第十三話 世界を救うことが出来ますか?
天井から樹液が落ちた。二人の間に落ちた透明な液は、歪な形状を何度か経由して五本足の蜘蛛になった。左右のバランスのない蜘蛛は、何度かその場を回った後に、床の隙間に挟まるようにして消える。
先ほどから会議室は一定の形を保つのに苦労しているようだった。雨季にはよくあることで、珍しいことでもない。しかし、前局長のマロードはしきりに文句を言っていたことを、ベティは何となく思い出した。
「君が無敗のままであれば、きっと皆は言うことを聞いただろう。君は特に出しゃばるタイプではないが、統率力はある。しかし、君は失敗をした。私が皆にそれを教えれば、君の信用は地に落ちるだろう」
「……要するに、互いの不利益は黙っていよう。そういうことですか?」
「そんなつもりはないけどね。同じ職場の仲間なんだから、仲良くやろうと言っているだけだよ」
ベティはその言葉を聞いて口角を持ち上げる。笑みの中に嫌悪を織り交ぜた、そんな複雑な表情だった。ランスがそれに気づくより先に無表情に戻り、床を踵で蹴って高らかな音を出す。
「私は失敗などしていない。虚偽の報告もしていない」
「わかってるよ、ベティ。その主張は……」
「私が転移ゲートを使ったのは、異世界から連れ去られた住民に対してです」
再びランスの額の目が開く。しかし今度は、その下の双眸も同じように見開かれていた。部屋に緊迫した空気が張り詰め、先ほどまで騒がしかった壁や天井も静かになる。
「……何だって?」
「異世界協会が言葉だけで人を勧誘したとは、私にはどうしても思えなかった。マロード前局長は貴方と一緒で言葉は豊富です。しかし、魅力的かと言われると少し躊躇う。だから私は考えた。彼らは希望者を寄せ付ける「餌」を持っている」
ベティがアリスに頼んだ最後のお願いは、現実世界に連れ去られた異世界の住人を探すことだった。まだ入国審査が行われる前は、転移ゲートは比較的簡単に使うことが出来たし、監視する者もいなかった。
その時の膨大な記録を、アリスは寝る間も削って調べてくれた。疲れ切った彼女が見つけ出したのは、あまりに不自然な転移記録だった。
「マロードが転移ゲートを開き、ランスが閉じている記録がありました。しかも貴方が局長に就任する前夜のことです。その時だけ仲直りをして、ゲートを開けたり閉じたりしたんですか?」
ランスは答えない。額の眼だけが雄弁に焦りを示している。縦に割れた目の端に、薄青色の体液が滲んでいた。
「連れて行ったのは自在に姿を変えることが出来る異世界の少女でした。彼女の力を希望者に見せれば、それまでは「異世界に行ってみたい」程度だった人間も、「異世界で暮らしたい」と思うでしょう。その人にとっての理想の姿を見せてあげられるんだから、当然です」
ベティはマロードによって連れ去られた少女の保護者に連絡を取り、連れ戻すための手続きを行った。自ら違う世界に行った者の帰還は許されないが、犯罪行為または不可抗力による移動であれば話は別となる。
そして調整事務局の人間には、被害者を救済するための行為が許されている。
「彼女に一芝居打ってもらいました。正直、途中で貴方がたが気付いて入ってきたらどうしようと思って、お互いに気が気ではありませんでしたけど」
あの緊迫した「審査」を思い出しながらベティは言った。
少女は「自分が生まれ育ったのと全く同じ世界に行く」と言った。それはつまり、自分が最初から住んでいた世界に戻りたいという意味になる。決して嘘は言っていない。
敢えてそのような芝居をさせたのは、ランスや他の審査官がベティの企みに気付くことを恐れてのことだが、結果として誰も聞き耳を立てていたものはいなかったため、審査終了後に二人は大きな溜息をついた。
ベティは少女を美味しいケーキと紅茶でもてなした後、転移希望者ではなく帰還希望者として扱い、そして緊急措置法を適用した上で転移ゲートを開いた。
「報告書に記載しなくてはならないのは、異世界転移希望と現世帰還希望。異世界帰還希望は項目にないので記載していません。つまり、私の報告書に虚偽はないのです。……理解、出来ましたか?」
ベティは憐れむような口調で相手に問いかけた。ランスはもはや顔色を喪失しており、茫然とした表情でベティを見ていた。
「少々卑怯な手かもしれませんが、貴方のやったことに比べれば可愛いものです。送還した少女が属するコミュニティは、貴方とマロードを訴えるそうですよ。当然の権利です。貴方に拒否権はない」
「待ってくれ。違うんだ」
掠れた声でランスは言ったが、いつもの凛々しい局長の姿は既にそこになかった。
「私はただ、全ての世界を幸せにしたかっただけだ。いくつもの異世界、いくつもの資源。ある世界では見向きもされない一つの雑草が、他の世界では一億人を助ける薬草になるかもしれない。それらを分断しておくなんて、勿体ないじゃないか」
「美辞麗句だけで生きていければ苦労しません」
ベティはいつも仕事でそうするように、背筋を伸ばして椅子に座りなおした。歪な形で止まった部屋は、二人の動向を見守るかのように静かなままだった。
「なるほど、薬草なんて言葉を持ち出せば大抵の方の賛同は得られそうですね。しかし、それを採取するのは誰が行うのですか? 他の異世界から今回のように人を拉致して連れてきて、労働力とするのではないでしょうね?」
「彼らに仕事を与え、そして人が助かるのなら安いものだと思うよ」
「その世界にはその世界の理があり、そして歴史があります。部外者が「人のためだから」と不用意にかき乱すことは許されません。ある国では昔、「お国のために戦って死ね」という言葉があったそうですが、いい勝負だと思いますよ」
減点一、とベティは語尾に付け加えた。
その言葉に、ランスは少し肩を震わせてから伏せていた顔を上げる。
「ではベティ。滅びそうな異世界があり、自分がその世界を救う術を知っていて、それでも何もするなと言うのか?」
「そうです」
素っ気なくベティは答える。そこには一瞬の迷いもなかった。
「そこは滅びそうな世界であり、滅んだ世界ではないからです。もしかしたら、その中から誰かが抜きんでた才能を発揮して、危機を脱出するかもしれない。一人では無力でも何人もの人が協力して、世界を復活させるかもしれない。貴方がしようとすることは、その可能性を潰すことです」
「でもそんな、奇跡みたいなことが起きるとは限らないじゃないか。だったら……」
「他者の可能性と希望に見切りを付ける権利は、誰にもありません」
強い口調でベティは言い切る。ランスはそれに気圧されて言葉を飲み込んだ。
「要するにそれは「この世界の者は何も出来ない無能ばかりだから助けてやろう」というあまりに傲慢で身勝手な支配欲を、救済という響きの良い言葉で誤魔化しているだけです。自分勝手な理由で世界を支配しないで下さい。減点二」
手の中に書類があるかのように、ベティは掌の上に指で文字を描く。その仕草は傍から見ると少し子供じみていて、ランスは苛立ったような視線を向けていた。
「他に何かありますか」
「……信じられない。君は命が大事ではないのか。果てようとする命を少しでも助けたいと、幸福にしてやりたいと思わないのか。もっともらしい言葉で私を攻撃をして、その間にも危険に晒されている命を何とも思わない冷血……」
「はい、それで結構です」
ベティは面倒そうに言いながら、指の爪を掌に押し付ける。ともすれば大声で叫びだしそうな苛立ちを、自分の手に向けることで紛らわせていた。
「先ほども言った通り、その戦法は私には無意味です。私を冷血と罵って、自分の正当性が保たれると思っているなら、ご自由にどうぞ。私を言いくるめなければ保てないような主張は、ただの屁理屈と言います。大体、人を救うために異世界を利用しようなんて、変な話です」
変、という言葉にランスは少し反応したが、その口は何も発しなかった。何を言ってもベティに言い返されることを悟っていたためであるが、普段は真一文字に結ばれていることの多い口元がだらしなく弛緩しているのが、ベティには少し哀れに見えた。
「貴方は努力をしていない。周りを利用しているだけです。そんなのは救済でもなければ、人助けでもない」
爪の先が皮膚に入り、微弱な痛みをベティの体に伝える。それを振り払うかのように、ベティは浅く息を吸ってから、凛とした声を張り上げた。
「人には望みを叶えるために努力をするという素晴らしい能力があります。「この世界では思い通りにならないから別の世界に」なんて思う人は、どんな場所でも成功しません」
ランスは何も言わなかった。ベティは指を掌から離す。爪の先に紺色の血が微かに付着していた。
「減点三。……貴方の異世界救済を却下します」
トトリバの木が一斉に動き出し、部屋の四方に穴を空ける。その向こう側には、アリスによって集められていた他の審査官達が、戸惑った表情で立ち尽くしていた。
ランスは疲れ切ったような顔で全員の顔を見回すと、首の後ろに手を置いて何度か足踏みをした。最大級の嘆きの仕草は、部屋の中に空しく音を響かせただけに終わる。
「……そうか。会議室が落ち着かなかったのは雨のせいではなかったというわけか」
「証人は必要です。私がそれを怠る女だと思っていましたか?」
「いや。君は完璧だ」
皮肉っぽい口調で、ランスは言った。しかしその声に覇気はない。
「惜しむらくは、君が完璧すぎたことだね」
「私は完璧などではありません。ただ自分に嘘を吐かないだけ。それを勘違いしているから、貴方は失敗したんです」
ランスは力のない笑みを浮かべて、そのまま項垂れた。額の眼だけがその内面を正直に曝け出し、青い体液を流し続けていた。
「アリスちゃん、今回はご苦労様」
部屋の外は騒がしい。ベティはそれを気にする様子もなく、特製の星屑茶に柘榴石を浮かべたものをアリスに差し出した。
「お陰で卑怯な局長と前局長は排除出来たし、異世界転移協会も消滅。暫くの間は楽出来そうだね」
アリスは同意を示しつつ、紅茶に触手を伸ばす。しかしそれを口に運ぶ直前で思いとどまると、ベティに少し不満そうな声を投げかけた。
「……だって仕方ないでしょ。アリスちゃんには皆を集めてもらう必要があったんだし。大体、あの局長の能力は亜空間生成。私には効果ないもの……って、アリスちゃん?」
アリスの体に赤い目が増えるのを見て、ベティは瞬時に青ざめた。これはアリスが怒っていることを示すものであり、凡そ怖いもの知らずで豪胆なベティが唯一恐れるものでもある。
「ごめんなさい、アリスちゃん。黙って無茶したのは謝るから、許してよぉ。あっ、そ、そうだ。炭熊ケーキ買ってきたんだよ。あのビンキーナの一角にある人気店の」
あの手この手でベティはアリスの機嫌を取ろうとする。しかし、アリスはますます不機嫌になって黙り込んでしまった。平素はとても大人しくて優しい分、一度怒ると中々クールダウンしない。
今回の件に関してはベティも多少も後ろめたい部分があったため、ひたすら彼女の機嫌を取るしかなかった。
「じゃ、じゃあ今度一緒にお茶しに行こう? それとも、アリスちゃんのおうちでホームパーティする?」
ドアの向こうでは、マロードが捕まったと皆が口々に言いながらどこかに走っていく音が聞こえている。しかしベティにはそんなことはどうでもよいことだった。
万一アリスに嫌われでもしたら、ベティは半永久的に絶望出来る自信がある。どんなに仕事で成功しても、美味しい紅茶とお菓子があっても、アリスがいなければ意味がない。
先日もランス相手に啖呵を切って見せたが、あれとて半分ほどはアリスのためである。嘘を吐く自分をアリスに見せるなんて、ベティにとってはとんでもないことだった。
「アリスちゃん、ごめんなさい! 謝るから許してぇ!」
異世界調整事務局の若干二名は、今日も今日とて平和である。
異世界に行きたい人を追い返すだけの簡単なお仕事です 完
異世界に行きたい人を追い返すだけの簡単なお仕事です 淡島かりす @karisu_A
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