外国人居留地か? それとも牛鍋宿六庵か。
そもそも、「家に帰ろう」という思いで、遊郭の出入り口に向かおうとしている。
かつて、始末屋の仕事以外、永真遊郭の外に出ることを禁じられた八徳には、ありえない概念。
もうすでに、別で生きる場所が出来たのだということを、あらためて思い知った。
「……解せませんな」
「解せない? 何がです」
そんなことを考えていたから、珍しく自分の世界に飛んで行ってしまっていた八徳は、隣を同じ速さで歩く呉服屋に怪訝な顔を向けられていた。
「貴方が、私と共に帰路についていることですよ。鈴蘭の元に残らなかったことです」
「それが何か?」
「それが何かですと?」
発言の意図もつかめず、問い返した八徳に、呉服屋は信じられないという顔を見せていた。
「鈴蘭ですぞ? 見世自体に馴染みとなって長いゆえの贔屓目でしょうが、鈴蘭は女郎として相当に優秀。もしここがお江戸、場が吉原であったなら、太夫とも称される最上格の遊女に数えられたであろう成長を見せうる逸材」
「それはわかります。あの娘の放つ静謐さは、町民に噂される『月下に咲く華』に相違ない。他の女郎には無い、格別な魅力がある」
「でしたら、どうしてそのまま床入りまで行かんのですか?」
「……あんだって?」
「並みなる男。いえ、ちょっとばかし格があったって、鈴蘭は高嶺の華。貴方の《馴染》の関係は、多くの男が喉から手が出るほど欲しいものに違いありません」
鈴蘭という、
価値観の違いによる現象。
己の目論見の為、普通なら声もかけることが許されぬ絶世の美女を、結果として呉服屋は八徳に与えたはず。
なのに、その価値観を八徳が見いだせていないというなら、与えた好条件は好条件に成り得ない。
情報屋の仕事の承諾に、支障をきたすものとして、心配していたようだった。
「ご心配なさらず。仕事はちゃんとさせてもらいますから」
覆面を被っているから、嗤いかけた八徳の笑みは伝わることはない。だから、ハハハと笑って見せたが、それを受けた呉服屋は複雑そうだった。
「あ、あの、まさかとは思いますが」
「なんです?」
「カオナシ殿は、その‥‥‥生むす(童て)‥‥‥」
「こ、こちとら女の味は知ってるしっ! 生息子(どーてー)じゃねぇしっ! 疑うんじゃねぇよっ!」
寧ろ追加された質問は、なんとも同情のこもった声色。
憐れまれたことに躍起になって、とっさに答えを返した八徳に言葉遣いもへったくれも見えなかった。
「いえいえ、安心しておくんなさい。こちとら生息子と仕事とは、まったく関係ないことくらいわかっております故」
「だから俺はっ!」
「いやぁ、水臭いですなぁ。私に一言でも言ってくだされば鈴蘭に。おぉ、なかなかにそれは、世の男からの嫉妬を集めますな。今をときめく注目の的、新進気鋭の鈴蘭に水揚げ(花魁の中で言えば、遊女としても、女性としても初体験)をしてもらうとは」
「いや、そういう関係はなんとも……」
「行けませんぞ遠慮は。それに、肌を重ねることに金銭を絡める是非どうのこうのなど。生息子の考え方です、まずはとにもかくにも、
「ガハァッ! ひ、人の話を聞いてくれ!」
その反応すら、呉服屋から可愛いものとして楽しまれたこと。八徳が言葉遣いを忘れているのは致し方ない。
(人が黙ってりゃいい気になりやがって。それに気付いてないのか? それともワザと気付かないふりか? アンタが水揚げした鈴蘭と肌重ねたら。アンタまさか、俺に”兄弟”になれって‥‥‥)
それでも、黙っているわけには行かない。自らの誇りの為、伝えるべきところは伝えるべき。息を大きく吸い込み、口を開けた。
『人殺しっ! 人ごろしぃぃぃぃっ!』
『捕まえとくれえっ!』
だが、呉服屋への否定は、実現しなかった。
どこからか警笛が聞こえ、野太い多数の怒声が木霊したことで、遮られてしまったのだった。
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