異世界に行きたい人を追い返すだけの簡単なお仕事です

淡島かりす

第一話 生ゴミ捨てました?

 男は途方に暮れて、目の前のテーブルを見た。木なのか石なのかよくわからない素材で作られた大きなテーブルの上には、本やら紙やらが所狭しと置かれている。だがそれらは見たこともない文字や装丁をしていて、中には本当に本なのか怪しい物体まである。


 そしてテーブルを挟んで向かい側にいるのは、一人の少女だった。まだ成人するまでに何年かかかるだろう見た目。緩い癖のある長い髪は黄色とピンクが混じっていて、街角で売られているアイスクリームを思い出させる。アーモンド形の茶色い瞳は可愛らしいが、黒縁の眼鏡がそれを台無しにしていた。


 テーブルの下から覗く足は床についておらず、年齢に不釣り合いな黒いヒールが一緒に揺れている。まるで子供が、親の仕事机にふざけて座っているかのようだった。


「あの……」


 男は何か言おうと口を開く。だが少女はそれを跳ねのけるような高い声で遮った。少し舌足らずな部分も残るあどけなさと、大人びた口調がアンバランスに部屋に響く。


「トラックですか? 昼寝ですか? それとも駅のプラットホームから落ちました?」


「え、あの」


「お仕事は? 営業マン。疲れてますね。日々の業務で身も心もボロボロになり「あぁ、どこかに行きたいなー」と思ったら、此処に来ちゃった。そんなところでしょうか」


 一気に捲し立てられて、男は言葉に詰まっていたが、少女の最後の台詞を聞くと目を輝かせた。


「まさか、此処が異世……」


「違います」


 あっさりと切り捨てられて、男は意気消沈する。皺のよったスーツが小さく衣擦れの音を立てた。


「正確に言うと、此処は異世界と現実の境目です。入国審査ゲートとでも思ってください。申し遅れました。私は異世界調整事務局所属、入国審査官のベティと言います」


 少女は早口のまま自己紹介を終えると、手元の書類をめくった。


「あー、やっぱり営業マンですね。ホームから転落して電車に轢かれる寸前で転送。営業マンも多いんですよ。一番多いのは引きこもりの高校生とか、三徹中のシステムエンジニアですけど。去年の異世界転生統計見ます?」


「入国審査ってことは、異世界に行けるんだな!?」


 ベティの言葉に気力を取り戻した男は、椅子から身を乗り出すように叫ぶ。だが、ベティはそれにも大した反応は見せなかった。


「えぇ、そうですよ。でもいくつか確認しなければいけないことがあるんです。審査、ですから」


「俺の営業スキルを活かせるような場所に行きたいんだ! これでも靴職人を目指していたこともある。好きが高じて靴メーカーに入社したんだけど、来る日も来る日も営業ばかり。自社の靴を履きつぶす生活にうんざりしていたんだ。そうだな、靴の文化がまだ発展していない……」


「納税済んでます?」


「は?」


「のーぜい。国民の義務でしょ」


 急に現実的な単語を叩きつけられた男は、再び困惑した。ベティは何度も何度も見た表情に飽き飽きしながら、話を続ける。


「あのですね、異世界に行ったら貴方は現実世界では行方不明になるんですよ。一人暮らしですか?」


「あぁ、まぁそうだけど」


「家賃は?」


「引き落とし」


「じゃあ口座の残高が無くなるまでは大家さんも安心ですね。で、おうちに生ごみありますか?」


 男が頷くと、ベティは紙にペンを走らせた。鱗で出来た飾りが、文字を書くたびに揺れて照明を反射する。


「はい、減点一。貴方がいなくなることでそれらは腐敗しますね。誰が片づけるんですか?」


「それは、その……管理会社の人?」


「迷惑極まりありません。お隣の人だって大変です。異世界に行きたいなら生ごみは捨てて来てください。常識です」


「常識って……」


 何か言い返そうとした男だったが、ベティはすぐに次の質問に移る。

 このところ異世界に行こうとする者が多すぎて、一人に掛ける時間が長く取れない。上司は申し訳なさそうにしているが、人員が増える様子もなく、まだ当分は激務が続きそうだった。


「因みにその荷物ですが」


 男が抱えている鞄に目をつけたベティは、舐めるようにそれを見回す。


「あぁ、中身は書類ですね。社外秘、契約書、客先一覧。それらは会社の資産にあたる可能性があります。此処で貴方が異世界に行った場合、窃盗に値します。減点三」


「ちょ……ちょっと待ってくれ!」


 椅子から立ち上がった男は、半分怒りを滲ませながらベティの方に一歩踏み出す。


「何なんだ、さっきから。異世界に行くのに生ごみがどうとか、書類がどうとか……! この世界に戻ってこないなら、俺が気にする必要のないことじゃないか!」


「あのですねぇ。こちらは犯罪者などを異世界に送ってはいけないんです。そのために審査をしています。何か文句がありますか?」


「でも異世界に行くやつは多いんだろう? さっき言ってたじゃないか」


「多くなったので、異世界から苦情が来たんです。考えてくださいよ。静かに文化を守って暮らしていたところに、外から来た連中が好き勝手やってるんですから。京都の街並みにペンキまき散らしてゴーカートするようなものです」


 大きな溜息をついて、ベティは眼鏡の弦を指で押し上げた。


「前までは異世界に誰かが行くと、私たちが彼らの痕跡を消したり、帳尻を合わせることにより現実世界での混乱が起きないように配慮してきました。でも、数が多くて対処しきれなくなってきたので、入国制限を行うことにしました」


「そんな勝手な……」


「後ですね、皆さん勘違いしていますが、都合の良い異世界に絶対に行けるわけじゃありません。偶に無事に審査を通過する人もいますけど、「思っていたのと違った」とか騒ぎ立てたり、ただ異世界から来たグータラとして村人に寄生したり、酷いのになると窃盗や殺人を犯す人までいます。それを防止したいと考えるのは至極当然です」


 書類をテーブルに置いたベティは、指でその上にバツ印を描く。黄色い光がそれを追従するように紙に浮かび、複雑な模様の押印が出来上がった。


「貴方は減点三ですので、異世界には行けません。お引き取り下さい」


「いやいやいや、待ってくれ。そんなので決められたら……」


 抗議するために男はベティのテーブルに手を掛けた。

 途端に、ベティの目に殺気に似たものが宿る。髪がゆらりと揺れて、隠れていた尖った耳が露出した。


「ケースAと見做します。強制帰還」


 床に亀裂が入り、それが左右に分かれた。その下に待ち構えていたのは混沌とした黒い渦、そして血走った眼と緑色の長い舌だった。


「それではごきげんよう。あ、一つ忠告します」


 足場を失った男は、黒い渦の中に落ちる。

 ヘドロのように生臭く、粘性のある渦からは、逃げることはおろか動くことすら出来ない。慌てふためく男の体を、緑色の舌が絡めとって中に引きずり込む。


「現世に戻った時は、こちらに来る直前……つまり、電車の前から再開しますので、頑張って避けて下さいね」


 男は何かを叫びながら渦の中へと飲み込まれていく。

 鞄を握りしめていた左腕がベティの視界から消える頃、床の亀裂は元に戻ろうとしていた。ゆっくりと、しかし容赦なく閉じていく亀裂を一瞥して、ベティは肩を竦める。


「アリスちゃんもお疲れだね。お茶にしよっか」


 床の下から、地響きのような声が返答する。部下でもあり友人でもある「彼女」のために、ベティは椅子から立ち上がる。テーブルに積み上げた本が雪崩れて床に落ちたが、それを拾う気力はなかった。

 今日で既に五人目の異世界希望者。そろそろ書類に失格印を押すのも飽きてきた。


「何がいいかなー。イノシシ茶でしょ、ルリカケス茶、鉄鋼茶なんてどう?」


 棚の中に並べられた缶を一つずつ手に取りながら、ベティは問いかける。何度かの審議の末に、今日のティータイムは焼きメロンと真珠茶に決定した。


「もうこれ以上、異世界に人を入れるわけに行かないもんね。どんな手使ってでも追い返さなきゃ」


 「異世界調整事務局」は、近年増加傾向にある異世界転移案件が、互いの世界に悪影響が及ばないように設立された。異なる二つの世界が、万が一にも干渉しあってはならないし、片方の影響がもう一方に及ぶことも許されない。

 職員達はそのために日夜奮闘してきたが、一年前に事務局長が交代となってから、方針が大幅に転換された。


 異世界転移を最小限に留めること。


 ベティを始めとした職員達は、「審査官」となって異世界に転移しようとする者を寸前で食い止める役目を担うこととなった。「異世界に影響を与えない」という前提がある以上、彼女たちは転移する人々を強制的に追い返すことは許されない。

 従って、このように「審査」を行って、あくまで合法的に現世に戻ってもらう必要がある。


「でも、どうして皆異世界なんて行きたがるのかなぁ?」


 さっぱりわからない、とベティは首を傾げる。床の下から同意を示す声が返ってきた。

 窓の外には五つの月が色を変えながら空を縦横無尽に動き回る。

 隣の部屋で誰かが悲鳴を上げながら許しを請うのが聞こえたが、ベティは我関せずとティーカップを口に運んだ。異世界調整事務局は今日も平和である。

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